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嘘つきの神さま。  作者: 紫電
3/11

悲しいということ

室温も湿度も適度に調整された快適な空間に、今日も彼は訪れた。


「今日はどんな話が良い?」

「…では、貴方が最近嬉しかったことなど、教えてくださいませんか?」

「私のことか。そんな楽しいものではないよ」


少し戸惑う彼に、それでも私は是非にと言った。彼の話がつまらなかった例しがない。どんなありふれた話題においても、彼はわくわくするような、心躍るような語りに変えてくれる。

彼の話術は優れたものだ。私でさえそれが分かる。


「そうだなぁ。仕事の同僚の話でもしようかな」


どんな嬉しいことがあったのだろう。私は若干前のめり気味で耳を傾ける。


「前にも話したかもしれないけど、私は一般的に言う営業のような仕事でね」


それは少しだけ聞いたことがあった。色んな人に、色んな商品を紹介して回るらしい。前に彼が紹介してくれた本の中にも存在していた。


「それはそれは、もう色んな人がいるんだ。頑固な人から疑い深い人…それが見たいからこの仕事を続けているんだけど、」


詳しく聞いたことはない。けれど彼が今のお仕事に希望を持っている事だけは分かった。

数年前にはよほど忙しいのか、顔色が優れない日が続いた。けれど最近はすっかりそんな素振りも見せなくなった。きっとお仕事が上手く行っている証拠だ。


「ねぇ、君は泣きたくなるくらい悲しみを感じる事って、ある?」

「え…」


急に話を振られて、私は戸惑う。悲しみという感情の正解は分からないけれど、泣いたことはある。

それは、例によって本を読んでいたときに。


「感情が、なんだか昂ぶってしまい…気付けば涙が出ていたことなら」


心が揺さぶられるというのは、こういうことを言うのだろう。きっとそうだ、と何の確証もなくそう思ったのだ。


「…それは確かに悲しみだろう。そうか、君にもあるんだね」


彼は一息吐くように目を閉じて、少し黙った。


「私には、分からなかったんだよ、それが」


私は少し驚いた、喜びも悲しみも、喜怒哀楽というそのものを、私は彼から教わったようなものなのに。彼自身がそれを知らないだなんておかしな話だと思った。


「ううん。悲しいときは、ちゃんと涙が出る。苦しいときは顔を顰めたくなる。…けれど、なんでそれが起こるのか、まだ私には分からない」


漠然としていて、またぼんやりとしていて、私にはよく理解できなかった。ただ少し、彼が困っているようなのが嫌で、私は必死に分かった振りをしていた。


「ごめん、話が逸れたね。それでね、ようやく少し分かったんだよ。この前」


そう、今は嬉しい話をしているのだと彼は思い出してくれたようで、組んでいた腕をほどいて顎に手をやった。

先ほどの色の濃い瞳はもう見えなくて、いつもの明るい色味に喜びを湛えていた。


「少し難しい話をするね…人はね、時として悲しみの先に喜びを見いだすことがあってね」


一瞬、言葉の意味が分からなくて首を傾げた。

それに気が付いたように彼は慌てて手をひらひらさせる。


「悲しいことなんだけど、嬉しいことなんだ。それはね、一般的に言えばすごく喜ばしい事だった」


最後の台詞に、私は自分でも気付かないうちに顔を顰めていた。これに似た感情を、どこかで感じたことがある。きっと彼が持ってきてくれた本の中にあったのだろう。

これを、そう、矛盾。そして、葛藤というのだ。


「かつて私は悲しみを感じることを悪としてきた。悲しいなんて悪だ。そんなものは必要ない…でもどうやら違ったらしい」

「悲しみは…良いことなのですか?」

「…良いことではないかもしれない。出来れば避けた方が良いに決まっている。だけど」


彼は言葉を切った。

悲しみは、痛い。苦しい。涙が出る。涙は良くない。


「悲しみはね。私たちを成長させてくれる…良くも悪くもね」


彼はそれに気が付いた。そのことが嬉しかったと、彼は言う。少し難しくて、やはり全ては理解できない。

私はまだ幼い。まだ子どもだ。いつか理解出来る日が来るのだろうか。いつか、その日が。


「さて、今日はこの辺で帰ろうかな。明日その本の感想を聞かせてよ」

「は…はい!しっかり読んでおきます」


遠くにやっていた意識を呼び戻され、慌てて返事をした。彼は、ふふ、と笑った。


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