樹王の下で1
「風刃ー!」
樹王を背に首を傾げていたところ、翼を広げた兄がやって来た。
「どうだ?怪しい奴、見つかったか?」
「いや、さっぱりだった…山全体、ざっと見たんだけどな…。」
「え、お前もか…。」
2人がかりの捜索が徒労に終わり、どちらからともなく唸り声をこぼす。
「俺らが暴れてる間に、逃げ出したのか…?」
「それなら、野次馬だらけの登山口がもっと騒がしくなってるはずだけどな…。」
「野次馬だらけって、そんなに?」
身体を少し空に浮かせて、麓の様子を窺った。
確かに、登山口の近辺や辿り着いた救急車の周囲に人だかりができている。
「けっ、鬱陶しい…見世物じゃねぇってのに、他人事だと思っていい気なもんだ…。」
自分が冷やかしを喰らっている瞬間と重なるものを感じ、憤りながら着地する。
「でも、これはこれでありがたいぞ。麓があの調子なら、わざわざ山から下りたりしないだろうしね。」
「なるほどな…。」
樹王山は元々、随分な数の客が押し寄せる場所。
まして現下の人出では、遁走を目論んだところですぐさま見つかり、警察のみならず民間人からも尋問の連打を受けるのがオチである。
そうした騒動が生じていないとなれば、憩いの広場を傷物にした犯人はまだ山の中に留まっていると見るべきだろう。
特に、夥しい樹木に覆われた崖の周辺は動き辛く足場も脆い一方、身を隠すにはうってつけなのだから。
「じゃ、崖の辺りをもう1回捜すか。」
「ああ、そうしよ―」
「うーム…これは想定外じゃッタな…。」
兄の賛意をかき消す様に、濁った声が樹王の後ろから響く。
「…!」
「…何だ、てめぇ…!?」
振り返るや瞳に映ったのは、特異な姿形の巨躯だった。
成人男性2人が積み重なった位の高さがあり、目線を合わせるにも、些か首に疲労を感じる。
非常に細く鋭い目つきの瞳を乗せた顔から、靴を着けていない爪先に至るまで全身、黒ずんだ赤色の肌。
頭頂部から生えた、太く、長く、禍々しい1本の角。
右手に握った、大きな銀色の金棒。
それらは、『鬼』と呼ばれる存在の想像図に、この上なく適合していた。
「足場の悪い一帯なラ、捜しに来る奴もそうハおるマいと踏んどったガ…お主ラの様ナ奴らがいたのでは、どこに隠れテも無意味じゃノう…。」
「…お前、何者なんだ?ただの登山客じゃなさそうだけど。」
「想像がツいてオルのデはナイか?ワシも、変異種とイう奴ジャよ。オ主らと同じジャな。」
俺達が広げたままの翼を見ながら、赤鬼は答える。
「…あまり強く否定できないけど、お前みたいなのに同類呼ばわりされると不愉快だね。」
「何ジャ、随分ナ言い草じゃノう。変異種同士、イがみ合うコともアルまイに。」
「同じ変異種でも、違う。僕達はお前みたく、金棒振り回して人を潰したりはしないからな。」
濃い茶色の土や草の切れ端、さらには少し渇いた血液が、赤鬼の得物に付着している。
それだけで、奴が何者かは十二分に証明されていた。
「…ふぉフぉフォ。白を切るヒマもなカったか。」
「ヘラヘラしやがって、クズ野郎が…!何であんな真似しやがった!!」
「ウむ?何ジャ、急に血相ヲ変えオッて。なニユえ、サように怒ルことガある?」
「怒って当たり前だと思わないか?山を荒らした上に、登山客を痛めつけた奴が目の前にいるんだからさ。」
俺に比すれば落ち着いている兄も、言葉遣いは刺々しい。
余裕を漂わせる平素とは異なり、両目には明らかに不機嫌さが滲み出ていた。
「ジャかラ、なにゆエにお主ラが怒る必要がアるンジャ?この山の所有者でもアルまいに。ソれとも、登山客の中に顔見知りでモおったのか?」
「うるせぇ!!単純にてめぇが許せねぇから切れてんだろうが!!顔見知りがいるだのいねぇだの、関係あるか!!」
「大体その理屈で言ったら、公共の土地で面識もない人間相手に意味無く暴力振るったお前こそ、イカれてるんじゃないのか?」
「意味がナイといウのは心外ジャノう。ワシや手下共ハ、探し物のためニ動いておったノジャぞ。」
