19話 リ・スケイル③
この世界の海には夜がない、誰であろうと何モノであろうと訪れるものが来ない。
つまり自分と同類か。
気がまぎれるようにと暗くした部屋のなかで唯一付けたランプの灯は群青の傘に抱かれて弱々しかった。
暗がりの中で椅子の背もたれへ一気に上体を預けた陸奥国は、普段の自分の髪では味わえない質感が楽しいのかオリヴィエの黒髪を指先で弄ぶ。
細く滑らかな髪は流れ落ちる砂のように抵抗なく指の隙間へと滑り込んだ。
そんな無防備な獲物を逃さぬよう指の動きは次第に遠慮のないものとなり、髪は乱れ、ほつれていく。
(”水はけ”の悪いところがあれば、そこが当たりだと思ったけど……直属じゃなく海賊を使ったか、ちゃんと警戒してるじゃないか)
定例会による旅行客の増加、従来警備からの変動計画、そして会議場への襲撃に陸番窟の占拠、離れた2つの地点へ同時に仕掛けた。混乱を持ち込み、タイミングを合わせ、雪崩れ込むように。
組織を1つの生命体として見れば、体を動かさなければ対処できない規模の事態である。
脳髄たる指導者は、被害状況を見極め、正常な部分からリソースを回して事態の収拾を図るだろう。
ただ、そうすることで浮かび上がってしまうものがある。
それは、こんな事態で尚も動きがない部分。微動だにせず、固く、厚く守っている箇所。それがあるとすれば語るに落ちている。
”そんな些末なこと”へ対処するよりも重要な何かが、そこにはあると語るに落ちているのだ。
なればこそ、炎天の支柱の首領であるグレイブ・リヒターは信頼性が低くとも海賊という外部リソースを用いた。
(まぁ協力者からの情報で場所は割れてる。よそからフォローをいれたところで無意味だけれど……)
陸奥国としては提供された情報の確証を押さえておきたかったが、すでにあった手持ちの情報との照合からも、ほぼ間違いないことは分かっている。
副産物として警備が緩まれば儲けもの、程度にしか考えていない。
(やはり両獲りといきたいね、でも彼はやりすぎるからなぁ、気付けに劇薬は早まったかな?……うーん、どうにも焦るな……楽しすぎて)
混沌の渦へ落ちかけている相手と違い、こちらは誰がどこにいて、何がどこにあるのか。盤面の整理と把握は済んでいるのだ。後は間違いなく、粛々と打ち込んでいけばいい。それが楽しい。
打ち込む最適役は、すでに心身とも準備万端だろう。
むしろフライングするやもしれぬほど、いきり立っている可能性が高い、特に彼女は。
今後の指標になればとシャック・ロックスクリームに当ててみたが勝ち気な彼女にとって撤退の二文字が持つ意味は推察するまでもない。
(さぞ、鬱憤を溜めてることだろうしね……これで機嫌と自信を取り戻してくれるといいけど)
大事な部下の成長とストレス管理は指導者の務めだ。
仕事のストレスを仕事で解消させる。
任務のボリュームと重要性からなる適度な加圧を緩急や強弱をつけながら与えて成長を促す。
それなりに難しいが見返りもまた大きい。
今回は緩く弱く。彼女なら大抵の防備やダイバーなど物の数ではない。相対すれば海の藻屑、大きめに残った肉片は海凶のエサだ。
不安材料があるとすれば想定外の乱入によってキャパシティを超えてしまうことか。
(来て欲しくないのは今のところ2人、シャック・ロックスクリームと……ギンジ・ギアーズ)
グレイブは海賊だけでなく、同じく外部のリソースである氷河の社、もといギンジ・ギアーズにも助力を求めたに違いない。
(怖いな、彼が出てきたら1人でも戦況を変えてしまうじゃないか……出てこないんだけどさ。そもそも”例の場所”も明かしてないだろうし。万が一があるとしても……必要経費の範疇だな)
傷ついた部下という楔は打ち込んでいる。勝負の急所は押さえ込んだ。
それでもだ。
思い出す度に、どの体にもないはずの古傷が警告するように疼きだす。
身を以て思い知った事とはいえ、とうに過ぎ去った事でもある。ただの情報の1つとして処理すべきもので、いつからか陸奥国はそうしてきた。
それでもだ。
意図せずとも長く、不本意なれども厚く、常軌を逸する程うず高く積み重ねることになった記憶という書物。
その全体量からすれば、ほんの一節にも満たない出来事が異彩を放ち、現在も鮮明さを失わなずにいる。
◆◆◆◆
影を踏む、後ろに隠れる。
これまでやってきた事に、今しがたもやっとことにフィオナも自分の心はマヒしていたのだと腑に落ちた。
なんて我が身かわいさだろうか。血肉どころか心ですら痛みを覚えたくないとは。
醜いのだ、結局は。自身の平穏がとかく惜しい。
誰かを守りたいという気持ちすら誰かに守られたいという応酬への期待と執着でしかない。
気持ちにすら自己保身が分け入ってくる。
