最終話
8
みんな、みんな居なくなっていく。
中村さんも、佐藤さんも、コウちゃんも、大石さんも。
最後に残ったのは、私と國島さんだけだった。
「あった!出口だ!行こう、あずさ!」
そういって私の手を引いていく國島さん。
ようやくここ出られるのだろうか。
なんの為に?
わからない。
私の意識は、未だ地下牢から抜け出せていないのかもしれない。
そう、やはり私は抜け出せないのだ。
まだ抜け出せていない。
行かなきゃいけないのに。
助けなきゃいけないのに。
取り戻さないと、行けないのに。
行かなきゃ…!
あの子のもとまで…!
「ッ、ッグ…ぁ…………。」
そうして、目を開けるとそこは暗く、狭く、冷たい場所だった。
体中、痛みを訴えていない所がない。
痛みがない箇所があるとしたら、そこはもう手遅れなのだろう。
「………ぁ……ぅ……。」
声は、咳のし過ぎで喉がやられてから、もう出なくなっていた。
枯れ木のように細く、あかぎれで真っ赤な手を、少し動かそうとするだけで全身に激痛が走る。
心臓はかじかんで、段々とその鼓動を弱めていく。
少しずつ、つま先から死んでいく感覚。
ああ、そうだ。私はここに入れられて、誰からも見放されて、一人ぼっちで死んでいくんだ。
でも、何か忘れているような気がする。
それは、なんだったか。
とても大事で、何より重要で、何にも変えられないもの。
私は、それを見つけた筈だ。
手にした筈だ。
今はここに、もう無い何か。
「………?……。」
呼ばれている。
私を呼ぶ声がする。
その声、その存在を感じる程、消えかけていた心臓の脈動が加速する。
「い、か…なきゃ………。」
床に手をついて、重いのか、軽いのかわからない体を起こす。
今度は腕の痛みは気にならなかった。
木格子を掴んで立ち上がる。
足は震えに震えていた。
関係ない。まだ歩ける。
なら、行かなきゃいけない。
あの声のもとまで…!
「う…ぐ…ぁああ…!」
一歩進むたびに走る激痛は、何度繰り返しても、慣れることはない。
「う…うっ…うぐぅ…。」
悲鳴を上げながら、それでも前に進む。
木格子の扉に手をかけて体重を乗せると、それだけで私と共に倒れ込んだ。
腐って傷んでいたんだろうか。
どうでもいい。
今はただ、前に進むだけだ。
冷たい石畳を一歩、また一歩と足を動かす。
たかが、数分で終わる通路が永遠に続くかのように思える。
だが、進む。
今行かなければ、絶対後悔する。
そんな予感がある。
どれくらい時間をかけただろうか。
ようやく地下牢から脱出することができた。
そうしてまた、長い道のりを歩く。
石でできているか、木でできているかの違いだけ。
「行かな…きゃ…。たすけ…なきゃ…!」
あの子は私の元から奪われた。
そうして、あの子からも自由が奪われようとしている。
なら、それを阻止するのは、他ならぬ母親の役目だろう。
私にはそうしてくれる母が、いなかった。
私には助けを求められる父がいなかった。
でも、私の人生は多くの優しい人たちによって支えられてきた。
祖母の献身も。
友人の優しさも。
皆の助けも。
今あの子にはその支えがない。
なら、私が助けてあげなきゃ…。
しばらく歩を進めると、何かぬるりとしたもの踏んで、転びそうになる。
暗くて、よく見えない。
これは…一体…?