「手下?…広場にいた人達を切りつけた連中のことか?」
「おお、そうジャそウじャ。ヤツラ共とはツイ最近知り合ッタんじゃガ、偶然にも同じモノを探しておっテノ。折角ジャからト、手ヲ組んだ訳じゃ。…ハテ?言われテ思い出しテみれば…ヤツラ共、戻ってこンノウ?」
「戻って来なくて当たり前だろ!俺がぶちのめしてやったんだからな!」
「ナンジャと?」
赤鬼は目を瞠った。
「まあ、こいつ1人じゃ心許なかったんで、僕が特別サービスで非の打ち所のないアシストをしてやったんだけどな。」
「抜かせ、ド阿呆!!ほとんど見物してただけのくせに!!」
「とにかく、お前の手下が片付いてるのは本当だぞ。信じるかどうかは勝手だけどな。」
真隣で騒ぎ立てたが、兄は涼しい顔をして、水色の長い前髪を右手でかき上げるのみ。
「ほウ…ソうだったノかイ。デは、予想通り使えン連中だッたワケじャな。探す手間は増えテシモうたが、願いを横取りさレる心配は減ったノう。」
手下の全滅を耳にした赤鬼は、冷たい薄ら笑いを浮かべていた。
こいつとあの小鬼共は、あくまでも何らかの探し物のためにつるんだだけだったようだ。
「しカし連中を片付けたとナルと、お主ラをどうにカしなければ山から出られル目途が立たヌな。…どうジャ、お主ラ。ワシを見逃がス気はないか?このまま黙って引き払エば、ワシもお主ラに危害は加えんゾ。」
「ほざくな!!てめぇこそ大人しく警察に捕まりやがれ!!そうすりゃ、余計な痛ぇ目は見ねぇで済むぞ!」
赤鬼の提案に、否以外の答えはなかった。
「おや、交渉決裂かイ。残念ジャノう。お互い余計な労力を使わぬヨうにと思って、言ったんジャがな。」
「無駄なお気遣いをどうもありがとう。けど生憎とこっちも、お前みたいなのを見て見ぬ振りできる人間じゃないんだよ!」
兄が語調を荒げて威嚇すると、赤鬼のただでさえ鋭い瞳が、より一層きつく細められた。
「ほう、そウかい。…なラば、お主ラにも潰れてモらおうカ!!」
言うなり金棒を空高く掲げ上げ、勢いを付けて振り下ろして来た。
「ふん、こんなもん俺の風で―」
「風刃、避けろ!!」
「え!?」
迫り来る金棒を吹き飛ばしてやろうと構えていたが、素早く身をかわした兄の警告に、本能的に身体が従う。
お蔭で、赤鬼の一撃を難なく回避できた。
ただし、物も言わなければ動けもしない土壌は、金棒の餌食にされてしまう。
にやりと笑った赤鬼が得物を地表から離すと、月面のクレーターの如き陥没ができていた。
「おお…!危ねぇ、危ねぇ…。」
「金棒振り回されたら、絶対に避けろよ!直撃喰らったら、痛いどころじゃ済まんからな!」
「ふォふぉふォ…言っておクが、今のはわざと避けやすくしテやっただけじゃからナ?お主ラが自力デかわしたナドと、思い違えルデないゾ。」
「笑わせんじゃねぇ!俺が本気で避ければ、てめぇのとろい金棒なんざかすりもしねぇぞ!」
「…ほウ、生意気な口をききよルノ。ナラば、ワシも本気で振ってヤろうカ!!」
立腹した赤鬼は金棒を強く握り直すと、兄には目もくれず、こちらへ向かって連続で振りかぶって来た。
決して小さくはない金属の塊を、木の棒でも扱うかの如く、軽々と動かしている。
頭上から叩きつけて来たかと思えば、今度は横薙ぎに一閃を繰り出し。
さらには地面を剥ぎ取りつつ、振り上げる。
「オノレ…!」
しかし俺は、赤鬼の攻撃を悉くかわしていた。
風を我が身に纏えば、普通の人間には到底発揮し得ない速度で動ける。
赤鬼の金棒が顔面まで迫っても、かすられるより先に射程外へ移るのは、容易かった。
「どうした。それが本気か?あんまり遅過ぎて、欠伸が出るぜ。」
「ヌウ…思い上がるナ、小僧!」
余裕の表情で煽るほど赤鬼は躍起になり、その素振りは力任せで雑になっていった。
「こノ…!ちょコまかト、うっとウシい!!」
焦点を合わせた矢先、またも視界から外れる俺に苛立った赤鬼は、金棒を両手で強く握り締め、振り下ろした。