だからこそ、見返りではなく理屈でもないものを求めるのは自然だった。
そうしてやっと見えた。
持て余すほど、相手が嫌がることに臆病になるほど、それほどの者に出会えた。それなのに自分はまた繰り返した。
彼がそうではなかったということにして、些末なことにしようとして。
「確かに死ぬかもねー……」
思わず振り向くとそこにいたのがシャックでフィオナの気持ちは余計に追いつかなくなる。
そんな観察するような目で。こう言ったならどんな反応を見せるのか、と。
こんな内心を暴こうとするような人間だっただろうか。
「い、あ、えっ……」
「うん、いやさ。連れて行かないってそういうことだよ」
言葉を忘れたように口ごもるフィオナへ薄く薄く微笑むシャック。
刺すような苛立ちと煮えくり返る焦燥は紅い眼光からのみ発せられ、声と表情は穏やかに揺蕩う。
それは深也の意図もフィオナの成り立ちも知っているシャックだからこそ。
だからこそ、深也の意図を汲むほどにフィオナの茶番をこのままにしてはおけない。
両者とも”命が惜しい”という考えの基で現状に至っているという理解がそれに拍車をかける。
片や「彼女の命が惜しい」と、片や「自分の命が惜しい」と思考が走った。
同じものを見つめながら、こうも違う。
献身の対象にならない生き汚さ。それを自覚して醜いと、今この瞬間に戸惑う悠長さ。
この深刻な女心に事務的な共有報告をしたところで何の効能もないだろう。
真綿で首を絞めながら毒液の雫を眼球に落とし続けて目を覚まさせる必要がある。
「まぁまぁ、そうしていたらどうかな、それがシンくんの希望に沿う形でもあるし」
「でも”死ぬかも”って……」
「うん、君がね。足手まといって言われて置いてかれたんでしょ」
「は?…い…」
「まさかシンくんが自分が死にたくないから君を置いていったとでも?」
小さく息を吸って黙り込むフィオナ。もう飲み込めないところまで来た。
人格を形容する言葉に『器』がある、シャックの目にはフィオナの様相は張り裂ける寸前に映った。
きっと自分のことで一杯一杯なのだろう、その自分を除けなければ他人の入る余地など生まれないのに。ならば、ここから一針二針いくらでも入れていく。
「……」
「言われたこと額面通り受け取って、いつまで楽な解釈してるの? シンくんのことだから君に気を遣った言葉選びだろうけど……そもそも君の本質は自己中なんだから無用だったよね」
言葉の圧力に俯き続けていた蒼の瞳が深さを増してシャックを捕える。
”我が身の事しか考えていないのに相手の事で悩んでる様な態度をやめろ”だけでなく、それがお前の”根”だ、などと。
そういう生き方の本質や有り様が揺らがないと言われることがフィオナはたまらく我慢できなかった。
「眼で否定するのはいいけどさ僕らもバカじゃない。調べるべき事は抑えてある。君の痕跡、追えるだけ追ったよ。元”深理所属”のフィオナさん」
目を見開くフィオナ。
彼女はそこから先の事実確認という剣山をただ受け入れた。
「逃げて逃げて、逃げた先で見たモノからも逃げるのかい?」
そんな君の誇りは何かな?
◆◆◆◆
炎熱の支柱直営のホテルは質実を極める本部施設とは相反して外装内装ともに豪奢なものとなっている。
重傷を負った氷河の社の船員達の治療と警護のためと所長であるグレイブがそのホテルのロイヤルスイートルームと医師を”用意した”。
「うぉお……何ですかい、これ。気色のわる…いや失敬、奇妙な傷口は」
ふぅふぅと短いスパンでの息継ぎ、中年太り特有の呼吸法が板についた医師の男はベッドで横になっている患者の脇腹にある傷口を見て露骨に眉を引きつらせた。
専門家の知見からでも歯に衣着せぬ物言いのフォローが間に合わないほど特異な傷跡なのだろう。が、それにしても眠っているとはいえ患者の前で言葉にしてしまう医者は中々いないだろう。
悪気が一切感じられないところまで含めてギンジ・ギアーズは思わず苦笑してしまった。
「この街の人は皆……なんというか容赦ないですね」
「あー気に障ったようで、ほんと申し訳ない。どうか機嫌を直して貰えますと……ギンジ・ギアーズを怒らせたとなると今後酒を飲んだら、わたし間違いなく悪酔いになっちまいますよ」
愛想よく「でへへ」と汚く笑ってから医師は無造作に仰向けになって寝ている患者の体を横に向けて脇腹にある傷口が上へ来るようにした。
ここへ運ばれてくるまでに麻酔によって患者から意識と痛みを奪ってある。
「下手に麻酔をしても血の巡りがわるくなりやす。んでも、氷河の社のおサムライさんといえば音に聞く武芸達者。暴れられたら最後、わたしの目鼻を整えてもらうだけじゃあ、済みそうにないもんで」
「構いません、こんな良い部屋まで用意してもらって。感謝しています。彼は大事な”臣下”の1人です。よろしくお願いします」
