15章-(8)
ミシリ。ミシ。ミシ。ミシ。
異形から奇怪な音が漏れる。固い皮で覆われた異形の口元に何かがモゾモゾ蠢いている。
次の瞬間。
フジツボのようにすぼまった異形の口から、一本の人間の指が現れた。
すると指は次々と現れる。まるで岩場の穴から一斉に触手を伸ばすイソギンチャクのごとく、口から何十本もの指がズルリと現れた。
「ひ……!」
「……う、お……!」
遠くからコスタとロブの悲鳴が届く。
あまりの光景に立ち尽くす俺の目の前で、口から出た大量の指が動きを見せる。
ぬるりとしなやかに左右へ動いた後――ミシミシミシギチギチギチ、と不快な音と共に、異形の口元の皮を力任せに剥がし始めた。
指が異形の口を左右に裂き広げていくと……更なる異変が起こる。
《コオオォ……コオォォ……ゴボッゴボ……はは、はははは》
声。今確かに聞いた、人の笑い声。
今の声は、この異形の声なのか……?
指が異形の皮を耳近くまで剥ぐと、レモン色の歯茎と異常に巨大な4つの前歯だけがある口が現れた。
異形は前歯をわずかに開けると、おぞましいほどの低い声で人語を話す。
《おお、おおお……! 転生者! しかも魔剣使い! しかも魔法を使える魔剣使い! なんという異例! 特異! なんたる脅威か……!》
ゴボゴボと下水の排水音のような不快な音と共に、異形は感嘆するような声を上げた。
……以前ダンウォードのジイさんにも指摘された。魔剣使いでありながら魔法が使える俺は特別なのだと。
魔剣使いは魔法を使えない。いや、正確には使いこなせなくなるというべきだろう。魔剣により感情を常に揺さぶられる状態では、感情のコントロールが不可欠である魔法が扱いにくくなるのだ。
魔法も魔剣も使い手の感情をエネルギー源とする。しかし魔法は感情が乱れるほど精度も威力も落ちてしまうのが欠点だ。魔剣によって感情がかき乱される状態では、どんなに魔法に秀でた者でも扱えなくなる……通常であれば。
俺が魔法を扱える理由はわからない。おそらくは転生者だから。ここの世界の者達よりも魔法への適正が高い転生者の肉体だからこその例外なのだ、とダンウォードは結論づけていた。
《ゴボゴボボ……お前のような相手を待っていた。絶対的な力を持つ敵。絶対的な力の差。確定的と言える死と絶望よ……》
……何を笑っているんだこいつは? 一体何を喜んでいる……?
《ああ。ああ。素晴らしい! 我が眼前に立つ理不尽たる凶運よ! その首を裂き息の根を断った時、あの方への忠誠心の深さを証明することができるのだ! 転生者の首ィィ……! 我が忠義のための極上の贄となろうぞ……!!》
何を言ってるんだ、こいつ……
狂った言動にゾッと背中を冷やす。
しかし。
ギイイイイィィィイイイィィイィィ……!!
俺が握る斧と相手の鉤爪が共鳴し、互いに高音を発する。
耳をつんざくハウリングのような音を聞いていると、だんだんと胸の内から激しい怒りの感情が湧いてくる……
《神に感謝しよう。我が命が尽きる前に、再び我が眼前に転生者を寄越してくれたことに――》
異形が何か気になる言葉を発したが、俺はそのまま斧を構えて突進。
怒りを込めた斧の横薙ぎはしかし、奴の鉤爪に易々と受け止められる。
異形は口元に生える幾多の指を波打たせ、感極まったような声を上げて笑った。
《どうぞご照覧をディーロ坊ちゃま!! このヴォルカーめが、見事転生者を討ち取って差し上げましょう!!》
両目のフジツボのような穴から赤い液体が流れる。異形の血。血の涙。
異形は抑えがたい歓喜に打ち震えながら、両手の鉤爪から恐ろしく濃い血の霧を噴霧した。
こちらが使う場合とは違い、相手が使う血霧は見通しが利かないようだ。俺は舌打ちしつつ距離を取る。
ドシュシュシュシュ!
甲板を足で貫きながら高速で移動する音。血の霧を巻きながら背後へ回ったようだ。
挑発するようなバレバレな動き。馬鹿にしてるのか?
俺は苛立ちを抑えつつ背後へ斧を振るう。
《ジャウッ!》
異形は頭を下げて攻撃を避け、俺の足下目掛け鉤爪を構えて飛び掛かる。
……狙い通りだ。
こちらの隙の大きい攻撃に反応し、まんまと反撃をしてきた。足下を狙って飛び掛かるその姿勢。そいつを待っていた。
時間操作魔法――移時限斬り。回避不能のタイミングで首を刎ねてやる!
