22話 リ・スケイル⑤
彼の者は羊飼いが羊と山羊を分けるように此を自身の右へ、其を左へと選り分けた。
「誰かを殺す必要がある」
聖別が既にあった線引きへ玉虫の善悪を上塗る。
それでも複眼は真実を増やさず、蝶は蜘蛛のために生まれはしない。
「誰かを裁く必要がある」
波立つ枯れ木によって堕落した礫石。
木洩れ日と木陰は決して加虐と被虐でないと宣った。
「間違えたのは貴方」
満ち足りて塗れた色は、もう落ちない。
其の悲愴からなる罰へ許しを請うて、そのまま死んでほしくて堪らない。
神の如き者ですら此の復讐を怖れていた。
◆◆◆◆
たまらなく胸が苦しい、アビスフレームから供給されるエアによって保証された呼吸もここまで乱れてしまっては意味をなさない。
海とはこうも重いものだったか。
がむしゃらに水をかき分け進む、少しでも速くと。
そうしてフィオナは上下にちぎれかけた深也の体を抱きしめ、繋ぎ止めた。
あの時も、こうだった。
酷い耳鳴りにフィオナから音が遠のいていく。
眼球から焦点を合わせる能力が失われ、世界から解脱する感覚。
そうやって楽になってきた。
だがその悪癖を、染みついた呪縛を、今こそ断つのだ。
アビスフレームの装甲越しに、ガントレットの上から、それでも分かるこの感覚から決して逃げない。
抱きとめた深也の体から急速に熱が消えてゆく。
唯一熱く流れ出る肉と骨の感触がフィオナの精神を激しく引っ掻き回した。
真っ二つにちぎれようとする深也を救う術を探すフィオナ。
自分の中から、外から、必要な情報をかき集める。
逃亡手段の模索に割かれない意識配分によってフィオナに音響と視界が戻った。
「死ぬぞォ、そいつ」
必死に鯨飲した情報の中で”当たり”よりも早く、真っ先に脳へと流れ落ちたのがそれだった。
その言葉は罵倒ではく、もう死ぬからと、壊れたからと、”飽き”による無関心で出来上がっていた。
「腰、脊髄だな。それを壊した。万に一つ生き残っても糞尿垂れ流して、そうでなくともビッコひいて乞食でもやって生きてくだけ、人の形をしたゴミだ。まぁ、その死体は今からダンジョンに食われるんだが……手間なくていいな」
饒舌、ケインは今ある事実と起こるであろう現実を悪意なく出し惜しみもなく並び立てる。
「……黙れ」
対照的に言葉短く切り替えしたフィオナから感じた不退転の決意にケインは「あーそう」とおどけてみせた。
「持ち帰ろうとか意味のねぇ話だよ。エア吸い込んでるから窒息や水圧じゃ死なねぇだろうが。水の中だ、傷からの血は渇かない。海面まで持たず失血死………あぁ? お前……水の源詩の魔導か」
「そう、ここは海。私の庭だ、お前は私の庭で、私の騎士に何をする……!」
深也の腰部から流れ出る血が止まった。
それどころか、海へと混ざらず流れ出た血だけが傷口へと遡る。
ケインは興味深さに思わず首を傾げた。
自分達、潜瞳者とはまた違う、世界の有り様を歪ませんとする思想が現実にまで手を広げていく。
そんな暴挙を隠そうともしない傲慢さがまた面白い。
(女は化ける、とはよく言った……これが水の魔導)
海中のエアへと過干渉する力、魔力が膨れ上がっていく。
まるで際限がない。世界の中にもう一つ、目の前の女の意のままに動かされ得る別世界が形成されていくのを歪むエアの流れからケインは察知していた。
この女が数秒前とは別人、どころでない別次元の何かになったことも。
(コイツ実力以上のモンが出てるな多分、機嫌ひとつで大時化……なるほど、”思想”だったな)
思想つまり精神面によるビルドアップならば心を折るのが手っ取り早いだろう。
「庇ったからそうなった……手前が来なきゃソイツは壊れてなかったよ」
これが油となって更に燃え上がるか水となり冷えて萎えるか、どちらでもいいケインは躊躇なく言葉を浴びせた。
「原因? なら今すぐ舌を噛んで死ぬといい、とうにお前が死んでいればこうはならなかった」
