第四話
4
扉、とびら……。
あれ、いつの間に開いたんだろう。
向こうに見えるのは…一体…。
というか、ここはどこだっけ。
さっきまで何をしていたかも、思い出せない。
ああ……真っ暗だ。
何も分からない。
でも、向こうに何かが見える。
真っ黒く、ただ何もない此処に。
ただ一つ、輝くように在るそれは。
それはきっと…。
私がきっと一番幸せだった頃の記憶。
決して裕福では無かったけれど、決して安心できるような暮らしではなかったけれど。
毎日を楽しく、けして大きくない、自分に見合った幸せを、ただ甘受していた。
そんなときの記憶。
「………さ。……!」
「…い!……ろ!」
「おい!起きろ!この寝坊助!」
ベシッ!
痛烈な衝撃が、頭蓋に響いた。
「ふにゃんッ!!痛ァい!」
痛みに強制的に目を覚まされて、驚きと少しの怒りで顔を勢いよく上げた。
すると、その勢いに驚いたのか、眼前には仁王像のような珍妙な格好で少女が硬直していた。
「あり、もう起きちゃった。」
手の中にあるチューブのわさびを私の鼻先があった場所に向けて。
眠っていた間意識しなかった教室の中の喧騒が一気に、耳になだれ込んでくる。
机にふせって寝ていたせいか、少し首が痛んだ。
「起きちゃった、じゃないよ!痛いじゃない!何すんのよ。」
「いや、そろそろ授業始まるし、起こさないとな〜って。」
「それ、わさびが必要な事なの?」
あっ、という声を漏らして少女はあからさまに目をそらした。
「あー、うん、これは昼ごはんにね。つけてね…。」
「あんた、早弁したせいで弁当もうスッカラカンじゃない。」
「うっ!な、何故それを。」
ギクリ、と大振りな仕草で驚いている。
「あれでバレてないつもりなの?わざわざ言わないだけで、多分授業中にあんたがご飯食べてるの、全員知ってるって。多分、先生だって…。」
「えー!ほんと!?そ、そういうことは早く言ってよ〜!」
「勝手に減点されてるんじゃない?あんたとのお別れも、案外近いかもね。」
そう言うと彼女の顔は青ざめていく。
「ヒッ!や、やだよぉ。まだあと一年学校生活楽しみたいよぉ。まだ
あずさとお別れしたくないよぉ。」
「なら、もうやめときなさいよ。」
「うぅ…。それもダメ…。お腹は減ったら死んじゃうもの…。一体どうすればぁ…。」
「………。」
この友人は、退学と空腹を本気で天秤にかけているようだった。
そうしている内に、チャイムが鳴って、授業が始まる。
このいつもどおりの日々が、特別な事の無いこの日常が、私は特別に好きだ。
「あずさはこのあと、酒屋のおっさんの手伝い?」
帰り道、目に刺さるような夕暮れと気だるげな足取りの中、友人がふと口を開いた。
「うん、それが終わったら、あとは本屋で整理して、居酒屋の店じまいを手伝って…。」
そう言って一つ一つ指を折るたびに、友人の顔は苦々しげになる。
5本、全ての指を畳み終えると
「ハアァァ〜〜…。」
と、物凄く大きなため息を吹きかけてきた。
「な、何よ。」
「つッッくづく思うんだけど、狂ってるわね。」
「くるっ…?」
「ええ、大いに狂ってるわね。」
「な、何がよ。」
「何って!全部よ!ぜんぶ!あんたも、あんたを働かせてるおっさん達も、そして…それを止められない……。」
怒鳴るようだった彼女の声は段々と語気を弱めていく。
私もよ。
そして最後に、忌々しい、といった顔で小さくそう呟いた。
「ねえ、本当に大丈夫なの?」
彼女は先程とは打って変わって、弱々しい不安げな声になっている。
それだけで、彼女が何を言わんとしているかは、瞭然だった。
だからこそ、私はより一層明るく元気な気ぶりを見せる。
「大丈夫に決まってるでしょ!知らなかった?わたしって結構体力あんのよ?」
「それは…知ってるわ。体育の時間一番生き生きしてるのはあずさだし…。でも、それとこれとは別でしょ。」
彼女の顔からは一向に曇りが晴れず。
「現に、最近学校でもずっと寝てるし…やっぱり…。」
「失礼ね、授業はちゃんと目を開けて受けてます。」
