14章-(10)
「んひゃあああっ! キモイ上に恐ああっ!!」
慌てふためくウェンディを片手で抱え上げ、俺は階段の上で伯爵の放つ無数の黒い腕を回避。
壁面に当たった腕は、びしゃり、びしゃりと水気のある音を立てて一度潰れた後、ゆっくりと壁面や階段からはがれ、鎌首をもたげるようにゆらりとこちらに狙いを定める。
……厄介だな。俺はこの状況に思わず顔をしかめる。
初擊は“機先”によって回避することができた。しかし次も同じように回避出来るとは限らない。
先ほどの腕以外にも、伯爵から次々に新しい腕が生え、いくつもの肘を経由し蛇腹状に成長しながら、こちら目掛けてなだれ込もうとしている。
流石にこれ以上腕が増えられては“機先”のみで逃れることは至難だ。
そして……致命的なのが、ここまで俺の魔法である“時間操作”が全く発動できていないこと。
理由はいくつか考えられる。伯爵による妨害か、あるいはこの精神世界を作ったと言っていたウェンディが、俺の魔法について理解しておらず精神世界構築時にそういった要素が抜けてしまった、などだ。
“機先”による回避が難しい状況で、緊急回避のための時間操作すら使えないのはかなりマズい。しかも片手にウェンディを抱えている状況だ。
彼女を守りつつ、この周囲を埋め尽くすほどの数の腕から逃れるなど無謀だ。次に襲われれば確実に俺達は捕まる。
ならば。
残された手は――ただ1つ。
そう考えたその時、伯爵の黒い手が一斉に動いた。
周囲一帯を埋め尽くすほどの膨大な量の腕を前に、俺は努めて心を冷静に保ち、素早く空いている左手を空に掲げ、叫ぶ。
――来い!!
瞬間。
無限に続くような塔の天井の闇から――鈍い青灰色の輝きあり。
それは自由落下のスピードを食らい、怖気を震うほどの速度で急降下。襲い来る黒い腕を斬り裂き潰し、俺の眼前に突き立った。
ホイールアックス……魔剣の1つであり、使い慣れた俺の武器だ。
「う、うそ……なんで?」
ウェンディが目の前の斧を見て愕然とする。
俺にもこの斧がなぜこの精神世界にまで来られたのかはわからない。だが、呼べば来ることは分かっていた。何か……確信めいた感覚が初めからあったのだ。
「器物に宿りし歪な魂……たかがモノの分際で、私から素材を横取りしようというのか」
伯爵の声には感情が無く、先ほどと同じくフラットだ。
だが声とは裏腹に、さらに数の数を膨大に増やし、こちらへ向かって次々と伸ばす。
「うひゃああっ! こ、この男はどうなったっていい! だからわたしだけは許してーっ!!」
ウェンディが悲鳴とともに最低なセリフを吐く。まあ、そもそもコイツは敵サイドの人間だから仕方ない部分もあるが。
俺は気を取り直し、片手で斧を引き抜き、肩に担いで構えて見せる。
すると途端に視界がクリアに、そして緻密に見分けられるようになった。魔剣の視界を借り、人間以上の視野・遠距離視力・動体視力・認識力を得ることで、さらに敵の動きの先読みがしやすくなる。
俺はウェンディを抱えたまま素早く身を翻し回避。追いすがる腕を斧で切り払いながら、螺旋階段をひたすら上る。
「あっ! ど、ドアっ!!」
ウェンディが指さす先。俺達が入った黒い扉があった。
背後に伸びる無数の黒い腕をまとめて斬り飛ばし、俺は素早く扉のレバーを回す。
だが――ガチャン!
鍵が掛かっている!? 反射的にウェンディを見ると、彼女は青い顔でふるふると首を振る。
彼女の仕業ではない……という事は奴の仕業か!?
伯爵の方へ振り返る。が、その時俺はとんでもない光景に愕然とする。
黒い腕。無数の腕が集い絡み縒り合わさり――20近い指を生やす直径5メートル近い巨大な異形腕へと成長。
それは一瞬背後へ予備動作を行った後、弾丸のような速度でこちらへ伸びる!
まずい。この速度、時間魔法が使えない以上回避が追いつかん!
死の予感が首筋を撫でる。背中が冷えるのとは反比例に、俺の脳は死を回避するべく熱を持った高速回転を行う。
打てる手は、残された手段は――これしかない!!
