第六話
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その通路に入ったときから、妙な予感があった。
暗い通路、硬い地面、不気味な雰囲気が警告だったのかもしれない。
「にしても、嫌ですね。こういうジメジメしたところは。」
「なんだか、新種の虫とか出てきそうで気持ち悪いというか。」
「こう、妙な感染症とかに掛かりそうな気がして、息が無意識に控えめになったりしません?」
私は今、おかしくなって独り言をまくし立てているとかではない。
私はちゃんと、人と話をしているのだ。
ただ、返事が無いから会話が成立していないだけで。
口をそのまま動かしつつ、横目でちらりとその人物を見る。
黒くて、一回り大きい上着を着た少年だ。
第一印象は小柄な子だったが、並ぶとよくわかる。
すごく小さい。
女子の割に少し高い方である私と、頭2つ分は違うだろうか。
そして極端な猫背もその印象に拍車をかけている。
長い前髪に隠れた顔はよく見えないが、見た限り可愛らしい顔立ちの男の子と行った印象だった。
しかし、全く喋らない。
私がどれだけ話かけても、声は愚か身振りすら返してくれなかった。
この子の声を聞いたのは思えば、自己紹介の時が最初で最後だった気がする。
「コウくんは、なんかすごく落ち着いてるね。」
「いやぁ、私なんて、こういう暗くて狭い所はホント怖くて苦手なんだよね。」
「あー。それでぇ……。」
人間相手にこれほど、会話に困らされた記憶はなかった。
すぐに言葉に詰まって、一方的に気まずくなってしまう。
そもそも、子供は大好きなのだが、あまり接し方が掴めないのは、私の人生を通しての命題だな、と思った。
仕方なく新谷少年から目を離して、國島さん達を見やる。
彼らは私達より数歩先を歩いている。
どうやら、佐藤さんやら大石さんやらと話し込んでいるようだった。
ああいう時、私は置いてけぼりになるのが常なので、加わりはしないのだが、少し仲間はずれにされているようで不満であった。
そんな自分でもよくわからない感情に気を取られていると、制服の腰のあたりを突然引っ張られた。
見ると、新谷少年であった。
「ん?どうしたの。厠行きたいの?」
「……。」
やはり返事が無い。
彼の意図を掴もうと数秒見つめ合っていると、彼は口を開いた。
「……わたし、オトコちがうよ。」
「……。………へ?」
「わたし…コウ"くん"じゃない。女だよ…。」
「……えっ。」
一拍おいて、ようやく理解した。
失態だ。大いに失敗した。
男女ともに通用しそうな名前、場欄な髪の毛、男の子のような服装。
それらのせいで、本人に聞くという考えすら無かった。
そういった、無遠慮な行動が、彼…いや、彼女の自尊心を傷つけていたかも知れないのだ。
「ッ…あー!。ごめん、ほんとにごめんね。勘違いしちゃってた!」
跪いて、彼女と目線の高さを合わせて、手を握る。
「許してくれる?」
そう言って、前髪の隙間から覗く瞳を、真っ直ぐ見つめる。
数秒。
ふいと、彼女は目をそらした。
頬は少し赤みがかってる。
そして、控えめにコクリと、顎を引いた。
これは…照れてる!
「かっわいい〜〜っ!!!」
胸に湧いたくすぐったい感覚が、一瞬で全身に回って、目の前のやたらと可愛い生き物を抱きしめられずにはいられなかった。
腕の中でモゴモゴと、それすら愛おしいと感じさせる抵抗。
「うちの子にしちゃおうかしら…!」
しばらく抱きしめていると、無くなった。
とうとう、身を預けてくれたのかと思ったが、小刻みな震えを感じる。
いや、痙攣している。
「あっ!ご、ごめんね!」
危うく窒息させてしまうところだったようだ。
その後、今度こそ彼女から話しかける事は無くなってしまった。
「俺も手伝おう。」
「ムッ。中々外れんな。」
「違いますよ、もっとこう。引っ掛けないように。」
何だか、先の方でしばらく取れそうで取れない木格子の扉とやらと格闘していた國島さんたちは、早々に諦めて前へと進んでいってしまった。
「諦めの早い人たちですね。」
腕を捲くる。
見せたりますか。あずささんの力を。
扉に手をかけて思い切り引っ張った。
メキメキと嫌な音はするのだが、これでは外れるというか折れてしまいそうだった。
なかなか手ごわいじゃないか。
「落ち着けあずさ、こういうときはまず相手を知ることから戦いは始まるのよ。」
自分で自分を鼓舞する。
扉をよく見ると。
「あっ。」
一つだけ錠がまだついていた。
「これじゃあ取れないに決まってるでしょ。あの人たちは何をやってたんでしょう。」
やり場の無い鬱憤を彼らにぶつける。
ちらと、視界の端でコウちゃんが錠前を握るのを見た。
「あ、汚いからあんまり触らないほうが…。」
私が言い終わるか、終わらないかで。
彼女は錠を握りつぶして、引きちぎった。
「………………え?」
脳内で出来事を反芻する。
握りつぶして。金属を?
