0章-(4)止まらない悪夢
……記憶が蘇る。
忘れていた記憶。
『自分の心がどうしようもなくなった時、これを使って。
自分の鼓動の音と、この時計の音を重ねるの。
そうすれば、どうしようもない心を冷やすことができるから……』
早世子さんは、そういって、悲しそうに笑ったんだ。
どうして俺に対して、そんな風に笑うんだろう。
思い出した。
6歳くらいの頃。
施設で一番年長のやつが、俺にケンカをふっかけてきたのだ。
他の年下の奴に命令し、羽交い締めにしてサンドバッグのように一方的に殴ってきた。
「お前生意気なんだよ。年下のくせに」
そう言って殴る。よくわからない理由で殴り続ける。
……なんだこいつら。年下だからなんだよ? 馬鹿じゃねえのか?
殴られながら、そんな風に思っていた。抵抗はできなかった。
だが。
「……こいつ、母ちゃんにイジメられてここに来たんだろ? ダッセえ! ママにイジメられたのぉ~! あはははは! あははははははははははははは!!」
脳の奥で。
何か、歯車のようなものが噛み合う音が、した。
後ろから羽交い締めにしている奴に、思い切り頭突きをした。
俺から手を離し、鼻を押さえてよろめく。俺はすかさず股間を全力で蹴り上げた。
ぐじゅり、という嫌な感触があった。
絶叫。
年長の奴も何か叫んでる。
俺に殴り掛かろうとした。
奴の拳を避け、隣の部屋へ駆け込む。
隣はキッチンだった。冷蔵庫の近くに掛けられたハサミを握りしめる。
追ってきた年長の奴の顔が、みるみる青ざめた。
両手を振って、なにかを叫んでいる。
やめろ。やめろ。そう言ってるのだろうか?
だけど何も聞こえない。ハサミを振り上げ切っ先を奴の胸に刺した。
絶叫。
だけど、何も、聞こえない。
何度も刺した。何度も。何度も。何度も。何度も。
声は聞こえない。だから刺した。大したことじゃない。
もっとやろう。徹底的にやろう。
もっと。もっと。もっと。もっと。
ガードしている奴の腕ごと何度も刺していると、誰かの手が俺の腕を掴んだ。
強い手。大人の手。
何か叫んでいる。叫びながら俺の全身を抱きしめ、押さえつける。
俺は、いら立った。
――邪魔をするな。
強引に振り払い、邪魔をした奴にハサミを刺した。
絶叫。
ざまあみろ。
倒れる大人。
それは――早世子さん、だった。
……そうか。
唐突に、理解した。
なぜ施設のみんなは俺と関わろうとしなかったのか?
なぜ学校のみんなは俺を避けているのか?
どうして早世子さんの目に眼帯があるのか?
どうして――悲しく笑うのか。
『自分の心がどうしようもなくなった時、これを使って。
自分の鼓動の音と、この時計の音を重ねるの。
そうすれば、どうしようもない心を冷やすことができるから……』
どうしようもない、心。
あの歯車の音。
あの音が聞こえると、何かのスイッチが入ったかのように俺の体は俺の意思とは無関係に動く。
まるで機械のように。
まるで時計のように。
どうして忘れていたんだろう?
こんなに。
こんなに、恐ろしい、自分自身を――
――ハッ、ハッ、ハッ――
音が聞こえる。
自分自身の、荒い息。
視界が鮮明になり、割れて半分だけになったブロックを地面に置いて、一呼吸つく。
ふと目を上げると、瑞希がいた。
なんとなく気が緩み、柄にもなく、彼女に笑いかけた。
しかし彼女は――自分のスマホを見つめたまま、無表情。
一体どうしたんだ?
俺がそう、言おうとすると。
「……それが本当のキミなんだね。総慈くん」
本当の俺?
何の話だろう? 彼女の発言にはいつも戸惑ってしまう。
す、と瑞希がスマホを目の前にかかげてみせた。
携帯の液晶の明かり。
それが――地面の惨状をありありと照らし出した。
セメントの地面に広がる、赤黒い血とピンク色の肉。
ところどころに見える白いものは、石なのか、骨なのか。
俺がブロックを置いた所を中心に、赤は円状に広がっている。
……なんだこれ。
そう思った瞬間、忘れていた夏の暑さと蒸れた肉の生臭さ、血の鉄臭さといった感覚が蘇る。
吐き気がした。
誰かのイタズラか? 何か、動物を殺して中身をぶちまけたようにも見える。
一体誰が……こんな……
ふと、血だまりの中に沈む、誰かの胴体が見えた。
赤い服……いや、血で染まった白いシャツ。ウチの学校の制服。
――あ、あ……!
ゾッと背が冷えて、数歩後ずさり。
足がふらつき、背後に倒れてしまった。
そして、見た。
俺がさっきまで持っていたブロック。半分に割れ、血でべったりと濡れている。
……まさか。
恐る恐る、自分の両手を、見る。
両手は――血で真っ赤に染まっていた。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。
俺が? ……俺が?
殺した…………?
――ハアっ、ハッ、ハッ、ハッ――
呼吸が再び荒くなる。
耳鳴りがする。
蒸れた血肉の臭いが鼻や口に侵入し、強烈な吐き気まで催される。
鼓動が痛いほど激しくなり、不安と恐怖が交互に襲う。非現実感と現実感がグチャグチャに混ざり、気が狂いそうだ。
両手を付き、うずくまる。全身が痺れたように動かない。
俺が? なんで? そんなつもりなかった? なかったのに? なんで……?
すると、遠くで音がした。
パシャパシャ、という水の音。
音に目を向けると――バシャリ、と大量の水を掛けられた。
唖然とする。
目の前には、水が流れるホースを持った、瑞希。
「片付けるから、手伝って」
そう言って、彼女は無表情で地面の血を水で洗い流し始めた。
「総慈くんはそこの麻袋に破片を入れて。胴体はあとでなんとか折り曲げて、袋に入るようにしましょ」
髪や頬からポタポタ垂れる水。
次第に頭が冷えて、状況が理解できた。
証拠隠滅……するつもりなのか?
でも、なんで? なんで彼女が率先して……?
「ほら早く! こんな所見られたらヤバイでしょ!?」
彼女に急かされ、俺は彼女の言う通り、散らばった肉や骨を拾い集め、袋に入れていく。
――瑞希……
不安になり、恐る恐る呼びかけたが、彼女は何も答えない。
水で周辺を徹底的に洗い流したあと、彼女は缶に入ったシンナーを思いっきりぶちまけた。
血の汚れを落とし、さらに臭いをある程度飛ばすためだ、と彼女は言った。
それで完全に落ちるのか、と聞くと「ここにある物だとこれしか使えない」と返した。
証拠隠滅のためには不十分らしいが背に腹は代えられない、ということらしい。
携帯の明かりで目に付いた破片を全て拾い上げた俺は、清掃を終えた瑞希と一緒に残った胴体の処理にとりかかる。
胴体の衣服を全て剥ぎ、膝と腰を曲げさせる。
死後硬直が始まっているようでかなり苦労したが、なんとか膝を抱えた状態にすることができた。
瑞希は、どこからか大型の麻袋を持ってきて、胴体にそれをかぶせた。
完全に覆い被せることはできなかったので、上下に袋をかぶせて、胴体が見えないようにする。集めた破片は大型の袋の中に収納した。
ヒモと針金で強引に縛ると、遠目にはデカいズタ袋のように見える。
それを二人がかりで持ち上げ、一輪車の上に乗せた。
「よし……じゃあ、行こっか?」




