7章-(4)この世の影と闇と
その瞬間、わたしは悲鳴をあげそうになった。
動いた。
あの巨大な男の影が。
右手の斧を大きく振り上げ、ゴボゴボという濁った声と共に、ソウジとマーリカへ振り下ろす!
「来るよ、ソウジ」
「わかっている」
――ドゴオッッ!
雷が落ちたみたいな音と共に、レンガ造りの家がまっぷたつになった。
ソウジとマーリカは素早く二手に分かれ、それぞれがあの斧男の影へと走る!
「――左足を狙うわよ」
「了解」
マーリカは斧男の影の左足を恐ろしく素早いムチさばきで何度も切り裂く。
ソウジはムチの届かない範囲をよけつつ接近し、斧男の影の左足へ強烈な斧の一撃を加えた。
たまらず、斧男の影がぐらりと揺れ、ゆっくりと前方へ倒れていく。
「〈千本凍槍〉土肉貫き遍く穿て!」
マーリカが呪文を叫ぶと。
地面からたくさん氷の槍が現れ、倒れる斧男の影の全身をグサリと貫いた!
倒した……?
じゃあ、ジュンは……?
わたしは彼女の身を心配したが、私の不安は“悪い意味”で裏切られた。
「マジかよ……」
呆然と呟くソウジ。
彼の目の前で、氷の槍で貫かれた斧男の影がドロリと溶け――やがて液体のようにぐるぐる渦を巻いて影が集まり、再び元の姿へと再生していく。
飛び散った影の破片が次々にくっつき、大きくなり――気がつくと、わたしの右側面からあの斧男の影がすさまじい速度で迫っていた。
「チッ!」
影がわたしを取り込むより一瞬早く、ソウジはわたしを抱きかかえ、安全な場所に飛びのいた。
「フー、めんどっちいなー、どうやって倒すか……ん?」
マーリカが、ふと斧男の影の何かに気づき、目をこらす。
わたしも見てみると……斧男の影から、無数の光が浮かび上がっていた。
何か、変な模様が浮かんでは消える。
あれは……なにかの文字……?
「ツイッター……むこうはネット掲示板の書き込みか……?」
ぼんやりと呟くソウジ。
もしかして……あれは彼の元の世界の言葉なのだろうか?
「なにソウジ? あのデカブツのダサいタトゥー、知ってるの?」
「俺のいた世界の言葉だ。SNS……ネット掲示板で炎上して、叩かれているっぽい感じだが……」
「SNS? ネット掲示板? なにそれ?」
「……ようは、愚痴を書ける回覧板とか、立て看板みたいなもんだ。知らん奴が勝手に書き殴って、それを別の奴が読んでまた書き殴って……落書きだな。ようするに」
「ふうん? んな事してなにが楽しいのかよくわかんないけどさ……まあ、あの転生者がどうしてこうなったかってのはわかったかな」
腰に手を当て、フン、と鼻で笑うマーリカ。
「そのしょーもない落書きで子供堕ろしたことを責められて、それで病んじゃってる感じ? アホが書いたアホな落書き真に受けるとか、書いたアホ以下なんじゃないの?」
「……誰もかれもがお前みたいに考えられるわけじゃない。軽い気持ちで吐いた誰かの悪口が、誰かの心をズタズタに引き裂いてしまう……よく聞く話だ」
ソウジはため息を吐き、忌々しく斧男の影に浮かぶ文字をにらみつける。
「どいつもこいつも、お互いを罵りあい、蔑み、あらを探し、執拗に相手を否定しマウントを取り続ける……何のためなんだろうな? んな事し続けても、自分が幸せになれるわけじゃねえだろうに……」
「んー、まあ相手を罵ってる間は幸せなんじゃない? オラついてマウント取ってる間が最高に気持ちいいんでしょ? そういう自分に酔っ払ってるんじゃない? お酒飲む時みたいにさ、現実を忘れるために?」
「そのために、誰かが傷つく」
「ま、よく聞く話よね。虐げられている弱者は、そのさらに弱い者を虐げる……あの吸血鬼達の所でも言ったけどさ。ようするに“弱肉強食”の原則ってやつよ、それが」
マーリカは腕を組み、冷たい瞳で斧男の影を見据える。
「強者は弱者を虐げて、弱者はさらなる弱者を食い物にする……ヒトも所詮は動物だってことがよくわかるわよねー。あたし達より発達した文明でも、その原則からは逃げられないってのがさあ」
「人が人を平気で食い物にする……悪意。その感情はいつの世も消せないってのか……?」
「違うよ。弱肉強食は原則。善悪なんていう人の勝手な考えとは別物なわけ。善いも悪いも、結局行動の結果を赤の他人が勝手にラベル貼ってるだけだからね。善悪なんてのは宗教と同じ、ようは夢や幻想と同じってわけよ」
「……この世には善も悪も存在しない。そう言いたいのか?」
「善悪なんて言葉は弱肉強食の世が出来てから後に生まれた概念よ? 人が勝手に作った勝手な理屈に過ぎない。宗教っていう戒律の元に作り出された虚構、単なるまやかしってこと。わかる?」
……この世に、善も悪も存在はしない。
あるのは嘘……言葉は、嘘。
そんな風に打ちひしがれるヒマもなく――斧男の影が、再び右手の斧を振り上げ、振り落ろす!
