プロローグ
◎特級技巧……正式名称、異神域技巧具イビルレイヤーと呼ばれるそれは、過去の英雄や勇者、聖女や賢者たちが残した特殊なスキルの俗称にして、総合ギルドが管理保存する文化遺産の呼称である。
借金など債務を抱えた時に、この世で一番強い存在は債務者を追う借金取りではなく、借りたモノをパクッて逃亡する、債務者である。
「……あれ?」
アンジュの朝は、自分の疑問の声から始まった。
朝起きると、そこはリビングルームだった。
おう、と唸りたくなる一撃が脳裏をかすめていく。
「うーん……なにこれ……」
脳内でドラムが連打されているような気分である。
と、いうかそんな物音が実際に聞こえる。
飲み過ぎだ。
昨夜は久しぶりにはっちゃけすぎた。
「――ヤバッ!?」
まさか……と、思わず辺りを見渡した。
一夜の過ち、なんて危険なワードが突然、意識の底から飛び出して来た。
誰もいない。
周囲に、人の雰囲気が無いことに安堵する。
廊下の奥にある浴室やトイレから誰か、見知らぬ男性がひょっこりと顔を表したり――なんてドラマみたいなことはないみたい。
「良かったー」
安堵の吐息が口から洩れた。
まあ……無事に帰宅できただけ良し?
これが見知らぬ男の家だったり、まったく面識もない美女が隣に全裸でいたりとかしたら……なんて、想像したくない。
どうやら危機は回避できたみたい――でも、この頭痛はどうにかならない?
寝起きのぼんやりした視界で、自分の全身を上から下まで眺めてみた。
「あぁ……最悪だわ」
ほぼ、全裸に近い。
辺りには昨夜着ていた服が脱ぎ散らかされていて、この春に発表されたブランドの新作のシックなワンピースとヒールの片方はどっかに蹴り飛ばしたらしい。
バックはテーブルの上に置いたのだろう。
連絡用の魔導端末もその辺りに見えた。
「やらかしたなあ。起きて来るまえに片付けなきゃ」
同居人はうるさいのだ。
朝帰りなんて、独身の若い女がすることじゃないとか叫ぶ人だから、彼女は。
「集めなきゃ。はァ……痛ッ!」
ズキンっとこめかみあがりに鈍痛が走る。
ブラジャーはベッドの足元にあった。ショーツはどこだ……?
いつの間にやって来たのか純白の羽毛のような毛並みを持つ愛猫レムが、世界最大の猫種の後足で立ってほれ、とアンジュの求めていたそれを口に咥えてソファーの上に落としていく。
「おなよう、レム……ありがとうね」
「ニャアッ」
アメジストの瞳に悪戯好きな笑みを浮かべた猫は、何度目だよ泥酔したの。
そんな感じに呆れたような声を出した。
スンスンっと鼻を鳴らし、片頬をしかめるようにして、そっぽを向くとさっさと台所に向かってしまった。
「あっレムー!? 冷たーい……」
「ナーオ」
酔っ払いは知らないよ。
そんな意味にも取れる否定の声なのか。愛猫はそれだけ言うとだまってしまった。
猫にも見捨てられた。
アンジュは自分の借りているマンションにいることを再認識した。
来客用のソファーが三脚。
玄関を開けると廊下があり、その最奥がこの部屋だ。
リビング兼台所も兼用して、奥に繋がる部屋が寝室。
帰宅はしたものの、そこまでたどり着く気力が持たなかったらしい。
電池が切れたというやつだ……我ながら情けない。
口元に手をやるとねめついたような酒気が鼻腔をくすぐった。
「またやったかー……」
アンジュははあ、と大きく目を伏せソファーの上に立ち上がると両手を上に背筋を伸ばす。
今の仕事には見習い時期を含めると就いてから十年になるが、まだまだ慣れないことも多い。
それに自分はまだ十六歳だ。
アンジュの仕事はギルドマスターの秘書官だ。十数人いる秘書室の末端に入る。
当然、管理職よりも現場の職人や冒険者よりの立場になり、十年も勤めていれば荒くれどもとの親交も深まる。
