エピローグ
9
夢を見ていた。
夢の中で俺はその人になっていて。
その波乱の人生を辿ってる。
これが、あの人の生き方。
頑張り屋で、優しくて、いつも笑顔で、でもどこか破滅的。
理由は単純、その人の存在意義は、何時どんな時だって自分以外なのだ。
他人の為にしか、頑張れない。
愛を与える事しか知らない。
例えば、息を吸うことを知らず、永遠と、肺ににあるだけの息を吐き続けるような。
ああ、なんて無頓着。
自分の崩壊にすら気づかないそんな人が、幸せになんてなれる筈が無い。
でも、ただ一つ。
あの人が、幸せな部分が一欠片でもあったのなら、それは。
擦り切れて、痛々しくて、辛い人生の中。
一度も、たったの一度すら、過去を顧みなかったことだろう。
自分の行いに、後悔がない。
常に、今ある幸せを見つめ続けるその姿が酷く、俺には眩しく見える。
過去に、囚われ続けている俺には。
瞼の裏を僅かに白ませるような、そんな柔らかい光で、目が覚めた。
まず目が開いて、しかし意識には霧がかかったままであったから、数秒は少し明るくなり始めた空を見上げ続ける事になった。
夜の静寂は、小鳥の喧騒にひきさかれ。
明け方の空に侵されて、紫紺の夜が溶けていく。
明星も、朝月夜さえも旭光に追われて山筋へと蹴散らされて……。
そこでようやく、自分が仰向けに、誰かに膝枕をされていることに気づいた。
後頭部に感じる柔らかい弾力と、スルリと、溶けるような布の優しい感触。
チリン。
少し顔を動かすと、それに反応したのだろうか、視界に影が差す。
ふわりと、髪が俺の鼻先を撫でる。
顔を覗き込まれているらしい。
当の人物の顔は、朝日に翳ってよく見えない。
「おはよう。由季。」
その名を呼ばれて一拍、どくりと脈を打つ。
俺の名を、こんなに優しく呼んでくれた人を、自分は一人しか知らなかった。
「……かあ、さ…ん……?」
「………………。」
帰ってきたのは、沈黙だけ。
影に隠れた彼女の顔は、今どんな表情をしているのだろうか。
「かあ、さん………。」
目の前にいるのが、母だとしたら。
そんな仮定に、必死に縋りたくなってしまう。
「あ、ああ…。かあさ、ん…。」
「かあさん、許してくれ…。ごめんなさい。許して…。」
彼女の表情は依然読み取れない。
でも。
「なんで、謝るの?」
彼女の声音は幼子を宥めるように優しい。
「だって…俺は、俺は!貴方のように…生きていけなかった…。」
そうだ。俺は、自分の理想を追い続ける事で強くあった母の様にも、他人を思う事で強くあった、あの人の様にも生きていくことができなかった。
自分を咎める過去から逃げることに必死で、気づけば自信がこれから進む道を見失っていた。
「辛いことが…あったんでしょ…?」
「…あった…あった!たくさんあった!」
吐き出していく、贖罪を求めるように、断罪を受け入れるように。
「でも…立ち向かえなかった!俺は、辛いことからも!母さんからも!…最後には自分の生からも逃げた!」
「皆のように、立ち向かえなかったんだ…!」
嗚咽が漏れてしまう。涙は出なかった。
それは、ただただ苦しかったから。
しかし、そんな俺を見ても彼女の声音は変わらない。
依然、俺の罪ごと包み込むように語りかける。
「それでも、これまで生きてきたんでしょう?」
許すというのか、俺を。
彼女にそんな権利はない。
神でもない。母でもない。
そんな君に俺の何を許す権利があるというのか。
「辛いことがあって…苦しい事があって…でも、貴方は、これまで生きてきたんでしょ?」
嗚呼、でもきっと俺は、この声で赦されてしまったのなら、きっと全ての業から解き放たれてしまうだろう。
「なら、大丈夫。きっと大丈夫だよ。」
これまで逆光だった曙光が、彼女の顔へ僅かに差し込み、その顔貌を顕にする。