霞んで、開けるのも辛い目で、懸命に、凝視する。
答えは暫く先にあった。
首のない、男の死体。
人生で、初めて見た人の死に、叫びそうになる。
しかし、それを押し込んで先に進む気力をくれたのは、救いたいという強い気持ちと、少しの焦りだった。
ここで、何かが起こっている。
あの子の無事を確かめないといけない。
側にあった襖を開ける。
今度はあまり驚かなかった。
むせ返るような血の匂い。
幸い嗅覚も少し麻痺していたから、吐いてしまうようなことは無かったが。
「……ぐっ…ハァ…ハァ…。」
焦りが募っていく。
急いで手当たり次第に襖を開けていった。
死、死、死、死…。
気が狂いそうになる。
たった一本の希望を辿って、何とか正気を保った。
大丈夫、大丈夫。あの子はきっと大丈夫。
ここには、いない。
そう判断して、通路に下りていた梯子に手をかける。
登るとは大変だったが、何度か滑り落ちながらもようやく地上へ出ることができた。
そこは見覚えがあった。
あたしが、けして短くない時間を過ごした屋敷だ。
なら、少しは間取りが把握できる。
長い間動いていたからだろうか、体のふらつきが大きくなっていく。
何度か、着物の裾を踏んで転んでしまう。
「う…、ぐぅ…はぁ…はぁ…。」
泣きそうだった。
人生でこんなに痛みを感じさせることなんてなかったから。
あの子を産み落としたときだってこんなに長い事苦しみはしなかった。
挫けそうになりながら。
一つ、一つ部屋を確認していく。
そこで、見つけた。
小さな体躯が床に転がっている。
横には世話をしていた人だろうか。
やはり転がっている。
よかった、見つかってよかった。
そばによって、だき抱える。
動かない。眠っているのだろうか。
「由季…由季…。お母さんだよ…。ほら、起きて…。」
優しくて揺らして、目覚めを促す。
そうしたら、ほら…目を開けて、うるさいくらいに泣き始めて…。
動かない。
微動だにせず、その体からはすばての力が抜けきっている。
「あ、あぁぁ…!」
違う、違う!こんなのあり得ない…!
やっと、やっとこの世界に出てこれたんだ。
来てくれたんだ、なのに。
「あぁ、ああぁぁぁ!いやっ!いやっ!」
そんなの嫌だ!
やっと会えたのに!やっと一緒に生きれるって。
「いやぁぁぁぁぁ!!!!」
枯れ果てたはずの喉は裂けんばかりだ。
もう、もうでもいい…。
所詮、夢だったのか。
目を瞑る度、思い浮かべたあの日々は。
叫びちらしても、床を殴っても、この胸から地獄のような苦しみは消えてくれない。
これは喪失の苦しみ。
私は、こんなに愛しているのに、求めているのに。
誰も彼もこの手からこぼれ落ちていってしまう。
なら、もう…。
立ち上がって通路へと足を運ぶ。
歩いて…歩いて…。
出口が見えた。
頭には何もない。
眼前に、誰か立っている。
誰でもいい。
「梓様、梓様!どうしてここに!」
「そのお姿は…!?一体…?」
駆け寄ってきた。
その手には、凶悪な刃物が握られている。
血が…こびりついている。
肉が…髪の毛が…。
瞬間、自分の胸の中がドス黒い何かで満たされた。
初めての感覚だった。
知らない感情。
腕が伸びる。男の喉へ。
「あずさ……様?」
そうしてそのまま握り込んだ。
「グッ!…がっ!アッ…カハッ!」
自分でも信じられないほどの力が腕を動かしている。
でも、コイツだ。
あの子を私から奪ったのは。
ならいいじゃないか。
こいつにも、あの子と同じ苦しみを味合わせればいい。
喉にこびりつくような吐息とともに、出てきたこれは。
「かえせ……。」
「かぁぁえぇぇせぇ!!!!」
これは、知らない感情。
でも、誰もが知っている。
憎しみだ、恨みだ、復讐だ。
男の顔は血が止まって、既に赤みを帯びている。
「ガッ…ぐ……は……。」
「あ……ず…ガハッ……あずさ…。」
そのまま押し倒す。馬乗りになって首を圧迫する。
「かえせ…返せ!!あの子を、返せぇ!」
胸には、空虚な喪失感。しかし色だけがどす黒く変わっていく。
「あず…さ…。しっか……り…しろ。」
まだ言葉を発する余裕があるようだ。
「あずさ…!しっかりしろ……!あずさ!!!」
「返せッ!返せッ……!」
「しっかりしろッ!…母さん!!!!!!!」
「えっ…。」
驚いて、力が抜けていく。
今、何て…?