引きちぎった。錠を?
「あの…、コウ…ちゃん?」
声をかけても彼女は振り返ることなく。扉に手をかけて、こちら側へ引っ張った。
蝶番が、人外怪力によって弾け飛んでいく。
当然の帰結として、こちら側へ木の扉が倒れてきた。
百キロ以上はあるだろうか、倒れてきた扉を受け止めざる負えない。
「うぐぐぐ…。」
「何やってんだ?」
その時、國島が声を掛けてきた。
かつてない絶体絶命の窮地に瀕している人を、まるで珍妙なことをしている奇人を見るような目でみている。
「見たらわかるでしょ!」
「扉に襲われてるんです!!」
これ程に、窮地を訴えているのに未だにぼやっとした目を向けてくる。
殴ってやりたい。
だが、まずはこいつをどうにかしなければ。
おばあちゃん、こんな時私はどうすれば!
「あずさよ、無じゃ…。心を無にするのじゃ…。」
すぅと、心から色を消す。
何も、考えない。何にも囚われない。
無想、故に無双。
すると、すぅと体から力も抜けていった。
あ、だめだ。死ぬ。
そのとき、横から弾丸のようなキックが飛んできて扉をふっ飛ばす。
「た、助かった…。ありがとう、コウちゃん。」
頭を撫でて褒める。
まだ、少しムスッとした顔をしていたがちょっと顔が赤い。
「やっぱり照れてる…!かわいっ!」
再び抱きしめた。逃げられた。
「ともかく!扉、開きましたよ。」
「さすがあずささんですね。素晴らしいです。」
「なんで敬語なの!?今のは私がやったんじゃないよ!」
國島さん達が、何だか少しずつ後ずさって、私から離れようとしている気がする。
「ともかく、中を見てみます。」
そこで思った。いや、気づいた。
この中を、見るのか。
「え、ええと…自分から開けておいてなんですがやめといたほうがいいんじゃ……。」
そう言って止めようとするが
「大丈夫。中を照らすだけです。」
そう言って、牢屋の中へとランプを奥へと突き出した。
力づくでも止めなきゃいけない。でないと後悔する。
そう、私の中で何かが叫ぶ。
でも、もう遅かった。
止められない。
ランプの明かりに照らされて、牢屋の中の光景が目に滑り込んでくる。
暗くて、狭い箱のような檻。
自分の中の何かが頭をもたげた。
私の中のどこかが埋待っていく感覚。
幸せだった時。
絶望の記憶。
終わりの日々が、蘇る。
暗澹とした牢屋。
そこにあったのは、私の死だった。
「…………………あ……………。」
「ようこそ、おかえりなさいませ。神園 梓様。」
迎えられた屋敷は、それはもう立派なものだった。
まるで、武家屋敷。江戸時代にタイムスリップしたかのようだ。
屋敷の中では見たことのない数の使用人が私をもてなすために屋敷内を奔走している。
それを見て、なんだかむず痒くなってしまった。
そうして私と祖母は、それぞれ一つの部屋があてがわれ、そこで暮らすことになった。
しかし正直に、居心地が悪くて仕方がない。
今まで小さな部屋に祖母とふたりきりで暮らしていたものだから、この一部屋だけで私の家の大きさを凌駕する広さを持て余していた。
加えて、ほぼ一日中女中がそばに控えていて、何をするにも彼女ら補助がつくのだ。
この窮屈に、これから先ずっと耐えていくのかと思うと、少し目眩がした。
しかしながら、幸か不幸か、そんな暮らしは最初の一月で終わりを告げた。
初期の好待遇が嘘のように段々と、屋敷内に私を気にかける者は減っていった。
それからだろうか、段々と私の行動の制限が厳しくなってきたのは。
わざわざ、行き先を変更してまで通い続けた学校にすら、行くことを咎められるようになった。
そうして気付けば、私はその一室から外へ出ることが許されなくなっていた。
「梓様は、もう軽々御身を危険に晒すことができぬ身です。」