「由季は偉いね。」
奇しくもその言葉は、母のものと同じだった。
その一言で、かつての記憶が鮮明に蘇る。
そうだ、母は何時だって俺を褒めるときは、心底嬉しそうに笑っていた。
思い出してしまった。
その時の母と同じ表情を見せる少女のせいで。
同時に、自分の罪すら蘇ってしまう。
俺の罪状は。俺が母さんを選べなかったのは。
「怖かったんだ…!母さんが!」
幼い頃、俺は母に心底心酔していた。
と、同時にその生き方を畏怖してもいた。
何も顧みず自らを高めていくその姿は、鋼鉄の麗人もかくや。
幼心に、その強さに惹かれる一方、その影に潜む冷徹な側面を恐れてもいたのだ。
そんな人物に寄り添って、傷つくのが怖かった。
だから裏切った。
ただ、当時俺はその決断の意味を理解してはいなかった。
母の放つ鋭い光に目を眩され、彼女の影の部分が視界に入らなかったのだ。
きっと、誰の助けも必要としない強さを持った人なんだと、そんな浅はかな想いで見捨てた。
しかし後に、あの写真を見て間違いに気づいた。
孤独に苦しみ、誰か必要とするその表情。
彼女も、一人の人間だったのだ。
決して強くなんか無かった。
むしろ、彼女のような人間にこそ、誰かそばで支えてあげれる人が必要だった。
そう気づいた時には、既に俺は全て失っていた。
考えれば自明の理だった。
あんなにも、嬉しそうな声で俺の頭を撫でてくれるあの人が、鋼鉄の麗人、なんて下らないものであるはずが無かったのだ。
なら、目の前の彼女の場合どうだろう。
あれだけ悲痛な運命を辿っても、ひまわりのように笑っていた。
あれだけ悲痛な仕打ちを受けても、それを憎むことは決してなかった。
でもそれは、彼女が強かったから?
違うような気がする。
それは、そうするしか無かったから。
そうする事でしか自分を保てなかったから何じゃないのか?
よく、思い出せ。
彼女の人生を垣間見た。
その中で、一度も彼女は後悔しなかったか。
否、彼女たくさんの後悔を抱えて生きてきた。
でも、きっとだからこそ、これからの未来に同じくたくさんの希望を見い出していたのだ。
目の前の笑顔を見る。
幼子を慈しむ母の微笑み。
俺の前髪を愛おしそうに撫でている。
「あずさは、なんで笑ってるんだ?」
「…それは、貴方が私の側に居るから。」
「ずっと、ずっと叶わなかったけれど。ようやく…ようやく。」
そういって、少しその笑顔に悲しみの色を混ぜた。
「でも、違うんだね。貴方はあの子じゃないし、私もかつての私じゃない。」
これ以上彼女の悲しげな笑みを見ていたくなかった。
膝から頭をのけて上半身を起こした。
そして、彼女と座り込んだまま向き合う。
「君は、由季だけど、由季じゃ無い。でも、きっと貴方がここに来たことは、偶然じゃないんだよ。」
「だから、私があなたを救ってあげる。」
「貴方はきっと、そのためにここに来たんだ。」
なんて勘違い。なんて傲慢。
「っは。何言ってるんだ。」
そうだ、彼女になんの権利がある。
俺の何を知っている。
「あなたが、大きな罪で押しつぶされそうになっていることはわかってる。」
「それは、あなたにとって、今すぐ死んでしまった方が楽なぐらい、辛いことだったんだね。」
まるで、俺のすべてを理解しているかのような口振り。
「誰も許してくれなくて、一人で背負うしか、なかったんだよね?」
そんな、ただの子供をなだめるような調子。
それだけなのに。
「…な、にを……。」
声が震える、胸がつかえる。
「なら、私が許すよ。」
そう、ハッキリと言い切った。
彼女は、真っ直ぐと俺の瞳を覗き込む。
そして、ゆっくりと両手を俺の顔へと伸ばした。
細くなめらかな指先が頬に触れる。
「お、お前に…何が…。」
何を許すと言うんだ。