「しっかりしろ…!母さん!」
驚愕に目を見開いた。
それだけ大きく目を開けて、ようやく眼前にある顔が目に入った。
今、自分が馬乗りになって殺そうとしているのは。
「…あ…なたは…。くに、しまさん…?」
「やっと、気づいたかよ!!」
首を絞められているにも関わらず、挑むように笑っている。
「ガッ!おい、ぐっ…!とりあえ…ず…やめろ!!」
「え、あ、ご、ごめんなさい!」
「と言いつつ…グッ…何で手を緩めねぇ…ガハッ!」
意識ははっきりとしているのに、今だ体が止まらない。
依然、信じられない力で目標を絞殺しようとしている。
「い、嫌だ…私、殺したくない…!嫌、止まって…止まって!!」
幾ら口で、懇願しても、体は殺意を忘れない。
自分の中に蓄積した汚泥に囚われているような感覚。
「ぐぅ…おああぁぁ!!」
突然、國島さんが吼える。
「コオォォォウ!!出番だあぁ!!!!!」
次の瞬間。
私に向かって背後から、一つの黒い塊が弾丸の様に跳ねた。
ダンッダンッダンッ!
それは、迅雷の速さで壁という壁を跳弾する。
そして私の横っ腹に、その勢いのまま、突き刺さった。
衝撃を食らったと思った時には既に、宙を舞っている私の体。
「ガッ…ハッ…!?」
驚きも刹那の事、直ぐに壁に叩きつけられ、ドサリと地面に転がる。
「ば、かやろう!やり過ぎだ…!コウ!」
ようやく私から開放された國島さんは、先程吹っ飛んできた影を叱りつけている。
あれは…一体…?
「……でも、先生…あの人、強い…。」
声を聞いて、ようやく確信できた。
信じられない…!
「コウ…ちゃん……?」
「ホントに…?コウちゃん、なの?でも、あのとき死んじゃったはずじゃ…?」
コウ、と呼ばれて彼女は振り返ってゆったりとした口調で返事をした。
「……死んだ、フリ…。」
「え、えっ…?え?」
何を言ってるのか、分からなかった。
彼女とは、突然厠へ行く、と言った大石さんについて行ったきりになった筈だ。
私達が追いかけて、彼らを見つけた頃には、互いが互いを刺殺している、という奇妙な状態で亡くなっているのを見た。
でも、彼女は現にこうして私を蹴り飛ばす程にピンピンとしている。
「どう…いうことですか?國島さん…?」
「………そろそろ…いいか。」
彼はフゥと、一息ついて。
「みんな!もういいぞ!出てこい!」
そう、一声上げると3人、いや4人の人物がそれぞれの別の扉から現れた。
それは全て見たことのある顔。
「中村さん…佐藤さん…大石さんまで…。」
「ますますわかりません…一体何が…?」
再び、國島さんへと疑問の視線を向ける。
「恩返し、かな。」
「……は?」
会話になっていない。
彼が何を言っているのか理解できない。
私の質問に対する答えが、その意味を成していない。
「い、いい加減真面目に答えて下さいッ!」
まるで相手にされていないかの様な対応にイライラが募る。
「…あんたはもう覚えていないだろうけど、俺は一度、岡田あずさに救われたことがあるんだよ。」
「…わ、私が…?」
全く記憶にない、と言うかそんな事はありえない。
「そんな訳…無いじゃないですか。」
「わたし…全て…思い出したんです…。」
そう、全て思い出してしまった。
この惨劇を通して。
「ここで何が起こったか、私が何をしてきたか。」
「私は、人を殺したんです。」
「そればかりか、この体が死んでもなお、ここに残り続けて関係のない人を招いて…。」
「なにより、あの子を救うことさえできなかった。」
「きっと、今の私は呪いそのものなんです。」
「ここで起きた数々の悲劇。そこで生まれた悲しみや嘆き、そんな怨念の塊そのものなんですよ。」
「だから救う、なんて見当違いも甚だしいです。」
「現に、さっきだって國島さんを殺そうとして…。」
そう言いながら顔を上げると、いつの間にか目の前に彼が立っていた。
「ん?終わったか?」
まるで聞いていなかったとでも言うような口振り。
「あ、あの私本気でっ…。」
「ほい。もう、体は動くんだろ?立てるか?」
そういって、手を差し出してきた。
「……あの、私が怖くないんですか…?」
