老人は憐れむ②
その事件が起きたのはちょうど二週間前のこと。
五十代の主婦、石間道子が殺害された。死因は失血。監察医の話では、何者かに包丁で腹部を刺され、三十分ほどのたうちまわった末に亡くなったそうである。
斉藤が見た限り、道子の死に顔はまさしく般若であり、その無念が面上にこびりついて消えないようであった。
彼女には夫と二人の子供がいた。順番としては姉と弟である。二十五年ほど前、第一子として姉を出産した際、
「ああ、これはいいわ。女の子なら学がなくったって生きていけるから」
と道子は吐き捨てたと言う。彼女はその子供の名付けを夫に任せ、病院の枕元で育児本に目を通していたのだそうだ。
この石間道子は、いわゆる教育ママであった。物心も付かないうちから第一子である姉には様々な幼児教育を施した。音楽を聞かせ、絵を描かせ、木製のパズルを組み立てさせては出来が気に入らないと破壊して、もう一度作らせた。
その三年後に第二子を出産した。今度は男の子であった。道子は、十年以上前から温めていたという名前を付けた。
姉の出産の際に発した言葉の意味を夫が理解したのは、この時であった。
道子は目に入れても痛くないほど弟を耽溺した。それこそ先に生んだはずの姉を忘れてしまうくらいに。
「おい、姉弟を平等に扱えよ」
と夫が苦言を呈すると、道子はこうのたまったそうである。
「どうせ女なんか、嫁に行っちゃうじゃない」
そんなわけで道子の愛情は弟に注がれた。姉を実験体として、彼女にはバレエや水泳、野球に陸上、音楽はピアノやバイオリン、勉強として英会話に塾に家庭教師に、それこそ頭がパンクするくらいの負担を押し付けた。
そうして物の良し悪しを見極めると、弟にはいくつかしかさせない。
「あんたには一番、金がかかっているんだから」
姉には常々、恩着せがましく言い聞かせていたが、その彼女が精神的にも、肉体的にもつぶれてしまうのは必然と言えた。
高校三年生の冬、この不運な姉は大学受験に失敗し、そのまま家に引きこもるようになった。彼女は母親に似ず、弟に冷たく当たることもなく、己の本分を全うしたそうである。同情こそされ、罵声を浴びせられる生き方はしていない。そのため、家族のうちで悪態をついたのは道子だけであった。
こうして母と姉とは同じ屋根の下で暮らしつつ、一方が殺害されても全く気付かないというような、奇妙な生活を送ることになったのだ。
そこまで話して、斉藤は手帳から視線を上げた。目の前では戸村がチェス盤を睨みつつ腕組みをしている。
「話、聞いていたか?」
「はあ、スポーツドリンクの代金分はね」
「それって、どれくらいだ?」
「……娘さん、お母さんが殺された時も部屋に?」
「うん。気付かなかったってさ」
「なるほどねえ。往々にしてモルモットは幸せにならないもんだからねえ。旦那さんや息子さんは何を?」
「殺害されたのは昼間だからな。仕事だ。とはいえ、二人ともあんまり家には帰っていない。というのも弟の方は就職を機に実家を離れたし、夫の方は不倫に忙しかった」
戸村はうんうんと唸り駒を動かした。しきりに天を仰ぎ、鼻息を洩らしている。
「不倫はいつから?」
「二、三年前から。道子も精神的にかなりまいっていたみたいなんだ。というのも、彼女は近所では有名な教育ママだったんだが、ご高説を垂れるのがお好きだったようで、腹にすえかねている若い母親も多かった」
「へえ、じゃあ、娘さんの失態はかなり痛手だ」
斉藤は、ふん、と鼻を鳴らした。
「相当、だ。一時期はかなり荒れたらしい。家の壁に穴が開いていたんだが、怒りに任せて殴る蹴る。姉の部屋の扉をぶっ壊そうとまでしたらしい」
「そりゃ、また。娘さんは参っておったでしょうなあ」
「家族全員と言った方がいいだろうな。道子も例外じゃない」
と、そこで戸村は溜息をつき、盤面を綺麗にしてしまった。まだ攻防は半分ほど過ぎたところだと言うのに。斉藤が妬ましげな視線を向けると、この老人は真っ白になった髪の毛を掻き、舌をぺろりと出した。
「今日は勝てそうもありませんな。将棋にしましょう」
どうやらこちらも、ここ数日のうちに無駄遣いした物らしい。