変わり身の女③
それ以来の縁だ。用がある時はこうしてやってきて、なんやらかんやらと話をする。
戸村も手ぶらと分かればだんまりを決め込むが、十円そこらのチョコレートであっても、何か貰えれば笑顔で応対してくれる。
「……そのナイトは危なくないか?」
今は昼も食べ終わり、斉藤達は古びたチェス盤を前にしていた。
つい数日前、リサイクルショップで見つけたのだと戸村が笑って言うわけだ。お互い素人だし、一局始めたわけである。もちろんルールブックと温かい缶コーヒーを脇に置いて。
「はてさて。ええっとチェスは細かくっていけないねえ。激しく始まって尻すぼみ。ええ? 斉藤さん。あんた、夜のベッドでこんなことをやったら愛想を尽かされちまいますよ」
「馬鹿言うんじゃねえ」
時折こうして馬鹿みたいなことを言うから油断するのだ。斉藤は溜息をつき、今日、この寂れた河川敷に来た目的を切りだすことにした。
「……爺さんは人に感化されやすい方か?」
顔を上げた戸村が微かに目を見開いた。
「は? ああ、まあ、そうだろうねえ。ホームレス仲間に元棋士がいてねえ。ムキになって将棋を始めたこともありましたよ」
「世の中には恋人同士で影響されあったり、なんてこともあるんだろうなあ……」
ポーンを持っていた戸村の手が止まった。遠い目をしている斉藤を半笑いで見ているのである。
「俺じゃねえよ。最近、ちょっと仕事が手詰まってんだよ」
「なるほど、なるほど。つまり、そんな誰かが殺すか、殺されるかしたって?」
本当は一般市民に話すことじゃない。でも、斉藤は胸ポケットから手帳を取り出し、さっとその事件の概要について述べた。
「三週間くらい前だ。ひと気のないロッカーで会社員の加藤美雪が刺殺体となって見つかった。最近は会社近くのジムに通っていたみたいで、その荷物を置いていたらしいんだ」
「ほお、若いのに感心だねえ」
「それが動機は不純だ。周りの人間が言うには恋人が出来たんじゃないかって。どうもこの女、男に流されやすかったみたいなんだ。高校じゃ先輩に惚れてサッカー部のマネージャーになり、同級生の秀才を追って同じ大学に通い、不倫相手と一緒にいたくて一流企業に勤めだした」
「そりゃ健気ですなあ」
「でも、一時期のベイスターズより負け続きだ。一勝もしていないんだからな。で、就職して五年、不倫相手とも切れて大人しくしていたみたいなんだが、ここ一年くらいかな、また急に仕事を頑張り始めた」
「やっぱり健気だ。可愛らしいお嬢さんなんでしょう?」
「男好きのする小柄な女だ。身長は百五十センチより下かな。顔は……死体なんかどれも一緒だよ」
「ふうん。あ、斉藤さん、その一手は待ってくれないかい?」
「馬鹿言うんじゃねえ。負けるために勝負してんじゃねえんだよ。……で、その美雪だが、どうも今回は本気だったらしい。妊娠三カ月だった」
「へえ、じゃあ恋人とはうまくやってたんだねえ」
「だが、その恋人の影が出てこない」
戸村は防戦一方の盤面から視線を外し、獲物を見つけた犬のような、鋭い眼光を煌かせた。
「このご時世に、珍しいですな」
「美雪はいわゆる内偵でな。問題のある人間について、人事課のために情報を集めるのが仕事らしい。で、一年くらい前に営業課に回されたが、上手くやったみたいだな」
「ふうん、そりゃ恨みも買うし、秘密主義にもなりますな。そう言えば、現場のロッカーに監視カメラは?」
「それが閑古鳥も呆れちまうほど客がいなくてさ。カメラもなし。聞き込みも芳しくない。同じ営業課だった白野って奴が会社の近くで目撃したと証言したのが唯一だ」
戸村はそこで盤の上を綺麗にし、参りました、と消え入るように呟いて次の一局の用意をし始めた。本当にハマっているらしいな、と斉藤は呆れつつ、弁当と一緒に買った草まんじゅうを彼の前に置いてやった。
「ほっほっほ、つぶあん!」
「安かったんだよ。で、美雪の死体も厄介なんだ」
「へえ? 刺殺だったんでしょ?」
「現場に残っていた血が嫌に少ない。どう見積もっても致死量には足らない」
「では、どこか別の場所で殺された。でも、その足取りがさっぱり分からない」
「だから手詰まりなんだ。色々調べてはいるんだがな……」
そう言いつつ盤面は再び斉藤のペース。中盤にしてポーンを半分失った戸村は形勢逆転を狙って、あちらこちらにクイーンやルークを動かしている。
「で、怪しいのは出たんですかな?」
「どう頑張っても三人から絞れねえ。一人はさっき言った白野だ。ま、最後の目撃者だからな。どうしても疑われる。もう一人は日出って男で営業課の課長だった。つい先日、美雪に告発されて異動になった。社内不倫が要因だな」
「じゃ、それが容疑者一番手だ」
「慌てるなよ。もう一人いるんだ。総務の本西って奴でな。元は営業だった。美雪に惚れ込んで、当時の上司である日出を一緒に探っていたらしいんだが、どこで情報がばれたのか……。日出はそれを知っていたんだとよ。おかげで本西はかなり恨まれている。でも、どう考えたって美雪以外に情報源がないんだよな……」
「はっはあ」
「ちなみに四人とも同じ営業課にいた。今は絶賛壊滅中だが」
二局目もほぼ形勢は決まってしまった。
冷めたコーヒーを飲みながら、この爺さんは何だって頭が切れるんだろうか、と斉藤は内心で考えた。あの推理力や洞察力を駆使すれば、チェスだって何だって、並み以上の腕前にはなりそうなものなのに。
再び戸村は降参し、第三局の用意をしながら尋ねた。
「で、その三人のアリバイは?」
「……白野は車で帰宅中。日出は不倫相手と密会中。これは二人が行っていたレストランの従業員から裏が取れた。で、本西は一人で仕事をしていたって」
「ふうん、じゃ、日出は容疑者から外れるんじゃないの?」
「だがなあ、殺された現場も分からないんだ。アリバイのはっきりしている時に殺しておいて、あとで死体を捨てることだってあり得るだろう?」
「なるほどねえ。あ、斉藤さん、そこに置くと駒が取られちゃうよ」
おや、と斉藤は眉間にしわを寄せた。
それまでいいようにされていた戸村の黒い駒が、ついに斉藤の白い兵士を蹂躙し始めたのである。
気付けば勝負は半分ほどが過ぎており、斉藤もかろうじて応戦はしているものの、主要な駒を取られて苦しい状態である。
戸村はまんじゅうを頬張りながら言った。
「その美雪さんは、ジムではどんな運動を?」
「運動? ……ボルダリングだって言っていたと思う。最近流行りだろ?」
「ほっほ、あれは女の子がエッチな恰好になりますからな。じゃ、もう一つ。美雪さんはどんなアクセサリーを?」
おかしなことを聞くもんだ、と思いつつ斉藤は駒を置き、途端に顔をしかめた。戸村のナイトが斉藤のクイーンを射程圏内に収めたのである。
「……シルバー系だな。給与体系も見せてもらったんだが、あの年収の人間が付けるにはふさわしくないような……。ほら、駅の裏とかで露天商が売っているやつ」
ふうん、と再び戸村は呟き、それまで座して戦いを静観していたクイーンを動かした。その瞬間、斉藤の出来のよろしくない頭でも勝敗がはっきりと見て取れた。