「そ、その…私は幽霊…なんですよ…?」
今度は彼が呆気にとられる番のようだった。
「だから、言ったろ。俺はその幽霊さんに助けられて、ここにいるんだよ。」
分からない。何より彼のような人、私の人生で一度も記憶に無い。
もしあったとしたら、それこそ絶対に忘れないだろう。
「俺は昔、10年くらい前に一度ここに来たことがある。」
「え…?」
「そこで、今日全く同じことがあったんだ。と、いうか今日のそれが10年前の再現なんだが。」
「何故、そんな事を…。」
「言ったろ、あんたを助けに来たって。」
「あんたは、何故かここに閉じ込められた時、最初記憶がなかった。」
「だが、殺人が起こるに連れ、屋敷を探索するごとに、記憶が蘇っていき、最後は我が子の恨みに囚われて俺を殺そうとした。」
國島さんは、私の知らない、十年前の出来事を語る。
彼が何故そこまで知り得たかも分からなかったが、何より。
「10年前も…私は國島さんを殺そうとしたんですか?」
「ああ。」
「じゃあ何で…?それの何処が救われたって言うんですか!?」
「今日だって結局…私は貴方を殺そうと…。」
彼は、呆れたように笑って首を振った。
「それとは、別の事だ。忘れているなら、別にそれでいいさ。」
彼は何か、懐かしいものを掘り起こすように目を瞑って微笑みを崩さない。
「とにかく、俺はあんたを救うと決めた。そのためには、一旦全部思い出してもらった方が早いと思ってな。わざわざ前回の再現をしたって訳だ。」
「…それで私がどうやって救えるんでしょう。」
「私を消してしまいたいなら、それこそこの屋敷ごと破壊してしまえばいい。」
「いいや、それじゃあ駄目なんだ。」
「……?」
「それじゃあ、あんたはずっとここで苦しみ続けるだけだ。」
「現に、ここは一度崩壊している。」
「建物は全壊、地下室さえも崩れ去った。」
「じゃあ、ここはどこなんです…?」
「俺が、記憶の限り間取りを再現した築2年の新築だ。」
「なっ…!!」
まさかの事実。
確かに今思い出してみれば、記憶にあった旧家にしては床がツルツルしていたり、妙に小綺麗だったりしていた。
「実際、地下室までは再現できなくてね。だから、全て地上に作った。」
「んで、あんたが色々思い出したんなら、願いを叶えてやらなくちゃな。」
「願い…?」
そんなもの、私に合っただろうか。
「あるだろ、何もかもなげうってでも、叶えたかった願いってやつが。」
「…………。」
それは、もう…。
そこまで言って國島さんは、未だに、座り込んでいる私の手を拾って、しっかりと握った。
「ほら、いつまで座ってんだよ。」
グイッと引っ張られ、無理やり立ち上がらされる。
「わ、わわ。」
そうして、私と手を繋いだ、そのままでどこかへ歩き出す。
「ちょ、ちょっと何処行くんですか!」
「こんな、辛気臭い屋敷で話してても、何だろ。外に出ようぜ。」
狼狽える私を連れてガラリと扉を開けた。
すると、フワリとまとわりつくような熱い、暑い空気が顔を撫でた。
「………あ……。」
扉の外にある世界は、白く明るくて。
目に痛いほど鮮やかな緑が生い茂っている。
「夏…だったんだ…。」
「んー!いや、ここは本当に見晴らしが良いな。」
一歩外へと踏み出した。
すると、草の葉が優しく、私の裸足の足裏をくすぐる。
柔らかい地面を踏みしめて、外へと歩き出した。
さっきまで毛ほども感じなかった、うだる暑さ、爽やかな薫風。
眼下には森が悠然と広がっている。
空を見上げれば、一面吸い込まれそうな蒼穹と。
巨大な入道雲が、どこまでも、どこまでも伸びている。
それは、いつか夢見た光景に酷く似ていて。
刺すような明るさに、思わず手でひさしをつくって、顔を覆う。
「そうそう、あんたに渡すものがあるんだ。」
そういって、國島さんがポケットを弄って取り出したのは。
「こ、れは…。」
彼が差し出した手の中にあったのは。
赤い赤い2つの鈴のついた耳飾り。
「こ、これをどこで…!」
これは、あの子と私を繋いでいたはずのたった一組のもの。
「ある人から、あんたに渡すよう頼まれたんだよ。」
「それは……。」
いったい、誰だ?
