老人は憐れむ①
冬の気配がいっそう姿を消した。そこここで桃色が蕾の先を彩り、吹く風にも鼻をムズムズさせるものが混じった。
斉藤大地は厳めしい顔に浮いた汗を拭い、腕まくりをした。彼は刑事で、捜査一課に配属されている。
ジョギング中の老人が、ちらと彼を見て脇を抜けた。寂れた河川敷では、いかにも場違いなように思えたのだろう。もちろん本人だって心得ている。でも、そうせざるを得ない事情があるのだ。
「いるか?」
いつもの通りススキの列を掻き分けた。その先には河川敷を不法占拠するホームレスの家があり、掘立小屋よりもさらに酷い、粗末なベニヤの家が佇んでいる。
「ああ、どうも」
目当ての人物は椅子に腰かけ、読書をしていた。日に当たった髪の毛が白く輝いている。読んでいるのは……官能小説だ。みだらな表紙が斉藤の溜息を誘った。
「爺さん、年甲斐もなくそんなもん読むなよ」
「ほっほっほ。冗談言わないでくださいよ、斉藤さん。私みたいなのはもう女を抱けないんですから、こうして静かに思いを馳せるしかないじゃありませんか」
その老人の名は戸村という。自称五十代だが、それに見合わず髪の毛は白雪のよう。しかしながら、ひょろりとした背筋は真っ直ぐ伸びている。どこかちぐはぐな印象を与える外見であった。
斉藤は空いた椅子に腰かけ、彼と同じく汗を掻いた冷たいペットボトルを渡した。
「スポーツドリンクですかあ……」
「何だ? 文句でもあるのか?」
「いや、いや。やっぱりコーラが……」
「馬鹿言うんじゃねえ、家すらない奴が」
戸村はくつくつと喉を鳴らしつつ、本を脇に置いて蓋を開けた。どうやら彼も暑さには耐えかねていたらしく、あっという間に半分ほどが腹の中に収まった。
「一気に飲むなよ。胃が疲れるからな」
「ほっほ、昔、母親に同じことを言われましたなあ。ああ、そうそう」
立ちあがった彼が持ってきたのは、いつぞやのチェス盤だ。彼の顔を見れば、どうやら腕を上げたらしく、それを以って斉藤に一泡どころか二泡も吹かせてやりたいと考えたのであろう。
斉藤も肘の辺りまで袖をまくり、大きく一つ息をついた。彼とて古本屋で定石の類は確認したし、駒の動きだって完璧だ。ただでやられるほど馬鹿じゃない。
「いいだろう、若さって奴を見せてやるよ」
彼は挑発気味にそう呟き、駒を並べ始めた。
それから約三十分、お互いに口をつぐんだままである。きっと一流のチェスプレーヤーが見たら腹を抱えて笑いたくなるほど戦いは泥沼である。何せキングを抜かせば、ポーンが一つずつ、それに斉藤がナイト、戸村がビショップを保持しているだけで、あとの升目は空っぽだ。
「……爺さん、どこかで対局とかしたか?」
「いえ、いえ。頭の中で理論をこねくり回しただけで。斉藤さんは?」
「捜査一課にこんな優雅な趣味を持つ奴はいねえよ」
呆れてしまう展開に頭を振り振り、斉藤は上着の胸ポケットから手帳を取り出した。
「はあ……もういいよ。こんな猫のじゃれあいなんかしたくもねえ」
「まあ、そう言わずに。もう一回しましょう、もう一回」
第一局は勝敗も定かにならないまま流れた。また新しく、今度は黒白を入れ替えて盤面に駒が並べられると、斉藤は難しい顔つきになった。
「爺さんは自分の親について、どう思ってんだ?」
「は? 親? そうですなあ……感謝しておりますかな。こうしてのんびり暮らしておっても、自分達に火の粉がかからなけりゃあ文句すら言いませんから」
それは見捨てられているんじゃないのか、という言葉を斉藤は飲みこんだ。
「そうか。世の中には殺してしまいたいと思っている奴もいるんだろうなあ」
「そんな事件が?」
「……よく分かったな」
斉藤が皮肉っぽく呟くと、戸村の方は盤面に集中したまま、唸り声を上げた。
「分からないのはよほどの脳たりんでしょう。ほら、斉藤さんの番ですよ。何なら、私が二回動かしましょうか?」