だがその時、俺は驚愕する。
魔法が――発動しない!?
――クッ!!
俺は一瞬の判断でバック転。鉤爪の攻撃を紙一重でかわし、勢いのまま2度、3度甲板の上を跳ぶ。
《ジャアッ!》
異形の声。同時に赤黒い血の霧の中から、銀色の何かが飛来!
俺は着地と同時に斧でそれを弾く。
ガギギィン!
けたたましい金属音と共に見えたのは――3本の鉤爪。
射線を追うと、乱れた血の霧の奥に、異形がこちらに片腕を伸ばしているのが見えた。
その腕に鉤爪はなく、さらに後部に小型の弓と弦のようなものが展開している。
……あれで鉤爪を射出したってのか? 距離を取った敵への追撃用の機構。厄介な……!
異形は片腕から新たな鉤爪を生やすと、両手の鉤爪を交互に射出!
鉤爪は両刃。曲線を描く刃は、鏃のように貫くよりも獲物を斬り裂くためのものだろう。
俺は矢継ぎ早に撃たれる鉤爪を斧で防ぎながら、俺は改めて時間操作魔法を使ってみる。
だがやはり発動しない。
やはりこれは……奴が撒いたこの血の霧が原因だろう。
魔剣の血霧は魔法の元である“理子”の流れを阻害する。俺が時間魔法を発動する時、直前に移動先まで“理子”の流れが現れる。その流れが血の霧で乱されることで、こちらの魔法が封じられるのだ。
しかしどうする? 魔法が封じられた今、魔剣を操る奴を相手にどう立ち回る?
(((……簡単なことだ)))
魔剣の斧の声が俺の脳内で反響する
(((奴以上の力を見せればよい。更なる力を。更なる怒りを……)))
耳を貸してはいけない。この斧の企みはわかっている。魔剣は使い手の感情を引き出し、食らい、最終的に使い手の精神を破壊し尽くす武具。これ以上この斧に頼るわけにはいかない。
だがどうする? どうやってあの異形を倒す?
考える俺を嘲笑うかのように、状況は更なる異常さに突入する。
先ほど俺が弾き飛ばした幾多の鉤爪が……ふわりとひとりでに空中に浮かんだ。
これは、魔法? ……いや違う! 魔剣は使い手の意思に従って飛翔する! 床に散らばったこの鉤爪一つ一つもまた魔剣の一部なのだ!
40近い鉤爪がこちらに狙いを定めるように刃先を向ける。
まずい、まずい! 時間魔法が使えない状態で、これだけの数を全て防ぐことは不可能だ!
ここから移動を――ダメだ! 敵は“機先”をも使える! こちらが逃げる動きを先読みし攻撃される恐れがある!!
考えろ! まだ何かあるはずだ! この状況を覆す手段があるはずだ!
(((力が欲しいのだろう? 更なる力を求めよ。更なる怒りを滾らせよ……)))
考えろ……周囲を見ろ……勝機はある……必ずどこかに……
(((怒れ。怒れ。怒れ。怒れ。怒れ)))
(((己を窮地に追いやる敵を憎め。周囲で傍観し手を貸さぬ仲間共を呪え。この不条理を憎悪せよ)))
(((見ろ、世界は道理もなく我々を貶め嘲弄し! お前の愛するものや大切なものすら無残に奪い尽くす! 怒れ! 憎め! 呪え! 怒り狂え! 狂うのだ!!)))
――ごちゃごちゃうるせえんだよっっ!!
無数の鉤爪が飛来する中、俺は抑えきれぬ怒りの感情と共に血の霧を発憤。
同時に血霧を操作。武闘大会でシンに使った時と同じく、血の霧による巨大な大斧を作り出す。
――アアッ!!
怒りの咆哮と共に血の刃を甲板に縫い止め、周囲に太い血の鎖を張り巡らす。内部で微細な鉄塵を高速循環させた鎖は、周囲から飛来する無数の鉤爪を全て弾き跳ばした。
俺は甲板に刺した血の刃を巻き戻し、直径6メートル近い巨大な血の斧を肩に掛け、異形目掛け突進!
相手の血の霧をかき分け、血の斧による横薙ぎを放つ!
異形は素早く後方へ逃れ、マストに張られた縄に鉤爪を引っかけ、頭上高く跳ぶ。
その間に周囲にばら撒いていた鉤爪を操作。血の霧に乗じて俺の足下を狙って鉤爪を飛ばしてきた。
俺はその場で跳躍してかわす。逃げ場の無くなったところで、異形は頭上から襲いかかるつもりなのだろう。
……舐められたもんだな。
俺は跳躍し回避。同時に血の斧を振り、マヌケな襲撃者へ血の斧による報復を与える。
ギャギイッ!