例の田村さんは、頻繁にこの屋敷に出入りしている様で、私が目の前で不満を漏らすたび、そう宥めるような事を言う。
そうして月日も、縁側の向こうに生えている紅葉すら流れる時のままに、色を変えて移ろっていく。
しかし、私の生活は何が起こることもなくただ停滞している。
もうかつての友人も、たった一人の肉親の祖母にも長い間顔を合わせていないような気がする。
しかしこれも、私の選んだ道なのだ。
皆に迷惑をかけない、家族と共に生きれる、そんな選択したはずなのだから。
寝苦しい夜が続いていた。
兎に角、呼吸が苦しくて仕方が無い。
咳も、頻繁に繰り返すようになった。
初めは夏風邪かと思っていたのだが、それは日に日に激しさを増している。
その日の夜も、眠れないので仕方なく厠に行こうとして、屋敷の通路を横断していたところ。
襖の間から明かりが漏れている部屋があった。
中からは何か話し声が聞こえる。
別に、盗み聞きの趣味は無いのだが、これだけ退屈な生活を強いられているのだ。
少しぐらいなら、バチは当たらないだろう。
そう思い、足音を消して襖に耳を当てる。
「それでどうだ、昭森の娘は。」
「は、それはもう落ち着いたもので。」
「ふん、ただの手弱女かと思ったがな、なかなか肝の太い娘よの。
此方も、少し急いで事を運び過ぎたと思っていたのだがな。歳は?」
「今月で十九になります。」
「そろそろ問題なかろう。世継ぎをつくれ。」
「よろしいので?」
「ああ、世継ぎとは言ったが所詮代替だ。
しかし、子らの病状も良くはない。必要になるなら早めに準備せねばなるまい。」
話しているのは、二人の男のようだ。
一人の声は、嫌というほどに心当たりがある。田村直久だ。
もう一方は…彼より随分しわがれた声である。
一声聞いただけで余程の年の差が伺い知れた。
その声に聞き馴染みはないが、この屋敷で数度聞いたことがある気がした。
「ではご本家、どの種であれば良いでしょう。」
「既に、男手は寥々たるものである事は知っておろう。その上病床に臥せっているものも多い。」
「故、貴様で良い。」
「……は?」
「なんだ、嫌か。それとも、情が移ったか?」
「いえ、そういう訳では。しかし私は既に田村に婿入りしております。何かと問題があるのでは?」
「この件は、元々貴様が持ってきたのだ。それとも儂が尻を拭ってやらねばいかんか。」
「そも、我らに必要なのは子の方、産む腹など血さえ繋がっていればどうとでも良い。その種なら、尚更よ。」
「………。」
田村さんは返答を躊躇っているようだった。
その沈黙を破って老人の声は、先より数段細くなって田村さんに問いかける。
「儂を、愚かと思うか。」
「血を守るため、己が子孫さえ利用しようとする儂を、いやこの家の悪慣習を。」
「…………いえ。」
「この家の者が、病に弱いのも、そもそも歴々一族内の近親で混ざりあったが故の事、結果として共々短命になり、跡継ぎ選びに窮しおる。」
「全く、これを愚かと言わざるして、何をや…。」
自重を含んだ語り口は終わり、一拍を置く。
「だがな、これが神園家だ。」
その口調は一転、剛胆なモノへと変わり、そう言い放った。
「…諾しております、
その業を厭わぬ掟さえをも。
私も、既にその秩序に奉じると決めた身です。」
「きっとその頑愚なまでの信仰こそが、この地を古くから治められる程の威容を、神園家へと与えたのでしょう。」
「そうだ、信仰だ、秩序だ。それこそが神園なのだ。」
「だが、あの神代は、昭森は分家の分際で、その神園に背いた。故に一人残らず静粛した。」
「そのせいで、継嗣に困らされるとは夢にも思わなんだが、貴様が生き残りを見つけてきたお陰で何、問題は無くなった。」
「……有難うございます。」
「なればこそ、異存は無かろうな?