――“マーカー”発動っ!!
俺は地面へ伏せるのと同時に“マーカー”スキルを扉へ仕掛ける。
すると、下層から伸びた腕は角度の関係上、地面に伏せる俺とウェンディの頭上を飛び越え、まんまと俺がスキルを使った扉に突進!
巨大な質量を前に扉は簡単に吹き飛ばされ、巨大な異形腕はその勢いのまま扉の外まで飛んで行く。
同時に腕の根元から徐々に絡んだ腕が弾け飛び、おがくずの如くボロボロと散っていった。本体である伯爵から急速に離れたことが原因……だったのだろうか?
階段の上でジタバタしてるウェンディをしばらく押さえつけながら、俺はもう一度伯爵の方を見た。
奴は先ほどの時計盤の上から一歩も動いていない。そうか、奴は今でも封印されたまま。自力で動くことなどできない。だからこそ俺を自分のいる場所まで呼び寄せたのだろう。
安堵したのもつかの間、奴は再び体の断面から無数の黒い腕を伸ばし始めた。ゆっくりしてる場合じゃない。
ウェンディを左手で抱え上げ、斧を握り締めて立ち上がる。
すると――目の前に羽の生えた赤ん坊のような存在が現れる。
“マーカー”スキルを初めて使った時に現れた、正体不明の妖精モドキ。そいつは小さい板を取り出し掲げて見せた。
(スキルがレベル2に上がったよ! やったね!)
――って今はそれどころじゃねえだろ! お前も来い!
『キャー』
俺は斧を握ったまま親指と人差し指だけで妖精モドキを捕まえ、胸ポケットの中へ退避させる。
妖精モドキは顔と手だけをポケットから出し、楽しげに鼻歌を歌っている。人の気も知らずにのんきな奴だな。
……しかし、時間魔法は使えないのに、マーカーのスキルは発動できるのか。このマーカーのスキルとは一体……
「て、手! さっきの手がいっぱい来てるって!!」
焦って上ずった声を上げるウェンディ。俺は背後の無数の腕には振り返らず、破壊された扉の奥へと飛び込んだ。
階段を上り、最初に訪れた分岐し入り組む無数の螺旋階段のある間に戻ってきた。
しかし黒い腕は今も執拗に背後を追う。俺は振り向きざまに腕の4、5本を切り落とし、右斜め上にあった螺旋階段に飛び移る。
何度か階段を蹴って場所を移動し、ブルブル震えるウェンディに声を掛ける。
――帰る場所! わかるよな!? 出口はどこだ!!
「……あ、あそこ! あの階段を上っていけば出られるっ!!」
彼女は震える指先で階段の1つを指さした。あれか!
俺は手前の階段のいくつかを足場に、ウェンディが示した階段に降り立つ。
すると、待ち構えていたように黒い腕が這うように階段周囲を取り囲む。
俺は構わず階段を上る。そして執拗に迫る黒い腕。
……この辺でいいか。
十分におびき寄せた所で、俺は前方へ大きく円を描くように斧の柄を回す。
すると斧の鎖が無数の腕に絡みつき、一ヵ所に縛り上げた。頃合いだ。
俺は思念だけで階段の1つに縫い止めていた斧の刃を呼び戻す。刃は回転しながら鎖に従って飛び――円を描くように無数の腕を一気に斬り裂いた!
こんなこともあろうかと、出口に通ずる階段へ行く前に仕掛けておいた。判断は正解だったようだ。
そして、腕の大部分を斬ったことで、相手の勢いが削がれた。
好機。このまま一気に出口まで駆け上がる!
「し、下っ! 下からまだまだ出てきてるよお!」
怯えた声を上げるウェンディ。だが腕はまだ下層。いちいち相手にしてられない。
俺は両手に斧とウェンディを抱えたまま、階段を2段、3段飛ばしで駆け上がる。
その間も視界の端に例の黒い腕がチラついたが、構わない。上へ、上へ!!
「あ――あった! 見えたっ! アーチ!!」
ウェンディが指さす先に、石でできた重厚な門のようなものがあった。あれが出口か!!
すると、先に行かせまいと数本の黒い腕が回り込む。
俺は足を止めず、斧の一降りで全ての腕を千切り飛ばし、そのままの勢いのまま門をくぐった!