金属音。血の斧による攻撃を防いだか。だが2度目はない。
血の斧のロックを解除。こちらの反撃で吹き飛ぶ異形へ、斧の刃を飛ばす――お返ししてやろう。逃げ場のない空中からの追撃だ!!
確実に殺したと思った。だが。
あの異形もまた魔剣使い。
俺が使える技は――奴も使える。
ギギャギャッ!!
耳障りな音。弾け散る火花。
俺は見た。血の斧から伸ばした刃を、異形が血の霧を操作した巨大な鉤爪により受け止めたのを……!
ガシュン!
異形は甲板へ無事に降り立ち――再び頭上高く跳び上がった。
すると、周囲の血の霧が奴の元へ集まり……やがて1つの形を取る。
それは、大量の血の霧によって形作られた、赤黒い巨大な鷹……!
《ディーロ坊ちゃま! ご照覧を! 地獄の底でご覧遊ばせ! この惨めで哀れな私めが転生者を殺す様をォォッ……!!》
魔剣は人の感情を引き出し、それを食らう。
歓喜、悲嘆、憤怒、吃驚、諦念、羞恥、憎悪、慈愛、情欲、当惑、屈辱、希望、絶望、覚悟……所有者のさまざまな感情。
それは忠義心も糧とする。既に死んでミイラとなった主人への常軌を逸した忠誠心。
そして魔剣が増幅させた感情は必ず相手への殺意に帰結する。異形の限りない忠誠心は今、俺への殺意へと変換された。
……ふざけるなよ。
俺の胸の内から、溶岩の如く赤熱した怒りが沸き起こる。
それは俺の意思の力では、人の力ではどうにもならないと思えるほどの感情。怒り。赫怒……!
お前の身勝手な忠誠心とやらのために俺に死ねというのか? ふざけるな。ふざけるな!!
(((そうだ! 怒れ! 怒れ!!)))
誰がお前のような奴に殺されてやるものか。お前が死ね。お前が死ね!!
(((そうだ! そうだ! そうだとも!!)))
俺が殺す! 殺してやる!! 気色の悪い忠誠心とやらごと叩っ斬る!! 今すぐ殺す! すぐに殺す!! 腑散殺す!!
(((殺せ! 殺せ! 殺せ!! 目に映るもの全てを殺せ! 殺し尽くせ!! お前の怒りをこの世に顕現せしめるのだ!! 全て全て全て皆々共々殺し尽くし果たせええっ!!)))
ギイイイイィィィイイイィィイィィ……!!
ハウリングのような耳障りな高音が更なる憤怒を呼び起こす。
《殺してやる! 殺す! 殺す! 殺す!!》
――お前が死ね! お前を殺す!!
血の鷹を纏った異形が降下。
俺は全長6メートルの巨大な血の斧を担ぎ、迎え撃つ!!
目の前が血のように赤く染まる。目の前の異形を殺す。俺の意識は1点の殺意へと収束される。
そんな中――俺は視界の端に、ありえないものを見た。
セイ、だった。
あの子が――異形と俺が激突しようとする最中、必死な顔で俺へ向かって来ていたのだ。
――クッ!!
怒りで赤く染まる俺の意識が、急速にクールダウンしたのを感じた。
――セイッ!!
殺意で充満するこの場所に、無防備で近づくセイ。
必死な顔。何かを守ろうとする表情――怒りに呑まれそうになる俺を救おうと、必死に伸ばす小さな手のひら。
駄目だ。
守らなければ。俺が守らなければ! 無防備なあの子を俺が守らなければ……!!
俺は血の斧を解除し、セイを庇うように抱きしめる!
頭上から迫る異形!
俺は――その瞬間、魔法でも魔剣でもない、第三の己の能力に思い至った。
――“マーカー”発動っ!!
叫ぶと同時に、俺は自分から数メートル離れた甲板の一枚に“マーカー”を放った。
7罰のスキルの1つ。全てのスキル・魔法に対し優先的に発動するスキル。
その効果は――注目する物の操作。すなわち相手のタゲの攪乱っ!!
ドドオッ!!
凄まじい轟音と共に、異形の一撃は俺とセイを逸れ、数メートル先のマーカーを付与した甲板へと放たれた。
俺はセイの小さな体を抱きながら、異形の攻撃が着弾した背後へと振り返る。
すると――異形はこともなげに、血の霧で作った鷹を操作し、空中へと再び飛翔する。
所詮“マーカー”のスキルは一時的な目くらまし。ここからが本番と言えるだろう。
だがどうする? セイを抱えたまま、あの異形を相手に戦えるか……?
またしても悩ましい難問が俺にのしかかる。
しかしその時――異変が訪れた。




