1.異世界に逝く
「昨夜未明、栞野市のコンビニ前の交差点にて70代の男性が運転していた車が電信柱に激突。これについて、警察は…」
――やはりこの年になってくるとこういったニュースは胸が痛くなる。私は今年で78歳になるが、物忘れやいつもやってきたことが急にできなくなったり、人の名前を忘れてしまうなどは日常茶飯事だ。幸い、私は車を持っていないため、こういった事件に巻き込まれたことは一度もない。
七十歳を過ぎてからは自分がどういう死に方をするのか、お墓は安いやつでいいかなとか、そんなことしか考えられなくなった。ヒトという生き物は他の動物よりも長く生きるが、こう考えてみると長生きというのも時には残酷なのかもしれない。
「お父さーん、今から買い物行ってくるけど今日何食べたい?」
玄関のほうで娘の裕子の声が聞こえた。
「そうだな~。揚げ出し豆腐が食べたいな」
「んも~、いつも一緒じゃない」
――そういえば、昨日の夕飯も揚げ出し豆腐だったか。
「まぁいいわ。んじゃ、行ってくるわね」
と言い残し、扉が閉まる。
四歳下だった妻は10年前にがんで亡くなり、現在は私と裕子の二人で暮らしている。
裕子は今年で30歳になる。そろそろ結婚してもいい年頃だとは思うが、なかなか彼氏を紹介しない。
いや、ただ単にいないだけなのかもしれないが。
「――あっ…」
先程から飲んでいた紅茶がなくなってしまった。
「確かここにもう一つ紅茶パックがあったはず…」
私は戸棚へと手を伸ばす。
しかし、パックはもう無くなっていた。
さてどうしたものか。すでに家を出てしまった裕子に電話をして買ってきてもらうのもいいが、たまには散歩がてらコンビニまで買いに行くのもいい。
現在の時刻は夕方の四時半。散歩にはちょうどいい時間帯だ。
私は軽く支度をし、外へ出た。
自宅からコンビニまでは徒歩五分程度。高齢者の散歩にはちょうどいい距離だ。
そういえば、ここ十年間でこの町も変わった。
最近では近くにビジネスホテルが建ったとか。
「あら、伊三郎さんじゃないの」
話しかけてきたのは、たしか近所に住んでいる築山さんのご婦人だ。
私よりも十歳下で、いくつになっても若く見える。
「おお、これはこれは。お元気でしたか」
「えぇ、とても元気ですよ!伊三郎さんもお元気そうで何よりです」
それにしてもほんとに六十代かと疑うほどの美貌だ。
「これからお散歩ですか?」
「えぇ。ちょっとそこのコンビニまで」
「そうなんですね!お気を付けていってらっしゃい」
「ありがとうございます」
築山ご婦人と別れ、コンビニへと向かう。
さて、コンビニが見えるところまで来た。
あとは信号を渡ればすぐだ。
「――ンミャーオ」
「ん?」
猫の声だろうか。近くから鳴き声が聞こえた気がする。
「ミャー!」
鳴き声のするほうを向く。
「――!?」
なんと猫は道路のど真ん中にいるではないか!何とかして助けなければこの子の命はない。
私は大急ぎで猫のもとへと向かう。
「大丈夫だったかい?」
猫はミー、ミーと鳴いていたが、どこも怪我はしていないようだ。
「ほら、あっちへおいき」
私は猫を歩道へ逃がした。
――その時だった。
ブオォォーン!!という大きな音がすぐ近くから聞こえた。
その音の正体は猛スピードで近づいてくる大型トラックだった。
私は大急ぎで歩道に避けようとしたがトラックはもう目前。
どう考えても七十代の老人が回避できるとは思えなかった。
――私の人生もここまでか…
視界の片隅には先ほど私が助けた猫が映っていた。
――この猫に名前はあるのだろうか――家族はいるのだろうか。
もう知る由もないが、この猫には私の分まで生きてほしいものだ。
――さらば、名も知らぬ猫よ。
その瞬間、私の体はトラックにはねられ宙を舞う。
ドガン、という鈍い音だったが、なぜか痛みはなかった。
その後、私の視界は靄がかかったようにぼやけ、やがて私は意識を失った。
「――ね――え」
誰だろうか。私の体を揺すっているのは。
「――ねぇ――だい――じ」
若い女性の声が聞こえる。
深淵のように真っ暗な視界に小さな光が現れる。
私はその光へと手を伸ばす。
「ひゃん!?」
その瞬間、私の手に柔らかな感触が…
「起きてるじゃないの!」
パシン!という心地良い音と共に、頬に痛みが走る。
――私はゆっくりと目を開けた。
そこには澄んだ目をした赤髪の女の子がいた。
「よくも私の胸を触ってくれたわね!」
どうやら、私はこの女性の胸を触ってしまったらしい。
「あ…あの、すいません」
「はぁ…まぁいいわ。許してあげる」
ため息をつくと、彼女は私の体を起こしてくれた。
「――!?」
そこには辺り一面に荒野が広がっていた。
――おかしいな。確か私は…
「す、すいません。ここは一体どこなのですか?」
「どこって…ここはカシム市街から南に少し歩いたところよ?」
カシム市街?なんだそれは…
「ところであなた、名前は?」
「あぁ…名前は――えっと」
――おかしい。名前が思い出せない。
「――サ。」
「サ?」
だめだ、どうしても名前が出てこない!
「――サブロー。」
思い出せず、ぱっと頭に浮かんだ名前を言ってしまった。
「へぇ~、ずいぶんと珍しい名前ね」
気のせいか、彼女は笑いをこらえているかのように見えた。
「私、ルーナ!」
「ルーナ…」
彼女の名前はともかく、私は何か大事なことを忘れている気がする。
「サブロー、なんであなたはここで倒れていたの?」
――そうだ――なんで私はここに。
「それが、思い出せないんです。私が何者なのか、なぜここで倒れていたのかも」
「――記憶がないってこと?」
「そうかもしれません…」
ルーナはやれ困った、といった顔をしている。
「ていうか、あんた見た目の割には礼儀正しいのね」
「見た目…?」
「そうよ。あんた年いくつ?もしかしてそれもわからない?」
――年齢、か。思い出そうとしてもやはり出てこない。
「…」
「やっぱ無理か…」
「すいません…」
「見たところ、あんた私と同い年かもしれないわね」
――同い年?
「私は十五よ。」
――十五歳か。ルーナの顔をよく見ると確かに若い。
私は自分の手を天に翳してみる。その手はいかにも若々しく、絹のようにきめ細かい肌をしていた。
「どう?なんか思い出せそうかしら」
「いえ、まだ何も…」
「まぁ、そう簡単に思い出せたら苦労しないわよね」
ルーナはそう言って立ち上がった。
「あなた、これからどうするの?」
私はうつむきながら考えた。このまま自分は何者なのかを探す旅に出ようかとも思った。
「私はこれからカシムに向かうけど一緒に来る?」
「え…いいんですか?」
「まぁ、このまま放っておくのも気が引けるしさ」
私は立ち上がり、衣服についた砂を払った。
「ほら、行くわよ」
「あぁ…はい。」
私たちは北にあるカシムという街に向かって歩き始めた。