「そりゃもう承知しております。といっても山はもう越えて後は経過観察くらいなモンでやすが……うーん、塞がったとはいえ、これは何とも……」
血は止まっている。開いた傷口の縫合は、とうに済まされていた。
襲撃後、それも船の中で行ったとあって雑ではあったが誤差の範疇であった。
こうなると医者がすべきなのは化膿や感染症を未然に防ぐアフターケア。何事もなければ、もう個人差の話で回復が速いか遅いかだけのところまできている。
(ま、今回来たのは別件でさぁ……)
まとった脂肪と変わらぬくらい厚くしまわれている医者の内心を見透かすほどギンジの人を見る目は養われていない。
アゴと首との境目が分かりにくい医者の頭が報告書と傷口をせわしなく往復する。
「どうやったかさっぱり分からんですが、こうなると分かっていてなお、人にむけられる奴がいるんですなぁ……」
傷口自体は切り傷に似ているが、斬ったのではなく”破れて”いる。両側から限界まで引っ張られたことで筋繊維が千切れ飛んでいるのだ。
「脇腹に右手左手と引っかけて……引き戸でも開けるみたいなもんですかな。皮膚と筋肉を無理やりこじ開けて中身を……うぇっぷ、またまた失敬しました」
「手は使ってませんでしたけどね……」
「ということは、そんな武器が……いや聞きすぎましたね。まぁ野暮せずただ治すのが医者。それでも、この傷を作った武器がまた誰かに向けられると思うと、わたしは胸が痛くて痛くて」
三文芝居、猿芝居、いっそ芝居という言葉を入れて表現するのも憚られる。
演劇などをかじったことがない者でも、この医者の言動が演技じみていることは直ぐわかるはずだった。
しかし、状況と立場と実力、持ち前の優しさがギンジの目を大いに曇らせていた。
「(あと一押しか?)……ギンジ様は、このまま部屋に留まられるようですが、多少席を外しても大丈夫ですよ? ここは”突貫で設けられた”公式には存在しない部屋、場所を知られていなければ襲撃も何もないでしょう」
「……そう、ですね。ありがとうございます」
この部屋に運び込まれた時点でお膳立ては済まされていた。グレイブはギンジを動かすことを諦めていなかったのだ。
あれだけの部下の前で要求を跳ね除けられてはスムーズなギルド運営をする際に必要な自身の権威に関わる。
グレイブは動かせないなら動きたいと思わせる方へと手法を転換した。
医者にギンジの中の不安を煽らせ、状況を作った。
「襲撃があったことを事前にグレイブさんに知らせていれば何か変わったかもしれないのか」
「どうかされましたか?」
「……少し反省をしていました」
どこか情けなく笑うギンジ。これとは別件だが過去の取り返しのつかない失態によりギンジは強い自虐性すら持ち合わせている。
そのことが彼の脳内でリフレインし、考慮しなくてよいはずのリスクを肥大化させていく。
具体的には今回のダンジョン襲撃と自分の船を襲った海賊との関連性。
もしこの2つが繋がっていて、あまつさえ、あの時のダイバーがいるとなれば何人死ぬか分からない。
(陸番窟には紡ぎ手と原詩の魔導を送り込むって言ってたな……いやダメだ、可哀想だけど一度は断ったんだ、そこまでの介入は出来ない)
おそらく隠匿される会合とはいえグレイブという組織のトップからの申し出に、ギンジも組織のトップとして辞退という返答をしたのだ。
もはやタダで翻すことは出来ない。
(グレイブさん相手に隙も借りも作らない方がいい。ただ……後始末は僕がしないといけないか)
ギンジ・ギアーズは優しい、愚かしいまでに。
最強となってから、彼の判断には”不幸にも”悪しき結果が伴わないでいた。
1人で考え、1人で動き、それで何とかなってしまう。そんな化け物が考えていることは、自分の周りの人間には、せめて笑っていてほしいということ。
「(いっそ毒ですなぁ……)」
打って変わって分かりやすいギンジの内心を見透かす医者は当人に聞こえぬよう小さく、他の音で潰れてしまうほど小さく呟いた。
理性を上回る優しさという”感情”、それでも上手くいってしまっている。それだけ強いということなのだろうが、言わば現状はダムのようなものだ。
決壊するか、しないか、その両極端しか結果はない。
いずれどこかでくるであろう限界値、ギンジ・ギアーズの強さでも捌けない大瀑布が引き起こす惨事など想像しただけでも恐ろしく掻き立てられる。
だが自分は医者、現場近くにいることは、まず無いだろう。
(近くで見たくないと言えば噓ですがね)
焚きつけるだけ焚きつけても火の粉が我が身へ降りかかるのはごめん被る。
性根からの野次馬である医者はギンジに呆れながら、傍観者の愉悦によって、こみ上がってくる笑いを必死でこらえていた。