貴様がこの家の秩序に従うというのなら、この命に背く事は有ってはならんぞ。この儂こそがその掟に他ならないのだから。」
「…………はっ。」
ここで話は終わった。
いや、私が聴くのをやめた、の方が正しいだろう。
拙い足取りで、自分の眠る部屋へと帰った。
何だか頭がごちゃごちゃしている。
今はただただ暗澹とした眠りについてしまいたかった。
話している内容の、大半は理解できずに終わったが、ただ一つ、分かることがある。
もう、私には真に自由は存在しないのだ。
それからの月日が、私の体調以外に、変化をもたらすような事は無かった。
顔も知らない父の仇を取る気にもならなかったし、何より祖母が不自由なく暮らせているのであれば、言うことは無い。
淡々と流れる日々を空ろに過ごす。
ただ、盗み聞いた密談の通り、私の役割は跡継ぎを産むことらしい。
少し膨らんだ腹を撫でた。
目を瞑って、自分の中に脈動する新しい命に五感を傾ける。
不思議な感覚だった。
かつての友人に私がこの年で母親になるなどと言えばどんな顔をしただろう。
笑って祝ってくれるだろうか、泣いて悔しがるだろうか。
その時私はどんな顔をしているのだろうか。
「ゴホッ、ゴホッゲホッ、ゴホッ、ガハッ!」
突然咳が止まらなくなる。
また、発作だ。
妊娠した後、不安定だった私の体調は急降下の一途を辿っていた。
咳が止まらなくなるのは日常、発熱で寝込むことも珍しくなかった。
神園に呼ばれて診察した医者の言うことでは、私は肺結核なのだそうだ。
しかし、身重の体には服薬治療はかえって負担になるという事で、絶対安静と徹底隔離が言い渡された。
まあ、それ自体は今迄と何ら変わらないことではあったが。
いつからだろうか、それとは別の一抹の不安が、私を侵している。
この状態が出産まで続くというのなら、もしかしたら、私は成すことを成せないのではなかろうか。
もし、そうして居なくなってしまうのが私ではなく、この、お腹の中の…。
「…ッ!駄目だ、駄目だ、しっかり、しろ!」
首を振って、暗く重い感情を振り払った。
その動作だけでも、胸がギシギシと痛みを訴える。
母体の精神はその子へと影響を及す。
少し辛い程度で参っていては、それこそこの子と顔を合わせることは叶わないだろう。
「梓様、ご容態は如何でしょうか。」
襖の向こうから声がかかって、その方を見やる。
この声は私のお付きの侍女、咲希さんだろう。
「失礼します。」
そう言って、襖が開いた。
私を見るその顔は、何故だろう、やるせないというものだ。
「え、ええ。少し咳が止まらないだけです。それで、ご要件は何ですか?」
「…………。」
彼女は自分から訪れたというのに、何か言いづらいことを隠すような面持ちで黙っている。
「……?あの、どうかされましたか?」
再び声を掛けるとようやく重々しく口を開けた。
「岡田さよ様が……。」
「…おばあちゃん…?」
「逝去なされました。」
息を呑んだ。
視界が少し遠く感じる。
ああ、でも彼女の、咲希さんの悲痛そうな顔を見たときから察してしまっていた。
今、私にとって最も辛い出来事とは、家族の死に他ならないのだから。
「………あの……。」
「大丈夫です。おばあちゃんも、もう歳だったからなぁ。仕方ないですよ。」
そう言って、笑いかけても彼女は何かを押し殺すように辛そうな顔をしている。
どこかで見た光景だな。
辛そうだ。
自分の親が死んだわけでもないのに。
「でも、死に目ぐらいは見届けて上げたかった。」
そう呟く。
「葬儀は…いつやるんですか?」
「もう…既に一式は執り行われ、火葬もなされました。」
何だか、既に声を出す気力さえもごっそり削がれてしまった。
「………………何故もっと早く、言ってくれなかったんでしょうか。」
その問いはきっと彼女にとって残酷なものだったのだろう。
唇を強く、強く噛んで答えた。
「……直久様が、祖母が危篤と知れば体調を崩すどころか無理を押してでも参られるだろう、と。」
なるほど、だから知らせずに居たのか。
