0章-(2)焦燥
休み時間。移動教室へ向かう途中、彼女の後ろ姿を見た。
なんだかちょっと新鮮で、柄にもなく声を掛けようとした。
その時。
「……あいつだろ? 布地嶋瑞希?」
「美人じゃん。肌白えー……あれでヤリマンってマジなん?」
「マジ。先輩もヤッたし先輩の弟ともヤッたってよ。マジやべー……」
「メンヘラなんじゃん? 変なもん感染されそうだよな。どんだけ可愛くてもなあ」
…………
たわいもない、噂話。
そう思った。思い込もうとした。
だが……なんだろう、この気持ちは?
ざわざわと、胸の奥で不安が広がる。
透明な水の中に墨汁を落としたように、じりじり、じりじりと……
俺は彼女と付き合っているわけじゃない。
なら、彼女がどんな恋愛をしていようが俺には関係のないこと。
友人でも、本人のそういう部分には口を出してはいけない、はずだ。
だけど……
この気持ちは、なんなんだ……?
襟元から、銀色の懐中時計を取り出した。
早世子さんからもらった、高校進学祝いの時計だ。
『自分の心がどうしようもなくなった時、これを使って。
自分の鼓動の音と、この時計の音を重ねるの。
そうすれば、どうしようもない心を冷やすことができるから……』
言われた通り、手の中の時計の音を感じ取った。
キチリ。キチリ。キチリ。
キチリ。キチリ。キチリ。キチリ。
キチリ。キチリ。キチリ――
ダメだ。ため息を吐いた。
不安感は、焦りは、晴れない。
何なんだ……自分で自分の心がわからなくなった。
俺は今まで、自分の心というものを100%理解しているし、制御できていると思っていた。
だが、今は平静を装うだけで精一杯。授業の内容もまるで頭に入らない。
こんな風になったのは、これが初めてだ――
……本当に?
ハッ、と目をみはる。化学の授業はつつがなく進んでいる。
……『本当に?』
何か、なにか今、知らない記憶が思い浮かびそうになった。
思わず、制服の上から時計を触る。
不安。不安がさらなる不安の扉を開けようとしている。
頭がどうにかなりそうだった。気になる事が多すぎて、気持ちが混線しグチャグチャになっていた。
時計だけが、規則正しく音を刻む。
俺は、どうすればいい……?
キチリ。キチリ。キチリ。
俺は、何をしているんだろう。
午後17時22分。夕暮れの町並み。
人の混み合う駅からようやく出ると、彼女の姿が見えた。
瑞希。
……これじゃストーカーじゃないか。
ため息を吐く。馬鹿馬鹿しいと思う。気づかれる前に帰ったほうがいい、と思う。
けれど、こんな気持ちのまま、家に帰ることは……できない。
……いっそ、声を掛けてみればいい。
そう思った。
だが、なんて言えばいいんだ? なんて声を掛ければ?
個人の恋愛事情なんて……聞くべきじゃない。
友達なら……
ただの友達なんだから……こんな気持ちは……
ぐちゃぐちゃな気持ちで視線を落とす。そして、再び彼女を見た。
すると。
彼女の背後に、ウチの制服を着た三人組の男がいることに気づいた。
彼女の進行方向にぴったりくっつき、なにやらヒソヒソとお互いに耳打ちしている。
直感した。
あの3人は、彼女を襲う気なのだと。
個人の恋愛事情には踏み込むべきじゃない。
だが……これは別だ。初めてできた友達を助けなければ……!
俺は三人組に気づかれないよう、ある程度距離を保ったまま後を追った。
警察には連絡していない。たまたま進行方向が同じだった可能性も捨てきれない。迂闊な行動は彼女にも迷惑が掛かる……
後を追い続けると、大きな建物の工事現場が見えた。
元は古い民家が建っていたのかもしれない。看板に、マンションの建設予定日が書かれている。
瑞希が工事現場の前を通ろうとした、その時。
3人組が動いた。
あっ、と声を出す間もなく、瑞希は3人の男の腕に掴まれ無人の工事現場の中へと連れていかれた。
まずい。まずい。まずい! どうする? どうする!?
携帯電話を取り出す。警察に電話を。
だが――警察がくるまでどれだけの時間がかかる?
その間に……どれだけの陵辱を彼女が受けることになる……?
クソっ!!
携帯をしまう。そして俺は用心しながら、工事現場の中へと入った。
あの3人組に見つかればアウトだ。俺が見つかれば、あの3人組に動けなくなるまでさんざんリンチされる。そうなれば瑞希を守ることはできないだろう。
ゲームや漫画とは違う。俺は今までケンカをしたことはない。3人を相手にして勝てるとはとうてい思えない。
物音を立てず、慎重に近づく。
慎重に、慎重に。
近づいて……どうする?
どうやって、彼女を守る……?
ふと。
目についた。
セメントのブロックを重しにした木の看板。
柄の部分は完全にセメントで固められているようだ。
両手で握り、持ち上げる。
先端に偏った重心。柄の部分が抜ける心配はない。
右肩にかけた。これで音を立てずに移動することができるだろう。
「……なんのつもり?」
瑞希の声。
声の先へ、音を立てず、ゆっくり近づく。
「お前だろ? 布地嶋瑞希?」
「ヤリマンなんだろ? な? 誰でもいいんだよな?」
「……俺らとも遊んで欲しいな、ってさ」
沈黙が、流れる。
薄暗い中、なるべく砂利の少ない場所を選びながら、ゆっくりと、近づく。
「……嫌」
「は」
「……っけてんのお前?」
「殺すぞ?」
カチャカチャと金属の音。
ようやく3人組と瑞希がいる場所に辿りつく。
すると、1人が制服のズボンを脱ぎ、下半身を露出している姿が見えた。
「咥えろ。オイ?」
「…………」
沈黙。
「なあ……なんか言えや!!」
ガン! と一人がシンナーの入った缶を蹴り飛ばした。
「もういーよ。さっさと? 犯っとけばいいって」
「おっし。アツシ、両腕押さえとけ。俺足押さえとくから」
「俺が先でいいの?」
「もうスタンバイしてんだろお前。さっさと挿れろよ……時間ねえし、時間かけるとバレる。俺とアツシもだから、さっさと出せよ?」
「中出していい? お前ら入れられる? 俺の後で?」
「いいからやれって! 緊張してんのかよバーカ!」
ゲラゲラと笑う3人組。
瑞希は……男2人に押さえつけられたまま、一言も発しない。
俺は、ブロックのついた木の柄を握りしめ、三人組へと、ゆっくり近づく。
近づいて、近づいて……
……それで、どうする?
これで殴れば……ただの怪我じゃあ済まないだろう。
最悪、相手は命を落とすかもしれない。それだけはやってはいけない。当然だ。
ならどうする?
男3人をまともに相手して勝てるわけはない。
それなら……脅せばいい。
そっと背後に近づき、振り下ろすマネをすれば、ビビって逃げ出すかもしれない。
そうだ。あくまでフリだ。
脅すだけでいい……このまま気づかれずに近づき、ブロックを振り上げて、おどかす。
それだけでいい……それで逃げ出すはず……
体の中心が痺れるような感覚。
心臓の音が耳元で聞こえる。
荒くなる呼吸。
呼吸音を聞かれないよう、息を無理矢理ひそめ、息が苦しくなってくる。
指先の感覚が痺れるように薄くなっていく……
大丈夫。大丈夫。大丈夫……
でも。
もし、これでおどかしても、あいつらが逃げなかった場合は?
もし、逆にあいつらを怒らせて、逆襲された場合は?
その時は……その、時は……