「あずさ…!」
「大丈夫よ、本当に。私だって馬鹿じゃない。倒れたら、生活どころじゃない事ぐらいわかってるわ。」
そういってありったけの笑顔を向けても、やはり彼女の瞳から不安げな色が抜けることは無かった。
「……。本当に、どうしようもなくなったら私でもいい、誰かに相談して欲しい。できることは、何だってやるから。あずさの為だったら親を説得することぐらいなんてことないから…!」
親を説得して、何をするんだろう。
普段呑気なことしか言わない顔が、全く似合わない心配そうな顔を貼り付けて、
懇願するように私の手を握っている。
それを見て思う。
あぁでも、やっぱりわたしは幸せなんだな。
彼女のような人がいてくれるから、はっきりと実感できた。
「ありがとう。でも、本当に大丈夫なの。」
「実はね。まあその、あてにしてるわけじゃないんだけど。」
「最近、父方の親戚の人が訪ねてきて、わたしたちの生活を見て養子にならないかって言ってきたの。」
首をふにゃりと傾げる友人。
「だから、もうどうしようも無くなるって思ったら、転がり込んじゃえばいいのよ。」
そしてあまりに突飛な話をさらっとことも無さげにされたせいか、口をポカンと開けて呆けていた。
「あ、あぁ。そうなの?」
「うん、だからね。そんなに心配されるほどの事じゃないの。」
「ハァ、なんだか逞しいね。あずさって。」
「でも、無理はしないでね。私より先に、学校から居なくなるのがあずさ、なんて私絶対嫌だから。」
ようやく安心してくれたのか、物言いは普段と変わらないまでになっていた。
「わかってる。じゃあ、ばいばい。」
「うん。また明日。」
そういって、手を振り合った。
「あずさちゃん!」
「はいっ!今行きます!」
頭の爽やかな店長に、爽やかな声で呼ばれて駆け寄る。
「あずさちゃん、お疲れさん。もう上がっていいぞ。」
「え?えっとでも…まだ店は。」
「いや、いいのいいの!もう一番忙しい時は終わったから。」
「あずさちゃんに、手のつけられない酔漢の相手させるわけにはいかんのよ!」
「そう、ですか。じゃあお言葉に甘えて、失礼します。」
「あぁ、そんかわり、ばあさんによろしく言っといてくれ!」
「はい!」
今日も5つの店で手伝いを終えて帰る頃は、全く暗闇というに相応しい。
すっかり高いところにある月と星の灯だけを頼りに道を辿る。
わたしが働く先では皆何故か給料が相場より幾らか高い。
なんだか、自分の境遇を盾に高給をせびっているようで、少し申し訳なかった。
しかし、普通でいいと訴えると、どの店長も決まって「いやいや、あずさちゃんがよく働くから助かっちゃって!そのお礼みたいなもんよ!」
と言って、袖にされるのだ。
こちらも、お金は無いよりはあった方がいいので、嫌ではないのだが、別にわたしが要求してるんじゃなくて…。
などと、心の中で言い訳を繰り返すうちに着いていた家の扉を開ける。
「ただいまー。」
部屋に明かりがついている。
「おばあちゃん?まだ起きてるの…?」
声をかけると、ヒョコリと部屋の奥から祖母が顔を出した。
「おかえり、あずさ。今日もお疲れ様だね。」
そうして、靴を脱いで気づいた。
見慣れない靴が玄関にある。
「お客さん来てるの?」
「ああ、田村さんだよ、ちょっとこっちへ来なさい。」
その名を聞いて、またか、と内心嘆息した。
「お久しぶりです。岡田あずさ様。いえ、神園|あずさ様。」
居間では、肩の凝りそうなほどかしこまった恰好の男と祖母が対面していた。
スーツで身を固め、高そうな腕時計、淵が銀に光る眼鏡を掛けた糸目の彼は、田村直久。旧姓、神園直久。
「こんな夜分遅くにすみません。いえ、あずさ様が、こんなに遅くに帰るとは知らなかったもので。少し待たせて頂きました。」
働いて、疲れて帰ってきてみればこの、対面するだけで疲れそうな男。
気乗りは全くしなかったが、それを悟られぬように返答する。
「いえ、わざわざおいで下さってありがとうございます。それで今日は、どういった御要件でしょうか。」