まあ、たしかに私にはそれを聞いて、祖母の元に向かわずにいられた自信はさほど無い。
「……本来…あずさ様への心身を考慮して逝去のご報告も、止められていたのですが…。」
彼女が必死に噛み殺していた嗚咽は、とうとう漏れ出していた。
「……それではッ!それではあまりに…余りに梓様がッ……!」
泣き崩れんばかりの勢いで、堰を切ったように激情を顕にする。
彼女は、雇い主の意向に反してまで、祖母の死を私に伝えようとしたのか。
そこで、ようやく理解した。
彼女が泣くのは、叫ぶのは。
肉親でも無い人の死に対してではない。
きっと、そんな報告を聞いても笑う事しかできない私の代わりに、号哭しているのだ。
その尊い優しさを噛めしる。
「…梓様…さよ様が亡くなられる前に私は一度彼女とお話させていただいたことがあるのです。」
私の臥せる布団へ、足を捩じりながら進み、近づいて来た。
「あの方は…自分の余命を理解しておられたのでしょうか…。」
「私が梓様のお付きだと聞いて、私めに自分が居なくなったらと、遺言と、これを渡すようにと…。」
そう言って、すっと何かを私のそばに置いた。
それは、2つの耳飾りであった。
「これは……おばあちゃんが、いつも付けてた…。」
「はい…。近く亡くなる自分には勿体ない…と。」
視界が滲んだ。
ああ、だめだよ。
こんなもの置いてったら駄目だよ。
そっと手で持つと、飾りについた小さな鈴がチリン、と小さな音を出した。
その音を頼りに、祖母の姿をまぶたの裏に移す。
もう瞳を開けば見ることのできないその姿を。
いつも仏頂面だった癖に私にお帰りを言うときだけは、絶対に笑顔だった。
そうやって彼女に、笑顔でいることの尊さを教わって。
こんな境遇で、私が馬鹿みたいに笑っていたのは、彼女のおかげだった。
次に目を開けてしまえば、もう溢れ出る涙を止めることは叶わなかった。
「…ッ!駄目、だよ…!こんな物、置いて行かないでよ!」
「置いて…行かないでよ…!私を…おいて……行かないでぇ…!」
もう止められなかった。
咲希さんから、髪飾りとともに嗚咽すら一緒に帰ってきてしまったらしい。
この胸に燻っていた、悲しみも寂寥も懐旧も全て喉から滑り出てしまう。
布団のシミがじわじわと広がっていく。
強いと思っていた。
耐えられると信じていた。
でも、私は並に脆くて、普通に弱くて、こんなにも不完全だ。
咲希さんは、役目を終えた彼女は、泣き叫ぶ私の横で静かに座っているだけだった。
ひとしきり泣いて、咳き込んで、また泣いて、少し落ち着いたところで。
「それと…。」
そう言って、咲希さんはその横に一つの封筒を置いた。
「……これは?」
「遺言でございます。」
封筒から手紙を出して、三ツ折のそれを丁寧に開けた。
『今迄、他人の為にしか生きてこれなかったお前にこんな事を言うのは酷かもしれない。だが、そんな風にお前さんを育ててしまったのは、きっと他でもない儂だ。お前さんは儂を恨んでも良い。しかし、もう儂という枷が無くなったのなら何より、自分を大切にしておくれ。この老いぼれの、最後のたった一つの願いだ。』
それは、私が家に帰るのが遅くなったとき、いつも決まって口にするような。
そんな程度の説教じみた内容だった。
「あ、はは…。おばあちゃん、らしいな…。」
赤くなった頬の涙の跡をもう一度拭う。
「…有難うございます。咲希さん。」
彼女は私の礼に対して、同じ礼を返して下がっていった。
ひとしきり吐き出してしまった胸には、もう何一つ残るものは無かった。
自分のために生きろ。
祖母は、耳飾りとこの言葉だけを残していった。
しかし、全て吐き出した私に残るものは何も無い。
はあ、と息を吐いたつもりでも、何も口からは出てこない。
家族はもういない。それだけで、こんなにも自分は空っぽなのか。
その空虚こそ、私が今迄してきたこと、下してきた決断の結果。
私は、空っぽのカラダを抱えて、ここで死ぬまでただ生きるだけ。
そうなのだろうか。
いや、違うだろう。
何も残らなかった?違う。
してきた事は、無駄だった?
それも違う。
もう、家族はいない?
