0章-(6)果てのない慟哭
頭の中がゴチャゴチャの状態で、不安で、恐ろしくて。
そんな中でやっと口にできたのが、そんなセリフだった。
瑞希は驚いたような顔をして……やがて、クスリと小さく笑う。
「……今日で最後。長くこの病気と付き合ってるとね、わかるんだ。次はどれくらいで発作が来るかってさ。そろそろ、ヤバいと思う。
次に発作が来たら、もう学校には行けない。素敵な思い出はできなかったけど、楽しい人とは知り合えた、かな」
…………
もう、会えない。
だけど、最後に、最後に――これだけは言っておかないと……!
「最後にさ……お願いがあるんだ」
瑞希は、ふぅ、と小さく息を吐き、言った。
「私を殺してほしいの」
…………え?
瑞希?
いま、なんて言ったんだ?
「わたしの最後のお願い。この街から出る前に――わたしを殺してほしい」
困惑しながら、彼女を見た。
すると――恐ろしく真っ直ぐな彼女の瞳がこちらを見返してきた。
いつものウソじゃなかった。
本気で、言っていた。
「もうさ。疲れちゃったんだ。そろそろ終わりにしたくてさ。人生を」
――なんで。なんで! 治療は……!
「治療はもう受けてないよ」
――じゃあ、なんで……
「痛み止め、ぜんぜん効かなくてさ。このまま死ぬまで苦しむと思うとうんざりする。だから、ひと思いに……さ」
――別の病院には行ったのか?
そう訊くと、瑞希が顔をうつむかせた。
別の病院に行ってないのか? なら、まだ諦める必要はないんじゃないか?
俺は必死に彼女を説得した。
――もしかしたら助かるかもしれない。別の病院で治療を受ければ……あきらめたらそこで終わりじゃないか……?
「……お父さんとおんなじ事いうよね」
顔をうつむかせながら、彼女は低くそういった。
怒りを込めた、低い声で。
「あきらめたら……って。わたしが軽い理由で絶望してると思ってるの? ちょっと辛い出来事があったからって、ヘソを曲げてる子供に諭すみたいにさ」
――あ……いや、俺は――
「諦めたくないよ……生きたいよ! でも……もう限界なんだよ……
治るかもわからない。むしろ治らない可能性の方が大きいのに、いつまでもキツイ治療を受け続けてるこっちの気持ちがわかる!? いつまでも……いつまでも……希望も見えなくて。明日死ぬかもしれないって不安を感じながら、起きてる間も寝てる間も吐き気と痛みに苦しんでるわたしの気持ちが……わかるの!?
死にたくなんてないのに!『いっそ死んでしまいたい』って思うほど苦しさが! わからないの!? あきらめたくないのはそっちでしょ!? 自分の勝手な気持ちを押しつけないで!!」
涙。
月明かりが、彼女の悲痛な涙を輝かせた。
――俺は……そんな……ごめん。
「……謝ってくれなくていい。最低だよね、わたし。八つ当たりなんか、するつもりなかったのに……」
しゃくり上げながら、涙を手で拭う瑞希。
沈黙。
だけど、ここで『最後まで諦めるな』とか、『お前の気持ちはわからないけど、その辛さはわかり合いたい』とか……そんな上っ面だけのことを言えるはずもない。
わかるのは、彼女は言葉のやりとりをしたいのではない、ということ。
彼女が欲しいのは、寄り添ってくれる“誰か”
孤独な彼女の悲痛な願いに……寄り添い、付き合ってくれる誰かを……。
だけど……だけどそれは……!
思い詰めた顔で、両肩を抱くようにしてうずくまる瑞希。
ぬるい潮風が吹き、岸壁をなでる海の音が聞こえる。
しかし重苦しい沈黙は消えない。
……これ以上、沈黙に耐えることができなかった。
――俺にはできない。
「総慈くん……」
瑞希はこちらを見ずに、悲しそうに目を伏せる。
――できないんだ。まだこれが、ただの他人ならよかった。ただの知り合いならよかった。ただの友達なら……よかった、のに……
「え……?」
――好きなんだ。
潮風が、薙ぎ、凪いだ。
「…………」
――ごめん。自分でも何を言ってるのかわからない。でも駄目なんだ。ずっと一緒にいたいんだ。学校でも……学校を卒業しても! ずっと……隣で、お前が笑っていれば……!