「岡田 由季さん、その人だ。」
え……?
「今、なんて…。」
「これは、岡田 由季さんから、俺が直接預かったものだ。」
一瞬頭が真っ白になった。
恐る恐る、その耳飾りを受け取る。
祖母がいつもつけていたもの。
私が、あの子と同じ時を過ごす為に預けたもの。
その頃から、何も変わっていない。
大切に扱われていたのがありありとわかる。
これは本当に、あの、耳飾りだ。
「これを…あの子、由季から…?」
「ああ、そうだ。」
「で、でもあの子はもう…私が間に合わなくって、それで!」
「それは、本当に、岡田由さんだったか?」
「…え?」
問いかけの意味をすぐに理解できない。
あの時、あの場所でガラクタのように転がされていた、あの赤子は、本当にあの子だったのか。
確かに、私はろくに顔も確認しなかった。
したところで、わかったかどうか。
ただ、同じ歳くらいの赤子であった、というだけでそう思い込んでいただけなんじゃないのか。
あの子は、生きていた…?
「あのっ!くにしまさっ」
問いかけようとすると、私の目の前から國島さんは消えていた。
首を振って彼の姿を、探すと、数メートル先で手招きしていた。
「こっちだ。」
そう言って私を呼んだ、歩く彼の後をついていく。
歩きながら問いかける。
「あの…國島さん、あの子が、生きているんなら…今は?」
そう恐る恐る尋ねても、彼はこちらを振り向かず、返事を返すことも無かった。
答えは、私達が進む先にある、ということだろうか。
暫く、私達は言葉を発さずに、木々で囲われた石畳の道を歩いていく。
最も、私は何が待ち受けるのか、それを考えただけで、動揺が抑えきれず、喋るどころではなくなっていた。
そして、とうとう木々の開けた場所へと出た。
そこにあったのは。
墓、だった。
「享年65歳、ここが岡田由季さんのお墓だ。」
「彼は、あんたの体験した惨劇があった夜、女中の咲希さんという方に連れ出され、そのままその人の元で育ってられた。」
ああ、これがあの子が最後まで生きた証。
「俺が出会ったのは、およそ8年前、あの人が病で亡くなったのは6年前だ。」
「その目で母親を見ることができない事に、とても悔しがっていた。」
「俺は、代わりにこの耳飾りを返して欲しい、と頼まれたんだ。」
「自分の人生で、これが助けになった事は数え切れない、そう言っていた。」
「だから、今度は自分が返さなきゃいけない、ともな。」
「あの人は、これを通じて確かに母の愛を感じていた。」
「あんたの想いは嫌って程通じてたみたいだぜ。」
國島さんは一言一言、私に語りかけるように思い出を口にする。
「國島さん…あの子は…最後にどんな顔をしていたでしょうか…笑って、いましたか…?」
「はっ、最後と言わず、あの人はしょっちゅう笑ってたさ。」
ああ、じゃあ、楽しめたんだね。
自分の人生を。
生きれたんだね。
自分のために。
幸せで、いられたんだね。
「…ふ…ふふ、あ…はは……。」
笑いが漏れる。
「あ、はは!アハハハ!!!」
涙が溢れる。
「アハハハ、はははっ…!」
「…は…っく…ひっく…ぇ…ぐ…。」
あの子は、見ることができたんだ。
この世界を、この、抜けるような青い空、落ちてきそうな雲がある場所で。
そよぐ原っぱをかけることだって、出来たんだ。
手の甲で、涙を拭う。
追いつかない、まさに堰を切ったように零れだす。
拭って、拭って、ああ、もうダメだ。
追いつかない。
その雪崩のような感情を堰き止めることを、諦めた。
「う…ぐあっ…う、あーーん!」
「あ、わぁぁん。…うわぁぁぁん!」
もう駄目だった。
みっともなく泣き散らかして、しりもちをつくこと以外もう何もできない。
「よかった…よぉ!良かったよぉぉ!!!」
