変わらない毎日に
目が覚めて、部屋に主治医が訪れる。
「おはよう。今日もよく眠れたかい?」
「おはようございます先生。ぐっすりでした」
信じられないくらい私はよく眠る。この部屋から出ることは無いのに、不思議と夜は眠くなるし、朝しっかり起きる。
彼が来た日などは本当にぐっすり、そして体調も良くなる。まるで彼が全て吸い取ってくれたかのように。
「そうかい。今日もあの子来てくれるからね。楽しみにしておいて」
口には出さなかったけれど、表情から読みとったかのように先生は笑った。
少し恥ずかしくなったけれど私と先生だけしか知らないことだ。誰に恥入ることもない。そう思いなおして曖昧に口元が緩んでしまう。
「よし、朝の検査はおしまいだ。今日は何かしたいことはあるかい?」
「それじゃあ…本を」
先生は持っていたカバンを開けて、たくさんの本の背表紙を見せてくれた。そこから一冊選び取り礼を述べる。
私が本に興味を持ったのは彼の影響だった。自身の物語を紡げない私に、誰かの物語を知る術を与えてくれた。
「また彼に聞いて用意するよ」
そういった彼はそのまま部屋を後にした。
真っ白い真四角の、大きいベッドと小さいテレビ、それから町が見下ろせる大きな窓がある私の部屋。まるで病室のような。否、それは確かに病室だったのだ。
死に向かって異常な速さで距離を詰める私のための、死に場所だった。誰が用意したのか、用意させたのか分からない。たったそれだけの清潔潔癖な空間。
「おはよう。今日も顔色が良さそうだね」
「おはようございます」
間もなく彼が訪れた。決まって朝の検診が終わった頃。見計らったかのように彼は病室へ顔を出す。
そしていつも通り彼専用の椅子に腰掛け、私の手元の本に興味を持った。
「ああ、この前教えた本か。全く先生は入手が早い」
「ええ…翌日には一通り揃っていますので」
「暇なのだろうか。おかしいね」
本当におかしいという風に笑う彼につられて私も笑う。先生が普段どんな生活をしていて、私以外の誰を診ているかなど、知る由もない。知る必要も無い。
興味が無いと言ったら嘘になるが、それを探るほどの気概は一切起きなかった。
「外に興味が出てきたの?」
「いいえ。私には過ぎたものです。どうせ上手く扱えません」
「そうかもね。うん、君が退屈しないように私も頑張ろう」
窓の外の景色は、いつも空だ。相当高い建物で、開いたカーテンから見下ろそうものなら近隣の住宅がとても小さく見えるくらいだ。人々など見えやしない。
この部屋から出てしまえば、彼もあの眼下の町並みと一体化してしまう。それは何だか似合わない気がした。
「他に欲しいものはない?本だけじゃ無くてもっといろいろ用意できるよ。ほら、テレビだってあるんだし、気になった物はなんでも言って」
いつものように自身の鞄からお菓子を取り出しながら言う。それから持っていた綺麗な花を花瓶に差し替える。毎日毎日飽きもせず花を替えてくれる。見たことの無い花の時はちゃんと名前も教えてくれる。
取り出したクッキーをオーバーテーブルに置いて飲み物を用意すると、紅茶の香りが部屋へ充満した。
「安物のインスタントでごめんね」
「そんなこと、煎れていただいてありがとうございます」
私は充分満たされている。これ以上無いほど大事にされている。欲しいものなんてそんなに思い浮かばないけれど。
「…あの、良かったら…私、」
ベッドサイドに置いてある小さい棚から雑誌を抜き取ってページを開き、それを指さした。そうすれば彼はとても嬉しそうに笑ってくれるのだ。
欲しいものなんてそんなに無い。無いけれど、貴方とまた会える口実になるのなら我が儘だって言ってしまいたくなる。狡いことばっかり覚えてしまう。
「分かった。今度はそれにしよう」
「先生もきっと喜んでくださいます」
主治医と彼は昔からの知り合いなのだと聞いた。先生の紹介でお見舞いに来てくれるようになった彼は、私のことを可哀想だと思ったのかもしれない。それはとても嬉しいことだった。そうやって気に掛けてもらえるだけの価値が私にあるのだと知ったから。
「それにしてもこの部屋はいつ見ても清潔だね。お掃除でも?」
何も無い殺風景な四角い部屋を見わたして彼は言う。とても病院らしい真っ白な清潔感のある部屋だから、汚れなどすぐに目立ってしまう。
「分かりますか?」
「もちろんだ。だが無理は駄目。やれる範囲だけで良いから」
「これくらいは運動にもなりませんよ」
紅茶の入ったカップを持って笑った。
私は外には出られないけど、立って歩くことも一人でお風呂に入ることだって出来るのだ。ちょっと身の回りを清潔に保つことくらいなんてこと無い。
「貴方が来るというのに、汚れているお部屋は嫌ですから」
すると彼は一瞬キョトンとして、それから照れた顔を隠すように手をやった。全然隠せていないそれに私はまた笑った。
彼と過ごすときは、ずっと笑っていられる。笑おうだなんて思うまでも無い。
「じゃあ今度は君の好きな石けんやアロマを用意させようか。そうだ、シャンプーやバスソルトも!」
「お外に出ないのに、そんな気を使わなくても」
「いいや。私のために綺麗になろうとしてくれるのだから手伝わせてくれ」
今度は私が照れる番だった。子ども扱いでもお世辞でもいい、彼がそう言ってくれるのなら私はどんな努力だって出来てしまう気がした。
「それに、そろそろそういうお年頃だと思っていたよ」
彼は鞄から一冊の雑誌とポーチを取り出した。表紙には女性が書かれていて、ポーチに触れてみれば少し重みがあってカチャカチャと音を立てている。
全く見当の付かないそれを不思議そうに見ている私に、彼はそれを開けるように促す。
「全部新品だから安心して使ってよ。いらなかったら捨てて」
「…これ、は」
それらいくつかに見覚えがあった。一生縁の無いものだと思っていた。可愛らしいフォルムのそれをそっと摘まんで眺める。光を反射するときらきら光ってすごく綺麗だった。
「お化粧の…」
「そうだよ。なかなか可愛いでしょ」
「ありがとうございます…!」
なんだか普通の女の子になったような気がした。
そんなはずは無いのに、ただそれを手に入れただけで、彼の隣に立てるような大人の女性になった気がした。それだけ私は嬉しかった。
「いつか私のために使ってくれたら嬉しいな」
「はい!」
私はそんな風に、この白い壁に囲まれた部屋で日々を過ごした。不幸なことは何一つ起きない。ただ幸せだけが増えていく世界の中で、私は何も怖がること無く私でいられた。