その時。
一瞬、深い海の底から急浮上するかのような浮遊感が体を覆い――俺の意識は覚醒した。
◆◆◆
「……あら、お目覚めソウジ?」
目を開けて、真っ先に視界に飛び込んで来たのは、人を小馬鹿にするような笑みを浮かべるマーリカであった。
すると同時に。
「ぷはっ!」
ウェンディが、俺の胸の上から突如として姿を現した。ギョッとしたが、現実と精神世界を行き来する、彼女の魔法の特性なのだろうか。
「ああ、生きてるぅ……マジで死ぬかと思ったよお……」
ウェンディは地面にへたりこみ、自分の両肩を抱くようにしてガタガタと震えている。
マーリカは一瞥し、俺に向かってニヤリと笑った。
「何があったかはわかんないけど、多少得るものはあったみたいね」
――ああ。自分の中で、より目的がハッキリとした気がする。
すると、マーリカの背後からセイが顔を出した。眠そうに目をこする彼女を見ると少しだけ心が和らいだ。
……太源理子の始祖の連中は当てにならない。俺が元の世界に帰るには、セイの鍵集めを完遂させる必要がある。
俺にとって、この子だけが唯一の希望といえる。
だとすれば何が何でも守り抜かなければな。六大国から差し向けられる刺客達だけじゃない。いざとなれば彼女に手に掛けることすらいとわない、このナインズからも……
「んじゃ、夜もまだ明けてないことだし、帰って寝直しましょうか? ほら、腰抜かしてないでアンタも立ちなさい」
「ひやっ!」
マーリカはウェンディの服の襟をつかみ、彼女を無理矢理立たせた。
すると、異変に気づく。
「……なんでアンタ、足濡れてんの?」
「え? えーっとこれはそのあの、ウヘヘ?」
そして気づく。周囲に立ちこめる不快な尿臭。
まさか……アイツかましたのか? 粗相を?
「ず、ずっとガマンしてたんだよ? でも……怖かったし、その……」
ウェンディは顔を赤らめながら視線を右往左往させる。
そういえば精神世界へ行く前もトイレに行きたい素振りをしていた。あれは演技ではなくマジだった? 伯爵の所にいたときもしきりに帰りたがってたのはそういう理由か……
…………ん?
待てよ。待て。おい。これまさか……オイ待てまさか!
「もしかして、ソウジの精神に潜ってた時から?」
「え~っと…………た、多分……」
――ふ、ふざけんなコラ!! 人の精神内でなんてことしてやがる!!
「しょうがないじゃーん!! わたしのせいじゃないし不可抗力気味だったし!?」
――お前ちょっと来い! もっかいあの精神世界に戻るぞ! 自分が漏らしたもん全部拭き取れや!!
「やだあああぁぁっ!! もう絶対あんなとこ行かないもぉぉん!!」
――聞き分けのないこと言うな! 大人なら自分の不始末の責任取れっ!!
「わたしまだ18だもん! 転生者基準なら成人してないもぉぉん!!」
やりとりを見ていたマーリカが、俺に対してぽつりと呟く。
「うん。まあ、変な趣味に目覚めないといいわねソウジ」
――く、クソっ!! もっかいあの魔法使え! 木にしがみついてんじゃねえセミかテメーっ!!
「動きません! ウェンディちゃんは絶対ここから動きません! 死ぬと分かってて行く奴はいません!!」
「……なんか長くなりそうだし、あたし達だけで戻りましょうか?」
マーリカに尋ねられたセイはこくりと頷き、二人は無情にも俺達を置いてさっさと帰ってしまった。
――サッと拭いて戻るだけだろうが! ビビってないで来いコノヤロー!
「無理ですね! 絶対120%安全保障がなければウェンディちゃんは行きません! むざむざ殺されにいくようなものですからね!!」
――俺が殺してやろうかこの野郎っ!!
「き、キミが言うとマジっぽいからマジでやめてよ! 助けてお母さぁぁん!!」
……結局、空が白み始めるまで俺達はこの不毛な問答を続けたのだった。
ウェンディは俺のトラウマとなる記憶を探していたが、結局コイツ自身が最悪の記憶を俺に植え付けてくれた。最悪な記憶にして最低なオチだった……