「そんなに畏まらないで下さい。いつもと、大して要件は変わらないんですが。」
「そろそろ、返答を頂きたく参りました。」
そういって田村さんは、額を床に擦り付けるほど低くした。
彼の言ういつもの要件とは、つまり、夕刻、友人を安心させる為に言った例のあの件に他ならない。
「まあそう、ですよね。」
この人がこの家に来る理由なんてそれくらいしかないのだ。
両親はわたしの物心がつく前に、不慮の事故で亡くなってしまった、と思っていた。
故にわたしは母親の顔を知らず、また父の声を聞いたこともなかった。
唯一親と呼べる人は、父の残してくれたこの家に、私と共に住んでいる母方の祖母だけだ。
そうして、祖母との二人暮らしを慎ましやかに送ってるところへ訪ねてきたのが、この田村さんだった。
彼は、父の家の詳しい話をしてくれた。
そもそも、父の名字は岡田ではなく、神代だったそうだ。
神代家というのは、この地一体の、地主の家系であり、有力な屋敷だったそうだ。
私の姓、岡田とは母の姓だったのだ。
祖母が岡田さよ、であったから察してはいたのだが。
父と母は結ばれることは無かった。
理由は…まあ、わかりやすく言うと彼らの関係は不倫だったのだ。
神代家の当主であった父とその使用人だった、母との間に生まれたのが私、ということらしい。
まあどの話も、既に両親のいない私にはかすりもしない話題だった。
しかし。
「そこで、本題なのですが。」
そういって彼が切り出した話は、流石に突飛過ぎて理解が追いつかなかった。
「あずささん、あなたに、神園になって欲しいのです。」
その時ばかりは敬語を使うのも忘れていた。
「……は?」
「つまり。神代家に連なる家筋の神園家、そこへ養子入りしてほしいのです。」
父方の家の神代家は、神園家から別たれた家系。
所謂、分家、というやつなのだそうだ。
その神代の本家である神園へとわたしを養子に招くと言っているのだった。
「なんで……わたしを?」
恐る恐る聞くと。
「神園の家の、現当主様の奥方様は難産を繰り返し、亡くなられてしまいました。しかも、その御子さえも。」
「故に、分家筋から血の繋がったものを迎えようという事になりまして。」
「神代家を辿っていくと、あずさ様に当たったわけでございます。」
なるほど、わたしは噂に聞く跡継ぎ問題とやらに巻き込まれたのか。
そんなものが、現実に存在した事自体に驚きだった。
「それで、何故私なんです?そんなの他の神代さんに頼めばいいんじゃ?」
「いえ…それが。」
そこで初めて、田村さんが言い淀むような仕草を見せた。
「…?」
そして重々しく口を開く。
「実は…既に神代家は廃絶しているんです。」
衝撃の事実だった。
「は、廃絶…!?」
「ええ、そもそも神代昭森様、当代の長であらせられた、あずさ様の父君ですが。
彼は、あずさ様の生まれる前に亡くなられています。
そして、その後、そのご兄弟、そしてあずさ様以外のご子息も原因不明の病に倒れられたんです。」
唖然とせずにはいられなかった。
そんなことがあるのか。
ありうるのか。
「そうして跡継ぎがいなくなり断絶いたしました。」
「そして、今や神園の家もその道を緩やかに辿ろうといたしております。そこで何卒、あずさ様に養子になって頂き、御家の復興にお力をお貸し頂きたいのです。」
そんな、そんなことが私に務まるだろうか。
分からない。そもそも、何より私は今の生活を安々と捨てられ無い。
その日は私にその答えが出せなかった為、田村さんにはお帰り頂いた。
しかし、彼はその後何度も家へと足を運びしつこく食い下がった。
それもそうだろう。彼の肩に伸し掛かっている責任も生半可なものではない筈だ。
そうして、今日、待ち切れないとばかりに最終決断を迫ってきた、ということらしい。
「お答えは出されましたでしょうか。私共の意に沿うものであれば良いのですが。」
そういって糸のように細い目を開けてこちらを見つめていた。
