悲しいということ
室温も湿度も適度に調整された快適な空間に、今日も彼は訪れた。
「今日はどんな話が良い?」
「…では、貴方が最近嬉しかったことなど、教えてくださいませんか?」
「私のことか。そんな楽しいものではないよ」
少し戸惑う彼に、それでも私は是非にと言った。彼の話がつまらなかった例しがない。どんなありふれた話題においても、彼はわくわくするような、心躍るような語りに変えてくれる。
彼の話術は優れたものだ。私でさえそれが分かる。
「そうだなぁ。仕事の同僚の話でもしようかな」
どんな嬉しいことがあったのだろう。私は若干前のめり気味で耳を傾ける。
「前にも話したかもしれないけど、私は一般的に言う営業のような仕事でね」
それは少しだけ聞いたことがあった。色んな人に、色んな商品を紹介して回るらしい。前に彼が紹介してくれた本の中にも存在していた。
「それはそれは、もう色んな人がいるんだ。頑固な人から疑い深い人…それが見たいからこの仕事を続けているんだけど、」
詳しく聞いたことはない。けれど彼が今のお仕事に希望を持っている事だけは分かった。
数年前にはよほど忙しいのか、顔色が優れない日が続いた。けれど最近はすっかりそんな素振りも見せなくなった。きっとお仕事が上手く行っている証拠だ。
「ねぇ、君は泣きたくなるくらい悲しみを感じる事って、ある?」
「え…」
急に話を振られて、私は戸惑う。悲しみという感情の正解は分からないけれど、泣いたことはある。
それは、例によって本を読んでいたときに。
「感情が、なんだか昂ぶってしまい…気付けば涙が出ていたことなら」
心が揺さぶられるというのは、こういうことを言うのだろう。きっとそうだ、と何の確証もなくそう思ったのだ。
「…それは確かに悲しみだろう。そうか、君にもあるんだね」
彼は一息吐くように目を閉じて、少し黙った。
「私には、分からなかったんだよ、それが」
私は少し驚いた、喜びも悲しみも、喜怒哀楽というそのものを、私は彼から教わったようなものなのに。彼自身がそれを知らないだなんておかしな話だと思った。
「ううん。悲しいときは、ちゃんと涙が出る。苦しいときは顔を顰めたくなる。…けれど、なんでそれが起こるのか、まだ私には分からない」
漠然としていて、またぼんやりとしていて、私にはよく理解できなかった。ただ少し、彼が困っているようなのが嫌で、私は必死に分かった振りをしていた。
「ごめん、話が逸れたね。それでね、ようやく少し分かったんだよ。この前」
そう、今は嬉しい話をしているのだと彼は思い出してくれたようで、組んでいた腕をほどいて顎に手をやった。
先ほどの色の濃い瞳はもう見えなくて、いつもの明るい色味に喜びを湛えていた。
「少し難しい話をするね…人はね、時として悲しみの先に喜びを見いだすことがあってね」
一瞬、言葉の意味が分からなくて首を傾げた。
それに気が付いたように彼は慌てて手をひらひらさせる。
「悲しいことなんだけど、嬉しいことなんだ。それはね、一般的に言えばすごく喜ばしい事だった」
最後の台詞に、私は自分でも気付かないうちに顔を顰めていた。これに似た感情を、どこかで感じたことがある。きっと彼が持ってきてくれた本の中にあったのだろう。
これを、そう、矛盾。そして、葛藤というのだ。
「かつて私は悲しみを感じることを悪としてきた。悲しいなんて悪だ。そんなものは必要ない…でもどうやら違ったらしい」
「悲しみは…良いことなのですか?」
「…良いことではないかもしれない。出来れば避けた方が良いに決まっている。だけど」
彼は言葉を切った。
悲しみは、痛い。苦しい。涙が出る。涙は良くない。
「悲しみはね。私たちを成長させてくれる…良くも悪くもね」
彼はそれに気が付いた。そのことが嬉しかったと、彼は言う。少し難しくて、やはり全ては理解できない。
私はまだ幼い。まだ子どもだ。いつか理解出来る日が来るのだろうか。いつか、その日が。
「さて、今日はこの辺で帰ろうかな。明日その本の感想を聞かせてよ」
「は…はい!しっかり読んでおきます」
遠くにやっていた意識を呼び戻され、慌てて返事をした。彼は、ふふ、と笑った。