周囲一帯に短い強風が流れ、その余波だけで、赤鬼の前方にあった大きめの樹木が裂けて倒れてしまった。
殴られた箇所に深々とした穴が開いたのは、言うまでもない。
「…へえ。それなりにはやるじゃないか。」
言葉に反して、兄の口調は嫌味に満ちており、冷めていた。
「フん!余裕のツモりか、若いの!小僧が片付いタことジャ、次はお主を―」
「誰が、片付いただと?」
背後から語り掛けると、赤鬼はようやく渾身の一撃をかわされていたと察する。
危険な技ではあったが、所作が余りに大振りで、かわす暇にも付け入る隙にも困らなかった。
「今ので勝った気になるようじゃ、てめぇの本気も底が知れたな!」
「グ、貴様…!!!」
赤鬼は振り返りざま、金棒を横一文字に振るった。
速度がある上に、予備動作が乏しい。
それでも、こちらが伏せる方が、さらに速かった。
しゃがんだまま、芝生が大きく波打つ程の風を右手に宿すと、拳を握って勢い良く跳び上がる。
「てめぇらが傷つけた連中の痛み、たっぷりと思い知れ!!!」
怒号と共に赤鬼の顎を思い切り打つと、奴の身体が宙に浮いた。
「グアアアアアアアア!!!!!」
すかさず飛翔し追い付くと、風をまとった両手での乱打を顔面に叩き込む。
止めに心臓部へ右足での蹴りを浴びせると、赤鬼は自らが刻んだ巨大な窪みへと墜落した。
「ふん!図体も金棒も、とんだ見掛け倒しだったな!」
両手の埃を払いながら、嘴の下に隠れた唇を持ち上げる。
「良かったな、ギリギリで勝てて。」
「抜かせ!どう見ても圧勝だっただろうが!」
「だけどそれも、風の力があったおかげだろ。」
「…だったら何なんだよ。」
「いや、大した話じゃないけどな。今回は遠慮なく使う位で丁度良かったけど、もし学校とかで絡まれた時にはちゃんと状況を考えろってこと。」
「悪目立ちするからだろ?それ位言われなくたって分か―」
「分かってるなら、何で駆君と揉めた時には平気で使ったんだ?」
「あ。」
反論しようとしていた口が、開いたまま固まってしまう。
俺には昨年、古典的な不良の格好をした別のクラスの生徒と喧嘩になって打ちのめされた際、頭に血を上げて風を起こしてしまった前科があった。
「しつこいようだけど、喧嘩を誰にも見られなかったのも、駆君が黙ってくれてるのも奇跡だってとこ、忘れるなよ。髪と嘴で大概なのに異能までバレたら、どうなるかも分からんからな。」
兄の指摘通りだった。
夕刻の河原で人通りも乏しかったから、第三者に取っ組み合いを目撃されなかった。
後日学校でふとした濡れ衣を着せられた喧嘩相手に意趣返しのつもりで助け船を出したところ、先方は謝罪と礼を兼ねてこちらの秘密を口外しないと誓い、それを厳守している。
お陰で今も、この不可思議な力や羽の件は、周囲に知られていない。
しかし、そんな好都合な展開が繰り返されるはずもないのは、分かり切った話。
再び人前で異能を使用してしまえば、全てが台無しだ。
例えその後に凡庸な人間に戻れたとしても、最早意味を成すまい。
「…なら、これからも学校じゃ異能を使わねぇでやられっ放しになってろって事か?いよいよ何のためにある力なんだか…。」
「絶対に使うなって言ってるんじゃない。時と場合を考えろってだけだよ。…人に見られて至らない目に遭いたいなら、好きにして良いけどな。」
「ぐ…でも、今回は使う位が丁度良かったんだろ。だったら―」
「だから、今の内に言ったんだよ。不用意に使った後じゃ、手遅れも良い所だからな。」
「…そりゃ、どうも…。」
小鬼の集団や赤鬼を一蹴して内心有頂天になっていたところで手厳しい説教を喰らい、意気消沈する。
「…まあ、普通の人間に戻れば、余計な心配か。邪魔な連中も片付いたし、さっさと実を採りに行こう。」
「おお、そうだった。よし、それじゃ―」
今度こそ、樹王の頂上を目指そうとした時。
「ウがアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!」
後方から金棒が飛び掛かり、俺の左腕に噛み付いた。