「…しかし、やはり私達には、わたしたちの生活があります。」
「それは、重々承知いたしております。しかし、その生活が上手く行っていないことも存じております。」
「でも!それは私が、ちゃんと働いてます!」
「しかし、女手一つで二人の生活を賄ってくのは、恐らく厳しいでしょう。」
「…私が、学校をやめて働きに出れば、それはなんとかなります!」
「では、住む家はどうするんです。」
思わず息を呑んだ。
「な、なんでそれを…。」
「この家が今、賃貸主に返還を要求されていることも存じております。」
「ですが我々の家に来ていただければ、そのような心配は無くなります。」
この家は、母がまだ生きていた頃に借りたものだそうだ。
そして、母が亡くなったあと、私と祖母はここで十数年を過ごしてきた。
しかし、何故か今更、世帯主がいないので契約を履行できないため、返還を求める、と言ってきたのだ。
「……でも…でもそれじゃあ、おばあちゃんが、おばあちゃんはどうすればいいの!」
「あずさ!」
おおよそ初めて聞いた、祖母の大きな声に体がビクリと震える。
「いいんだよ、あずさ。もういいんだよ。」
先程まで、目をつむりずっと私達の話し合いを静聴していた祖母が、顔の皺を丸く曲げて、柔和な笑みを浮かべた。
「おばあちゃん…?」
「元々、老い先の短いあたしの為に、あんたの将来を潰しちまうのは我慢ならなかったんだ。」
「今、あんたが幸せになれるんならあたしはそれで十分なんだよ。あんたが、これ以上背負うことでも何でもないんだよ。」
「でも、でも…嫌だよ…。
私が嫌なんだよ…。おばあちゃんと離れるのは、辛いよ。」
そう言っても、祖母は柔和な笑みを崩さず静かに私を見つめるだけだった。
その沈黙を破ったのは、その雰囲気に見合わない田村さんの軽々とした一言だった。
「あの、失礼ですが。お祖母様もこちらでは受け入れるつもりだったのですが。」
「えっ?」
先程まで、私以外は神園家に行けないと思いこんでいた私と祖母の二人は、同時に間抜けな声を出す。
先に言っておいてほしい。
何だか茶番劇に興じているようで、急に羞恥がこみ上げてきた。
「え、う、えぇぇ…?」
「すみません。私の言い方がわるかったのでしょうか…。私共はあずさ様を受け入れると同時にお祖母様の生活も保証致しますつもりでした。」
「……あ、あぁ。そう…。」
空気は瞬間的に熱を失って、その場にしばらくの沈黙と気まずさをもたらした。
仕切り直して。
目を瞑る。
これまでの生活。楽しかった。
みんなは私を心配してくれた。
そんな人たちに、そんな優しい人達に、迷惑はこれ以上掛けられない。
何より、おばあちゃんと一緒に暮らしたい。
「なら、もう迷いません。行きます。神園家へ。」
「おぉ!やっと決心いただけましたか。」
「ええ。………で、えと、何をすればいいんでしょう。」
中村さんは、ニヒリ、と口を歪めて、すごい勢いで立ち上がった。
「向かいましょう。今からでも、神園家へ!」
「…え?い、今!?」
「ええ!ご心配なく!引っ越しの手筈は整っています!」
「で、でも、みんなに挨拶していきたいし…。」
「それは今度でも構わないでしょう!大丈夫です。転校の手続など、諸々の準備は整っております!」
そういって、家の外へ押し出された。
「さあ、どうぞ、お乗りください!」
「え、ああ、ちょっと!」
押されるがままに、黒くて長いリムジンへと押し込まれる。
なにが何だか、目が回りそうだ。
こんな物々しいのが家に止まっていたのか。
「では、行ってらっしゃいませ。神園、あずさ様。」
そう言って、田村は大振りな手付きでお辞儀をして、バタンと扉を閉めた。
リムジンは、静かに走り出す。
行き先は…神園の家!
降って湧いた良く分からない境遇に、まだ脳は対応できていない。
だが。
ともかくこれで私は一つの大きな決断をしてしまったようだった。
そう、これは誰でも無い私が決めたこと。
行くんだ、捨てるためじゃない、守るために。今までの私の全てを。