「(……油になったか)俺がこうして喋ってる間に踵を返すくらい出来ただろうに、バカだぜお前」
ケインが時間を設けた理由はもう1つある。”消化”だ。
深也がダンジョンへ侵入した際に轢殺した死体たちは2秒と掛からず取り込まれた。
とすると、深也の体はとっくに取り込まれて自分は海胤と対面していてもおかしくないはず。
(何にモタついてやがる……)
源詩の魔導との連戦などせずに済むならそれがよい。
それがよいとしたケインだが、どうやら相手は戦う気らしい、自分相手に戦いになるという公算らしい。
興がまた沸き立つかもしれないとケインは笑う。
消化までの暇潰しに張り合いが出てきた。
「殴り殺してやりたいところだが。わざわざ、だよなァ。【シンゲン】を躱せる足がないのは話にならねェ」
目の前の魔女が躱せるほど迅いなら先程の深也の身を呈してまで庇うという行為への辻褄が合わなくなる。
しかしそれは先程までのフィオナを以て行われる過去の証明でしかない。
事実、今のフィオナにとっては躱すまでもなかった。
「殺すのはこちらだ、私が殺す。……深海の蒼詩【潮が凪を呼ぶ】」
振り下ろしたシンゲンにより発生した振動が伝播しない。
振動が散る、力の指向性が支配されて届かない。
(これは……化け物か)
もはや、ここはフィオナの領海であり彼女に弓引くなど到底許されぬ。
そして彼女と同じ深さに在ることも許されてはいない。
「【至らずを知れ】」
露を払うように振られたフィオナの手の動きに従い発生した海流がケインの体をかち上げた。
ケインも留まろうとアビスフレームと脚部のボードのスラスターを吹かせるが勝負にならない。
背後にまでエアの気配を感じた時にはボードが握りつぶされていた。
足にまで海の腕が伸びる前にボードをパージするケイン。このままダンジョンの天井すら突き破り海面まで押し上げられてしまえば”詰む”。
巨大な壁が眼前で広がり続けていく感覚、圧倒的な拒絶を感じ取りケインは笑った。
「そう邪険にされると踏み入りたくなるな!!」
変わらず棍はケインの闘争心に呼応しなかったが、仮に使えたとしてももう関係ない。
もう殴り殺す、それ以外ない、手段も、思考も。
恐らく間合いに海を介した飛び道具はフィオナに届かないとケインは直感する。
加速系のエアソリッドシステムによる速度の指向性まで妨害してこないのは、それをするとシンゲンにまで回せる魔力が足りなくなるからだろう。
そこまで考えてケインは思考を切った。
『あぁ、じゃあ殴殺する分には何も問題ない、何もかも問題ない』と
殴る、そうして殴った反動が腕から脳へ跳ね返ってのみ得られるであろう垂涎の絶頂。
その期待にケインの知能指数は下がり、反比例するように棍が振り上がった。
壁が破られる、フィオナの予感と判断はとかく速かった。
深海の蒼詩は中遠距離主体の魔導、相手と自分との間に広がる距離がそのまま力となる。
ケインを上へと押しやったのも塔という縦に長い形状を存分に活かしてアドバンテージを作り出すため。
そのアドバンテージが侵し尽くされ得ることに鈍いはずがない。
フィオナは海胤を封じる魔導【潮が凪を呼ぶ】を維持しつつ、【至らずを知れ】は解除した。
すでに空間は確保できた、ここからは軍勢で以って圧し潰す。
圧し潰す、刺し貫く。いや、穴だらけなど生温い、そんな肉の一片残すようではフィオナの殺意の充足に至らない。
「深海の蒼詩 【波濤の戦列】【離岸の槍雨】【六花の戦化粧】」
激怒を超えた怒髪天が可能にした三重魔導。
水流が巨人を象り、それが凍結により異形の鎧と氷槍を装着する。
全長5メートルを超えた巨人”達”が槍を突き出して陣形を組んだ。
「あぁ……”配膳”は終わりか」
最後の理性でケインは感慨深く呟いた。
それだけ待ちに待った、ケインは。我慢したのだ。
ケインは今から食い潰していいと眼前に用意されていく絢爛たる馳走が全て出揃うのを生唾を飲むほど待ちわびていた。