変わり身の女②
斉藤が戸村と知り合ったのは、去年の夏のことであった。
その時、斉藤は女子大生が殺害された事件について調べていた。その女は自宅で絞殺され、死んでから幾日も経っていた。連絡がないことを心配したボーイフレンドの一人が発見者となり、通報したのである。
この事件は、厄介なことに容疑者が十五人も浮かんだ。いずれもその女に捨てられるか、さもなければ浮気性に愛想を尽かした者ばかりで、最近ではストーカー騒ぎなんてものもあったらしい。
だが、それにもかかわらず、挙げられる人物の全てにアリバイがあり、苦戦を強いられていたのである。
その日、斉藤は、もしかしたら見落としがあるかもしれない、と初動捜査に当たった所轄署まで出向いたのだが、事務員の手違いで待たされていた。一刻も早く仕事をしたくて、アンパンまで持参したのだが……。
腰かけたベンチの反対側に一人の老人が座っていた。彼は背筋を伸ばし、ただ黙然としていたものの、腹の具合は正直でぐうぐうと盛大に鳴っていた。
「食うか?」
それが二人の出会いである。戸村は何食わぬ顔でそれを受け取り、実は五時間も待たされていることをはにかみながら告げたのであった。
「気の長い爺さんだなあ」
「ははは、しかし老人とはそういうもの。気付けば日も暮れております」
戸村は陽気に笑いながらも、ちらちらと自動販売機の方を見ている。確かにアンパンを水なしで食うのは辛かろうと、お茶を買ってきて手渡した。
「ああ、コーラでもよかったのに」
「馬鹿言うな、このくそ爺。糖尿になっても知らんぞ」
「まあ、私は健康体ですからね。かかりつけの医者の方が先に死にました」
そこに件の事務員が駆けてきた。
大粒の汗をたらし、もぐもぐと謝罪の言葉を吐いている。そんなことはどうでもいいと喚き散らしたかったが、その悪態を遮るように戸村が言ったのである。
「容疑者は別にいると思いますがね」
思わず振り返った斉藤は呆れたように鼻を鳴らした。
「馬鹿言ってんじゃねえ。お前に何が分かるんだ?」
「だって、その女子大生さん、部屋の中で殺されたんでしょう? そんな恨みを買っているような奴らを入れたりはしないでしょうに」
老人の真剣なまなざしに、斉藤は愕然とした。
「……どこで聞いた? お前みたいな一般人が捜査情報を知っているはずがない」
「ははは、言ったじゃありませんか、五時間も座っているって。一時間くらい前からかな。そろそろ本庁の刑事さんが来ますよって、浮き足立っておりましたから」
事務員がぱっと赤面して俯いた。それを苦々しく睨んだのはひと時のことで、斉藤は老人に視線を戻した。つまり全てを知った上で発言したのだ。
「じゃ、誰がやったって言うんだ?」
「彼女の家、最近なにか故障したりは? 冷蔵庫とか、水道管とか、畳とか」
「……エアコンのケーブルが切られていたことなら」
「なるほどねえ。じゃ、靴箱の様子はどうでした?」
「はあ?」
「靴ですよ、靴。乱れていたとか、綺麗だったとか」
「…………確か、いくつも靴が外に出ていたと思う」
「やっぱりねえ。冷蔵庫の中は?」
そこで斉藤は憤って、肩を怒らせた。
「あのなあ! 爺さんの――」
「まあ、いいから、いいから」
しかし、毒気のない戸村の笑顔に怒鳴る気は失せ、荒々しく溜息をついた。
「空っぽだったよ。これでいいか?」
「はあ、まあ。やっぱり犯人は別じゃないでしょうかねえ。だって、少なくともその女子大生さんは犯人を部屋に上げたわけでしょう?」
「……全く、何だって爺さんのたわごとを聞かなけりゃあならんのか」
そう言って踵を返した斉藤の背中に、戸村はなおも続けた。
「犯人は顔見知り、でも、それほど親しくはない。部屋の中に入れたのは、何かしらの事務的な要件からでしょうなあ」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、人を招き入れるには随分と用意がないじゃありませんか。となれば突発的な客、昼でも夜でも疑われない人がいい。電気工事なら、ちょいと御託を並べたてたら、家に上げてもらえるでしょう」
「……動機は?」
「さあ? 大方、一夜の恋を蒸し返そうとして、失敗したんじゃありませんかね? ほら、修理してもらった時に、そのまま……。で、それきり会えずじまい。悲恋ですなあ」
「残念ながら、的外れだろうな」
そうは言いつつも斉藤は慌ただしく夏模様の外に飛び出し、不動産屋へと向かった。
すれ違いざま戸村を睨むと、この老人は満面の笑みでアンパンの袋を掲げて見せたのだった。
驚くことに、殺害現場に出入りしていた電気屋の従業員が殺人を自供したのであった。ほとんど戸村の言う通りであった。