老人は憐れむ⑥
「……弟が犯人って、そりゃまた何でだ?」
盤面のこともほっぽり出して、斉藤は唖然とした。
「だって彼、就職してから実家には帰っていなかったんでしょう? それが何だって、昨年、切り倒された桜のことを知っているのでしょうか」
「人に聞いたのかもしれん」
「わざわざ?」
斉藤は黙り込んだ。確かに弟は物理的にも、精神的にも実家から離れていた。
誰かに桜のことを尋ねたり、もしくはそんな話を聞かされるような状況に自分の身を置くかどうかというのは疑問が残る。
戸村はその怜悧な顔を、ほんの少しだけ曇らせた。
「ま、それはともかくとして、私が注目したのは現場の状況ですなあ。斉藤さんから聞いて、家族が犯人ではないかと考えたわけです」
「……でも、父親と不倫相手の共謀だってあるだろう?」
「ええ、ええ、クッキー缶に毒でも仕込まれていれば別でしょうがね。生憎と死因は包丁です。となれば、突発的、あるいは現場を熟知している者の行動」
「……どういうことだ?」
「凶器を持って行かず、ついカッとなった拍子に包丁を取るのは突発的。反面、そこに包丁が置かれていることを知った上で凶器を持ってこなかったら、現場のことを知っている者の犯行。今回は後者でしょう。現場にお茶のセットなんかが用意されていたわけですから」
「そりゃ、そうだがね」
「私としてはティーカップのことも気にかかるんです。客が来ていて、自分だけがお茶を啜るとは到底思えんわけですな。でも、彼女が用意したのは家族用。そんな相手は一人しかおりませんな」
斉藤は間髪いれずに答えた。
「……弟」
「左様。彼は午前中の足取りが掴めなかったんでしたな」
「うん、でも、道子が殺されたのは昼過ぎだ」
「ま、それにしたって、いくらでも時間はずらせるわけで、私が注目したのは、やっぱり現場の状況だった。確か、包丁はきちんとしまわれていたんでしたな?」
「うん、血も拭き取られていた」
「母親がうめき声を上げる中、犯人がそこまで出来たとは思えんのですよ。だってお茶のセットはそのままにしていたんでしょ? ですから、殺した人間と、凶器を隠匿した人間は別にいるはずだ」
「……まさか。姉も共犯だと言いたいのか?」
「それが自然です」
「逆でもいいんじゃないか?」
「それだといけない。何故なら、息子さんが、わざわざ離れていた家に来る理由がないから。しかも平日の真昼に」
唸り声を上げる斉藤に、戸村は畳みかけるようにしていった。
「恐らく娘さんは物音に気付いたんだと思いますよ。それで、何らかの方法で彼の午後の予定を聞いたんでしょう。部屋を暖めて、母親の亡骸から包丁を取り、洗った。ここで誤算だったのは、母親が包丁をどこに置くのか、ということを把握していなかったこと。おかげで片付けてしまった」
「だがなあ……」
「料理をするのか、と聞いたのはそういうことです。道子さんは毎日使うガーデニングの道具を玄関に置いていたくらいですから、調理道具も出しっぱなしだろうと考えました。きっと姉弟はそれを知らなかった。日々のことですからね。特段、意識することもないでしょうし。息子さんが考えたのは、包丁が必ず台所にあるだろうということまでです」
「……じゃあ、何だって弟は母親である道子を殺したんだ?」
戸村はそこで目を細めた。使い込まれた革製品のような手を撫で、少しだけ――ほんの少しだけ眉をたわめた。
「優しい子だったんでしょうなあ。自分のお姉さんがどんな人生を歩んできたのか、聡い彼は分かっていた。自分に辛く当たればいいものを、彼女は弟にも愛情を注ぎ、結果、潰れてしまった」
「弟としては、姉の仇討ちということか?」
「千載一遇のチャンスだったのは事実です。父親は出張中、娘さんも引きこもっている。彼女の生活リズムを逆手に取って、眠っているであろう時間帯を選んだ」
斉藤は急に神妙な顔つきになった。辺りはちょうど暗がりを帯び始めており、あの不運な姉の取り調べがそろそろ始まる頃だ。
膝を叩いて立ち上がった彼に、戸村が鋭い眼光を向けた。
「息子さんの午前中の足取りを追ってみてください。彼は実家の近くに来ておりますから」
「……分かった。この一件が片付いたら、何か奢ってやろう」
「沖縄旅行がいいですなあ」
「馬鹿言ってんじゃねえ! 俺の収入を考えろ!」
斉藤は肩を怒らせ、乱暴にススキの茂みを掻きわけた。
驚くべきことに戸村の推測は的の中心を射抜いていた。
いつか本当に沖縄旅行に連れて行く日が来そうで、斉藤はその日から、ほんのちょっぴり節約するようになった。




