30話 オーバーチュア
先ほどまで蒼のキャンパスを背に立ち昇っていた入道雲は灰を纏って倒れ伏していた。
倒れた際に飛び散った雲が崩れに崩れて、薄暗い血溜まりで蒼を塗りつぶしていく。
「屋内でも蒸しますね……」
そこから滴り落ちる空気はフレイムピラー本部の分厚い壁すら易々と乗り越えていた。
そんな雨天の真昼間、過剰な湿気と熱気に誰しもの指が自然と首元へ伸びていた、もちろん彼女も。
声の主、フィオナ・ルーンテラーはノースリーブの黒のブラウスを纏いながらダメ押しにと襟を緩めた。
体温を感じさせない涼しげな白磁の首筋に青みがかった黒髪が映える。
絶世の美貌に備えられた極低温の蒼の瞳は、周囲の者へそこに写ってしまうことすら罪悪感を覚えさせる程で、もはや彼女に残された愛嬌は不遜というには子供っぽい所作のみだろうか。
(違った、ここも違う)
一定間隔で並ぶ各部署の扉をノックもなく開け放ち、そうして集まる視線をむしろ利用して首も動かさず眼だけで中にいる人間の人相を確認しては一言も発さずに閉じていくフィオナ。
扉が締まりヒールの高い足音が小さくなっていったところで中の職員たちは動きを取り戻した。
特に扉から離れた席なると口から動きが戻ってくる、ようやく入ってきた話のネタだと男性職員2人がさっそく与太話に花を咲かせ始める。
「なに、あれ、怖いんだけど……誰か呼んだ方がいいんじゃないの」
「いや関わるなって、こえーし、ボスがな。ほら、例の賭博試合潰しの、アイツに任せてんだろ。ここんとこ警務課の連中とも顔合わせてないし出ずっぱりなんだろうよ」
「ああ、例のダイバーの彼か……隠れてサボってるんじゃないかな。どこか空き部屋で疲れて寝てるんじゃ」
「すやすやすや夢の中ってか?」
「もう帰れない故郷の夢を見てるかもよ? 少し寝かせといてあげたいなぁ」
「いや寝かせられないだろー。内通者に繋がる情報、新型アビスフレームのサンプルとそれの流通元の情報、諸々揃ってるヤマらしいからな」
「分からないことだらけなんだね。てことは、やっぱりあの襲撃事件の捕虜、口割らなかったんだ……それか全容は知らされていない末端だったか。後者ならウチの刑吏を相手に可哀想に」
暫くして2回目の訪問があった際に彼らは知っている職員は知っている穴場の空き部屋をフィオナへと通報した。
◆◆◆◆
息がつまる、自然と細く小さくなっていた息、呼吸の仕方まで忘れてしまう前に大きく吸ってみる。
胸のつかえまでは取れなかった。
無気力を大きく飛び越えた無為を感じる。
動画サイト、SNS、と効率的かつ恣意的に世の中を摂取する手段に溢れているのが良くない。
なまじ世の中を知ったせいか、何をするにも億劫なほどに世界には低すぎる上限が満ちていることを痛感させられてしまう。
別に現代に限った話でもなく学生というのは、それを甘受していくことを求められているのだろうけど。
「おい、そろそろ次始めるぞ! 106番、お前は体ほぐすんなら前もってやっとけよ!」
(屋内でデカイ声だすなよ、訓練場ただでさえ響くんだからよ)
y2XXX-11
「はぁ、やるか」
先に勝手をすればそれはそれで問い詰めてきたであろうタイプなのが見てとれる今日赴任したばかりの新人教官。
彼の口から垂れ流される構文をbgmにしながら双真 新は姿勢を動きやすいよう自然体にした。
双真の体躯は中学3年生と見ても、高校へ進学直前と考えても高すぎる背丈そしてその骨格に見合った筋肉量を備えていたが、ダボついた運動着とやる気のなさだけで小さく見せている。
適当に伸ばされた長くクセのある黒髪の向こうで黄色の瞳が焦点を合わせるのも面倒くさいと切れ長な白目の中を揺蕩う。
纏った雰囲気は蛇と猫の合の子、狡猾と怠惰の狭間にあるような、とかく双真新の風貌は余りにもスレきっていて子供らしさが微塵もなかった。
眠気を誘う立ち姿、その中には、ひとたび動くと筋肉のしなやかさや関節の可動の滑らかさが隠れされている。