「……知ってたよ」
――え?
「キミの気持ちは、なんとなく、ね」
…………
瑞希は瞳を閉じ、決意したように、開く。
「だからキミにお願いしてる。わたしが好きなら、殺して欲しい。
そしたらさ、もう二度と誰かを殺そうとは思わなくなるでしょ? わたしが好きなら、ずっとわたしを覚えてくれる……キミは、まともに生きられる」
……そんな。
「私の命はもう長くないから。
だから使う。残っている分の命を使う。キミに預ける――私が生きていたって証を」
……そんな風に、自分の……お前の命だぞ……?
「卑怯だよね……自分でも嫌になる。結局はキミの気持ちを利用しようとしてさ。キミの、気持ちも……考えず、に、さ……」
瑞希は両腕で自分の肩を抱きながら、徐々に、苦しげに、息を荒げている。
まさか……発作が……?
「でも……こうするしか、なくて。どうすることも、できない、んだ……
このまま、死んでいくとか……嫌なんだよ、ね……だから最後に、最後に、キミに……」
――もういい! しゃべるな! 今救急車を――
「それはダメ!!」
携帯を取り出そうとした、俺の手が止まる。
「こんな所で救急車なんて呼んだら……バレるのが早まっちゃう……ごめん、ね? 総慈くん……病院まで、連れてって欲しい、かも……」
荒い息で、苦鳴を押し殺しながら、なおも彼女は俺の身を案じる。
……胸が張り裂けそうな気持ちとは、こういうことだろうか?
痛いほどに、苦しくて、つらくて……いっそ胸をかきむしり、引き裂きたくなるほどの、やるせない気持ち。
俺は無言で彼女を背負い、彼女の入院する病院まで、歩く。
「あはは……お願い事ばっかりだね、わたし……」
背中の彼女は、今にも消えてしまいそうなほど、軽い。
夜道。誰一人すれ違わない。
見えるのは、遠すぎる街の明かり。
聞こえるのは、足音と、彼女の荒い息遣い。
「……ごめんね、総慈くん……言ったこと……全部、忘れていいよ……」
瑞希は、息も、絶え絶えで。
「……騙され、やすいなあ……ウソだよ……ウソ……」
か細く。声は、消え入るように細く。
…………俺は無力だった。
彼女を助けることはできない。
彼女を救うことはできない。
彼女を守ることはできない。
……俺が。俺が唯一、彼女のために、できること。
それは…………
たった一つの、彼女の願いを……叶えること……!
――俺は、壊すことしかできない――
苦しみ、荒い息であえぐ瑞希。
しだいに、己の目から涙が流れる。
悲しいのではない。
苦しいのではない。
俺がその時抱いた感情は――この世への憎しみ。
なぜいつもこうなる?
なぜ彼女が死ななければならない!?
なぜいつも――なぜ! なぜ!? 誰か答えろよ!?
誰か!!
……………
……もうたくさんだ。
もういい。もうどうでもいい。
――こんな世界、ぶっ壊れちまえ――
翌日。
午前12時。
俺は瑞希を送り届けた病院に、再び訪れた。
目立たないうよう黒い服を探したが、冬服しか持っていなかった。なので肌着の上から直接着たがやはり暑さで汗ばんでしまう。
俺は制服のポケットをまさぐり、確認する。
手のひらのカッターナイフ。
……瑞希は集中治療室にいると聞いた。
生命維持装置か何かのチューブでも切れば……彼女の願いは叶えられる。
当然ながら、病院の正面玄関は閉じられている。
だから俺は下校時に一度立ち寄り、窓の一カ所の鍵を開けておいた。
病院の医師や看護師が鍵に気づいてなければ侵入できるはず。
夜の暗い窓に近づき、そっと引いてみる。
スルスル、と開く窓。よし、開いていた。
俺は一度深呼吸し――首に下げた時計を握りしめる。
キチリ。キチリ。キチリ。
……少しだけ心が落ち着いた。大丈夫だ。俺はやれる……
すまない、瑞希。
こんな事しかできない俺で――すまない……!
そして窓に足を掛け、病院の内部へと入った。
だが。
そこは病院ではなく。
果てなく落ちる暗闇――――




