変わり身の女①
まだ冬の冷たさが残る午後の河川敷を一人の男が歩いていた。
手には近所のスーパーのロゴが入ったビニール袋を下げ、身にまとったコートの中では温かい缶コーヒーが二つ、打ちあって甲高い音を立てている。
春から秋の間は死体を隠すのにはうってつけなくらい草木が鬱然と生い茂り、視界が閉ざされるのだが、春の山菜が芽吹き始めた今は、まだ枯れたススキがざわざわと揺れるくらいで遠くの方が見渡せた。
珍しいことに子供達が野球をしている。とはいえ下手の横好き。学生時代はサッカー一辺倒だったその男――斉藤大地の方が上手いだろう。
斉藤の年齢は三十代、未だ運命は彼の元へ来ず、左手の薬指は寂しい。しかも仕事は警察官で、殺人を含む凶悪事件を担当する捜査一課に配属されている。
そんな彼の仕事の中に、この侘しい河川敷の一角に住む、とあるホームレスを訪ねるというものがある。
別段、独身を極めるうちに社会奉仕の精神が芽生えたわけではない。彼とホームレスとは打算的な関係にあるのだ。
そこは役所が管轄する河川敷であり、本来は人が住んでよい場所ではない。もちろんホームレスだって、何十年と住んでも不法占拠に変わりなく、こんなところを役人に見つかったら大目玉を食らうであろう。
子供達の姿しか見えないことに、彼はほっと一つ息を吐き、懐を温める缶コーヒーに触れながら枯れたススキを掻きわけた。
「おい、いるか?」
ぶっきらぼうに声を掛ける。それが斉藤とホームレスの間で、暗黙のうちに決められた挨拶であった。
「はいはい、どこの役人さんかいな」
そう言って出てきたのは、自称五十代の白髪の老人だ。背は高く背筋はピンとしている。一見するとホームレスだとは分からないほど身なりはしっかりしており、その日も真新しいTシャツの上に十年物のジャンパーを羽織るという少々寒い恰好をしていた。
「よお、爺さん。相変わらず生きてんなあ。冬の間に死ぬと思ったよ」
「馬鹿言っちゃいけないよ、斉藤さん。冬の越し方はいくらでも知っているさ。それに、どうしても寒い日は、そこの民宿に泊まるからね」
くつくつとした含み笑いと共に、その老人――名を戸村と言い、下の名前は聞いたことがない――は土手の向こうを指差した。斉藤の記憶違いでなければ、築八十年を越えた民家が道路沿いにあったはずだ……。
「……ホームレスが聞いて呆れるなあ」
「でも、捕まったら住所不定無職だ。しかも警察がいくら調べたところで、私が家を借りた痕跡はない」
「ま、そうだがね。今は暇か?」
「暇じゃないホームレスは、きっと自宅にはいないだろうねえ」
彼は軍手をしていた。見ればペンキの缶で作ったかまどに火が起こされ、戸村は暖を取っているようである。
「家ごと燃えちまわねえだろうな?」
「馬鹿言わないでくださいよ。もちろん消火器もありますよ」
戸村が指差したところには、確かに見覚えのある赤い消火器が置かれている。そんな用意の良さに呆れながら、この若い刑事は埃のかぶったパイプ椅子に腰掛け、かまどの近くにある小ぢんまりとしたテーブルにビニール袋を置いた。
「おや? お昼ですか?」
「ああ、最近は昼に飯が食えねえからな」
ちなみに今は午後三時ちょうど。戸村が愛用しているラジオの時報がそう告げていた。斉藤はそのラジオをちらりと見やり、割り箸を取りながら尋ねた。
「そいつの調子はどうだ?」
「悪くないですねえ。これ、本当に安かったんですか?」
「リサイクルショップで百三十円だった」
その口ぶりはそっけない。何を隠そうそのラジオは、斉藤が捜査協力の対価として献上した物であった。……もちろん個人的に。
彼と戸村とはある種の協力関係にある。気まぐれに訪れては家のない老人のために働いてやり――最近では畑を耕したり、去年の秋にはサツマイモを収穫させられた――その対価として話を聞いてもらうのである。