それこそ、何もかも違う。
居るじゃないか。今、自分の体の中に。
この小さな命が私の答えだ。
祖母が、私のために生きろというのなら、この子の誕生を祝福しなくてはならない。
この子こそ、私だ。私こそ、この子だ。
ああ、胎を中心にどんどんと暖かいものが流れてくる。
腹をそっと撫でると、返すように脈を打つ。
私は、凄く、嬉しくなった。
「そ、じゃあ名前を決めなきゃね。」
「君は…男の子でも、女の子でも、おんなじ名前がいいな。」
「きれいで、優しくて、カッコよくて、強そうな名前…!」
君は生まれれば、きっと自由に生きて、いろんな世界を見て、たくさんの季節を巡るだろう。
なら、それを祝ってあげるような名前じゃなきゃ、だめだよね。
「決めた。」
「ユウキ…ユウキ…君の名前は、由季だ…!」
それから、私の生はこの子の物になった。
淡々と過ぎていた日常も、誕生を待つ楽しみを与えてくれる暖かい時間へと変わった。
ただ、惜しむらくは自分の体が崩れていくのが全く止まる気配のないこと事か。
既に咳をしていない時のほうが、短くなっていた。
血を吐きながら、苦しみ悶えるとき、私はいつだって目を閉じて夢を見た。
楽しげに走るきみ。
それを見てわたしも楽しくなる。
抜けるように青い空。落ちてきそうな白い雲。
公園で駆け回るきみを見て、わたしも一緒に走ってく。
きみを追って走ってく。
涼しげな風が吹き抜ける。
青いはらっぱで走り疲れて一緒に寝転がって。
手を繋いで笑いかけたら、きみは無邪気に笑い返す。
そんなただ、ただ幸福な、それだけの、私とこの子の時間を。
「母体の様子はどうだ。」
「辛うじて、命を繋いでいる、といった状態です。……これで、継嗣が生まれようと、それが失敗に終わろうと…もう彼女は…。」
「そうか。まあ良い、元々本命の代替に過ぎぬ。生まれれば良し生まれずとも失敗ではない。」
「………そう、ですか…。」
「…あぁ。そうだ。直久。」
とうとうその日がやった来た。
このところ続いていた、激しい痛みの、その比ではない痛みとともに。
「う、うあぁぁぁ、うあッ!あぁ!」
「梓様!落ち着いてください!息を整えるのです!安心してください。無事生まれてきます!」
「う、ああ!うッ!フッフッ!あフッ!あぁう、あ!ううううぅぅぅ!!!!!!」
「しっかり!大丈夫です!大丈夫ですから!」
いつまで続くのかわからない。
そんな苦しみは、この子のための私への試練だ。
朦朧とした意識でそんなことを考える。
そうしてやっと、やっと。
長い時を掛けたように思う。
永い苦しみがあったように思う。
しかし、この子を見て、そんなことは吹き飛んでいった。
「無事、生まれましたよ。ほら、梓様。」
そばで見る君は本当にちっちゃくて、しわくちゃで赤ちゃんの名に相応しく真っ赤で。
何より本当に愛おしくて。
小さなその手に指で触れると握り返してくれる。
よかった、ありがとう。
そして、おめでとう。
じゃあ…これを、上げないとね。
耳飾りを一つ、彼を丸く包んでいる真っ白な布へと押し込んだ。
チリン。
「産まれたか。」
「!ご本家様!?一体何を!」
「子は問題ないな。母体はどうだ?」
「…急を要する容態です。しかし、まだ助かります。」
「ふむ…。」
ドタドタドタ、バタン。
「生まれたのか!あずさ様は、あずさ様はどうなった!」
「ッ!ご本家!?何故ここに…?
…何故赤子がその腕にいるのです…?」
「直久か。子は生まれた、こちらで育てる。だが、これに用はもうない。放ておいても死ぬ。女、地下牢に放り込んでおけ。」
「で、ですが。あそこは、死体の片付けもしていないところです。衛生上、彼女をそんなところへ移す訳には…!」
「…………女、それは儂に意見しているのか。」
「……!…い、いえ…。」
「ご本家!まだ、まだ彼女は必要です!生かさなければ!」
「直久、行ったはずだぞ。この家には秩序があると。そして、それは何だ?誰だ?」
「…ッ!しかし!」
「ナオヒサァ!!!!」
「ッ!……………。」
「グッ!……分かり、まし…た…。その、女を…地下牢に入れろ……。」
あの子が遠く、遠くなってしまう。
行ってしまう。
待って、待って、行かないで。
置いて、行かないで。
ああ、私は…また一人ぼっちで…………………………。