蝶を吐く
1.
赤き蝶が羽撃く。
鱗粉の煌めきが巡る。
あの赤さにどうしてか
手首を切りたくなつた。
2.
花への接吻。
ありがたうと
聞こえた気がした。
だが蝶は花から去るのみ、
花から出づる道理なし。
3.
蜘蛛の網が、
ひのもと密かに
かの羽を待つ。
それを見る網膜の
薄さが淋しい、
空があおいから、
なほいっそう淋しい。
あお、といふ言葉を
口遊むだけで舌が苦い、
粉薬を飲んだやうだ。
4.
網目から宙ぶらに
吐かれ、萎びた同朋を、
傍目に飛ぶ彼らの、
なんと美しきことか。
だがそれを喩へることは
けして叶わぬことなり。
我が脳裡に、あの色の
鏤むことなし。
5.
いつの日か、這ふ
蛇のやうだと云はれた。
リンゴを齧つた
赤い頰の童に。
リンゴの青さが
生々しかつた。
6.
蛹を手に友人が
「人はだいだい、蛹は枯葉」
と云つていた。
だが同じやうにしか
見へなかつた。
同じやうな肌色に見へた。
7.
日暮れが近くなつてきた。
だんだん影が長くなつてきた。
黄昏に街が沈むやうだ。
隣家の人を思ふ。
「過去を再現したい」
さう云つて眠るやうに逝つたと
皺ばんだ奥方が泣いていた。
その庭には松の木が
植へられたばかり。
植木鋏の輝きが
哀しいと言つた。
たがそれもじき錆びる。
8.
家に帰ると、
赤き蝶が羽撃いていた。
「可哀想に迷つたのか」
そう云はんとした口に
蝶が飛び込んできた。
私は驚き噎せて吐いた。
言葉のやうに吐いた。
昼に食つた石榴が赤い。
吐き捨てた蝶がいるはずである。
死んだのであうか。
同じ色でよく分からなかつた。
口が苦い。
9.
さう思つた頃には暮れていた。
闇の時である。
もはやなにごとをも
わかつ術なし。私は
白痴の嬰児!
慄くことも忘れてしまつた!