双真は畳とマットの中間くらいに沈み混む訓練場の床に根を張るように意識と重心を落としながら息を深く吐いていく。
両膝を軽く曲げ、爪先を少し内側へ
両腕も軽く曲げる、指先にまで意識を張り巡らせる。
血液の循環と抹消神経の伝達に意識を、エネルギーと指令によって動く筋肉の反応速度を確認していく。
決して張り詰めない、脱力から緊張感へといたる速度と起こる波の幅を確かめる。
(よし……動けるな。ほんと運動神経はいいよなぁ俺……けど、何の意味があるんだこれ)
学校という同世代が蔓延る環境で子供が自身に宿った才覚を自覚するのは容易い。
そんな才ある自分にすら思い通りにならないことへの歯痒さを自覚することも容易い。
そして今、双真 新の中には、そのフラストレーションが解消されることなく降り積もっていた。
(眠た……)
この教練にしてもそうだが、双真はなにかを積み重ねる学生としての日々にとかく意味の無さを感じていた。食傷気味ですらある。
嫌気が眠気まで連れてきたのか終には立ったままウトウトとし始める。
教官にその態度がどういった心象を与えたのかは明記するまでもないだろう。
「よーし、計画性のない奴がどうなるか今に分かるぞ~、251番分かってるな? 始めぇ!!」
(晩飯なんにしよう……そういや…模擬戦……)
始まっていたな、と双真が半ば閉じかけていた瞼を開けると既に拳が眼前に迫っていた。
投げ技も極め技もアリなルールよろしくオープンフィンガーグローブを纏った自分と比べると一回り小さい年相応な少年の拳。
眼前に迫って尚、それはあまりに迫力に欠けていた。
危機感を呼び起こすには足りなさすぎるどころか再び瞼が閉じてしまいそうなほど
「遅いなこれ」
とてもじゃないが自分より先に動き出していたとは思えず双真の反撃には自然と手心が入った。
構えもせず踏み込みと腰の回転で脱力しきった腕を振り抜く。
しなる鞭のような裏拳は相手のパンチの軌道が作り出した死角に隠れ、顎先を掠めた。
脳と体をつなぐ糸を断ち切るだけなら重さは必要ない。
打った双真にもほとんど手応えはないが、打たれた相手の認識はそれ以上に不明瞭である。
突如として意識が体から切り離される、それは自分ではなく世界に何かが起こったのかという錯覚を"落ちる"最後に抱かせていた。
「教官……次、あります?」
粘り気のある液体のようにベシャリと倒れた同級生を前にして双真から出てきた言葉がこれ。
言葉の選び方はともかく声はいたって平坦で淀みない。
むしろの言葉選びよりその平坦さが教える側の人間を神経を逆撫でしそうなところだが、新人教官の男は怒りではなく軽い恐怖を覚えた。
これは彼が教職に就くことの出来る人間だというのもある。
人に教えるとは、それはもう多くの人間と関わるということで、彼は嫌みな人間ではあったが、他者と関わり対応する能力、つまり会話の意図を組む力とそこから得た情報を業務処理に活かす力は培われている。
物事の前後を自分以前の範疇まで含めてきっちりと読み解くことが出来る人間だ。
「いやもう、さ、がっていいぞ(何だ……こいつの目、なんだよ、この、妙に)」
自分が何人目かは知らないが、何人かいたであろう前任の教官たち、彼らはこれを見たのだろうと理解した。
馬鹿にしているわけではなく無意味さを説いてるきている、15、6歳程度の子供が。
魚のように口を開閉させている間に運良くチャイムがなった。
訓練終了も告げずに、そそくさと消える教官の背には少年少女特有の剥き出しの言葉がいくつも突き刺さっていく。
それを特段哀れむことなく双真も足早に訓練場を後にした。
彼にとって格闘教練は数ある教練の中でも一番不快指数が高い、無駄だからである。
"界嘯"により今日にでも明日にでも、いつ誰が死んでもおかしくない世界で学びを深め、自身を鍛え高めることに辟易する双真のような考えの学生は珍しくもなくなってしまっていた。