「生きててくれて!良かったよぉぉぉ!!」
「うっ、ぐっああ、あぁぁん!!」
そうして、泣き続けている私を見て國島さんは。
「うっ、ププッ…め、めっちゃ泣いてる…!」
笑っていた。
「ッヒグ!なぁ、なぁんで笑うんですかぁぁ!!エッグ…!」
怒りながらも、涙は勢いを緩めようとしない。
「い、いやお前今、す、すごい顔してるぞ!!アハハ!」
「あ、イテ!ちょっ!殴るな!お前力強いんだから。プククッ!アッハッハッハッ!!」
「わらぅなぁぁぁ!!!うぇぇぇぇん!!!!」
「アハハハハ!!!」
いつまでそうしていただろうか、
私達は、泣きつかれて、笑い疲れて、お互い地面に転がっていた。
「いや、こんなに笑ったのは久しぶりだ。」
「笑うなっていったのに!國島さんはどうしてそう意地悪なんですか!」
「いいや、からかいがいのありすぎるその身を恨め。」
私は重い腰を上げた。そろそろ、良いだろう。
「もう、いいのか?」
「ええ、もう、いいです。」
「願い、叶えてもらっちゃいましたから。」
「救って、貰っちゃいましたから…。」
「私は、あの子が幸せだった。それだけで、同じ気持ちなんです。」
「そう…か。」
サァ…と、そよ風が吹いた。
初夏の、新葉の匂いがする。
「だがま、自分勝手に生きてみるってのも、以外に乙なもんだぜ?」
私を見上げる彼は、はにかんで言った。
「皆がみんな、國島さんほど勝手に生きてちゃ、この世の終わりです。」
「おいおい、言いすぎだろ…。」
また、目が合った。それだけで互いに笑ってしまう。
「でも、それもきっと楽しそうですね…。」
想像する。
自分の為に、何かをして、達成する。
うん、何だかそれは心地がいいな。
「じゃあ、行きます。」
そう言って、お辞儀をした彼女の服装は、いつの間にか紅葉を具現化した様な、赤い着物から、夏服用のセーラー服へと変わっていた。
「ありがとうございました。」
「……ああ、行ってらっしゃい。あずさ。」
さよなら、では無く行ってらっしゃい。
俺がそう言うと、同じく満面の笑みを浮かべて、同じ言葉を返した。
「由季、行ってくるねっ!」
そう言って、満面の笑みで出発する。
跳ねるように足を進める。
ワクワクとした面持ちで丘を降りていく。
彼女は、もう振り返らない。
その遠くなっていく、希望に満ちた背中をただ見つめる。
「先生。」
声が掛かって、振り返った。
「行きましたか、彼女は。」
そこにはメガネをかけた青年がいた。
「ああ、行ったよ。」
隣には、こんな真夏に黒いパーカーで身を包んだ少女がいる。
「…あずさ、また会える………?」
「さあ、どうだろうな。」
そう、もうわからない。
俺にだってわからない。
旅をして回るだろうか。
あの子に会いに行くのだろうか。
きっとこれ以上、彼女の物語を知るものは、彼女自身以外には存在しない。
もう、何にも囚われてはいないのだから。
あの娘は自分の為に生きていけるのだから。
「みんなお疲れさん。」
「いえいえ、先生に比べたら大したことはありません。この十年、あなたがどれ程奔走したか、ここにいる全員知っていますから。」
でも今生の別れなんかじゃない。
彼女の歩みを背に、俺も再び歩きはじめる。
「ま、じゃあお疲れ様会でも開くか。」
「あずさも、くるー…?」
「あー、それはだな。」
「こないの……?」
「こら、コウ!先生を困らせるな。」
「うーん、そだな。じゃあ代わりに今夜は焼肉行こう!焼肉!」
「わーい…!わたし、焼肉だい好き…!」
「単純な子に育ったなぁ……。」
ミーンミーンミーンミーン。
ふと、少女が歩いていった道の方へ振り返る。
夏の強い日差しに巻かれて、彼女の姿はもう見えなかった。
でもきっとまた、いつか……。