「貴方の罪は消えない。でも、誰かが、貴方を許すことはできる。」
「罪は背負い続けなければいけないかもしれない。
それは、辛く苦しいかもしれない。
でも、それはあなたの終わりじゃない。」
「人間は、生きている限り罪を犯し続けるかもしれない。
きっとその度あなたを認めて、許してくれる人はいる。
あなたを必要とする誰かがいる。
だから、私はあなたを許すよ。」
そう言って、俺の顔を抱き寄せた。
顔いっぱいに柔らかい着物の感触が伝わる。
「…俺は、許されても、いいのか…?」
「うん、許す。」
「俺は、生きてていいのか…?」
「うん、いいよ。」
「うっ…ぐ…フゥっ…あぅ……。」
情けない。
情けなすぎる。
少女の胸の中で、俺はみっともなく嗚咽を漏らす。
でも、仕方がない。
言ってしまえば、つい数分前、母と同じ言葉を聞いた時点で、俺は彼女に負けていた。
「だって、あなたは、私と違ってまだ終わってない。
まだ、生きてるでしょ?」
「死んでしまったら、あなたの時はそこで止まってしまう。
そうして、罪を雪ぐことだって、償うことだって、許されることだって永遠にない。」
俺の頭を抱える腕に少し力が加わる。
「なら、貴方がそんな事になってしまうくらいなら、私が許す。」
それはどこにだって溢れている、誰だって言える綺麗事だ。
でも、その言葉を使うのが彼女だからこそ、その意味はきっとこの世界の誰が言うよりも重い。
もう、終わってしまった彼女だから。
フワリと、腕が解けた。
いや、違う。彼女の姿が解け始めている。
風に揺られて消えてしまいそうな儚さを帯び始めている。
「ま、待ってくれ…!まだ、言いたいことが!」
止めようとする。
だが、彼女はすくりと立ち上がって、やはり変わらない笑顔で言った。
「だからあなたは、自分と、それを必要とする誰かのために生きて。」
「そうして、自由に生きて、季節巡って…いつか…。」
「待ってくれ!」
悔しかった。
自分のことを棚に上げて、他人のためにしか生きれなかった自分の人生を棚に上げて。
またも、他人を、俺を救ってしまった彼女。
そんな、彼女をまた一人にしてしまうことが。
引き寄せて、お前の方こそ、と説教してやりたかった。
そのために伸ばした手は着物の袖すら掴むことを許されなかった。
その時、山の頂上から朝日が顔を出す。
目を灼くような光が差して。
視界が一瞬白亜に包まれて。
風景が正常な色彩に戻る頃にはもう、赤い着物をたなびかせる姿は無かった。
行って、しまった。
呆然と景色を眺める。
どれだけの秋雲が流れていったか。
周りを見渡すと、俺は崩れ去った屋敷の、瓦礫の上に立っているようだった。
こんなところで、俺たちは何をしていたんだ。
そこで、チリン、と涼し気な音が聞こえたような気がして振り返る。
音の元を探ると、彼女が消え去ってしまった、その跡に小さな、耳飾りが一つ落ちていた。
それを、拾い上げる。
「…借り物ができちまったな。」
危なげな足取りで瓦礫の山を降りる。
そうして、振り返る。
あれだけの惨劇を起こした、血生臭い屋敷は、もうかつての形を保っていない。
でも、確信があった。
彼女は、まだ囚われ続けている。
この屋敷に、じゃ無い。
彼女自身の願いに。
ならば、と
足を動かす、その場を背にして。
俺は、生きる。
生きろと言われてしまったから。
そんな、言葉をくれた、でも自身はきっと今も苦しみ続けている、その人を。
救いたい、そう思ってしまったから。
その人の人生を見て、誰かの為に生きる尊さを教わった。
でも、同時に彼女の持つ弱さをも知ってしまった。
今度は、俺が彼女を救おう、そう決心した。
既に、随分高く朝日の昇った秋口の空を見上げながら歩く。
燦々と輝く日暈に目が眩んでしまうことは、もう無かった。