そして、彼らの鬱憤晴らしは飲んで騒ぐ、そこに尽きた。
「うーん……痛いーまただー」
伸びをすると同時に頭にズキンと鈍い物が走った。
二日酔いだ。
どうしてだろうと、首をひねる。
昨夜はアルコールを喉元を過ぎた段階でただの水へと変換する魔導具を、チョーカー代わりに首につけて出席したはずだ。
外して確認すると、裏側のゲージがレッドラインに達していた。
装置の許容量を超えたことを示している。
どうやら、アルコールの方が装置を負かせたらしい。
がっくりと肩を落とすと、アンジュはソファーからゆっくりと立ち上がり台所に向かった。
「水……」
這うようにしてアンジュは最も近い台所の水道を目指した。
どうにか二日酔いの頭痛から立ち直ると、もう一人の同居人がどこにいるのかと探す仕草をしながら、アンジュは衣装部屋の扉を開けて今日は何を着て行こうかと悩みだす。
秘書課の職員には既定の制服があり、それは毎年支給される。
黒のタイトスカートに白いフリルのついた絹製の丸首衿のシャツ、同じく黒のジャケットと、深みのあるえんじ色のスカーフを首回りに巻いてふんわり感を演出。頭の上に小ぶりの白にスカーフと同じえんじ色の柄が巻かれてリボンがついたハットを斜めにかぶるのが普通の制服。
各部署の受付嬢はだいたいそんな感じ。
女性職員は帽子を被らないが、黒を基調としたスーツに身を包んでいる。
慣れてくれば各種族の特色を出した民族衣装を着て来る子もいるが、それは数少ない。
秘書課ともなれば、広報課とならんで全女性職員の憧れの花形だ。魔導ネットワークを通して各家庭のお茶の間にその姿を現すことも少なくない。
帝都では南の大陸に端を発した電子機器などもそこそこ扱われていて、魔素をこれらと融合させた新たな文明の利器を開発・普及してきた。
テレビという言葉は普通にあり、それを運用する団体も存在する。
魔導台風などを知らせるお天気お姉さんたちは若い男性に人気だし、経済番組や法律番組で専門性の高い番組をする経済学者や弁護士なんかも女性には人気である。
アンジュたち秘書課の面々も、世間様に対して大きな発表がある時は、本部長と共に取り組みに対する声明を発表する場に出て行かなければならない。
そんな理由と、いまは国外に出た兄の知人女性がファッション雑誌でモデルをしているのもあり、そのお下がりをくれることがある。
というか、言い寄る男性たちからプレゼントされたが、処分に困り自分に渡してくるのだろうとアンジュは思っていた。
問題は――貰い受けた方がそれほどファッションセンスを持ち合わせていない、その一点に尽きた……。
「今日は記者を集めて会見とかあるから、涼やかで演出できるものっ」
自分で選ぶよりも人工女神アミュエラに任せた方がよさそうだ。
アミュエラはこの西の大陸の魔導ネットワークを総括して管理する、魔導科学の粋を集めた管理知能である。
あいにくと人格はないが、その判断の多くは専門性によるものが多く、帝都市民の生活の隅々に至るまで恩恵を授けている。まさしく、人工女神だ。
「アミュエラ、どれがいいと思う?」
ドレスルームの壁――鏡面に向かって声をかけた。
女神からはどんな装いを求めるのか、と問いかけがはいる。
「総合ギルドの本部長発表の後ろであまり派手でなく、それでも見えるものを……適当すぎる?」
(あなたが登壇する可能性は皆無かと)
そんな一文がアンジュのはかない希望を打ち砕く。
確かに、先に入るお姉さまたちがテレビに映りこむ栄光を譲るはずがなかった。
「……普通の制服にするわ。悔しいけど……」
クリーニングしたまままだ袖を通していなかった秘書の制服を取り出すと、着替えて化粧を急いだ。