轟音と共にガレキとケムリが飛び散る。わたしはソウジに抱えられたまま、彼と共に斧男の攻撃を回避した。
「哲学じみた事話してる場合じゃねえ……マーリカ、奴を倒す方法は?」
「そりゃまあ、魔法の使い手のあの女を殺すしかないんじゃない?」
あっけらかんと、軽い調子でマーリカはそう答えた。
殺す……?
ジュンを……殺す…………?
なんで? あの人はいろんな人に虐げられて……傷ついて……なのになんで……?
「……それしか方法はないのか?」
「ないよ? 術が暴走して本人にも止められないならどうしようもないじゃん? あの女を殺さない限り、あの影は動き続ける……ほっといたら被害はどんどん増えていくかもね?」
くくく、と邪悪な笑みを浮かべるマーリカ。
直感でわかった。
嘘だ。あの女は嘘を言っている。
きっとジュンを助ける方法はあるんだ。でも、それを隠してる。この男に……ソウジに殺させたいから……!
「方法がそれしかないなら……スジは通っている……」
ソウジはわたしを抱える右手とは別の、空いている左手で斧を逆手に持ち、柄で地面に奇妙なマークを描いた。
菱形に、大きく横線を一本描いた図。
ソウジがそれを描いた後――彼から、強い意志のようなものを感じた。
精神統一。敵を必ず殺すという、強力な意思。
いけない……このままだとジュンが……!
わたしはソウジの服を掴み、両手で何度も引っ張る。
「? どうした?」
やめて! ジュンを殺さないで!
言葉は――やっぱり出ない。
でも、止めないと。伝えないと。言葉以外の、どんな手段を使っても……!
「お前、やっぱり言葉を話せないのか? 一体何を――!?」
ソウジが素早く、わたしの頭を地面に押さえる。
瞬間。
――ドボオオッ!!
周囲の建物を一気に薙ぎ払う、斧男の影の一撃。
ソウジは落下する破片からわたしかばってくれたみたいだ。彼が立ち上がると、ガラガラと背中から建物の破片が滑り落ちた。
唖然としていると、ソウジがわたしを見下ろしながら、口を開く。
「どうしてもあの女を殺して欲しくないのか?」
ちょっとの間、呆気にとられたけど、わたしは急いで2、3回首を縦に振った。
「殺す以外の解決方法は?」
わたしはぎくりとした。彼女を助ける方法。そんなの知るわけない。
でも――きっと、彼女は自分の感情に振り回されているだけ。
感情を落ち着かせれば――直接わたしが会って、話せば、きっと。
身振り手振りでそう伝えようとして、その後でわたしは絶望的な気持ちになった。
――でも、わたしは、言葉が――
「いいだろう」
しょんぼりとしていたわたしを、ソウジは突然左手で抱え上げた。
「お前の考えに乗ってやる。ひとまず、あの女の元へ行くぞ」




