蕎麦好きの化け狐と夜更かし好きなお姫さま
ざる蕎麦を食べ終えて、こう考えた。
そのまま食べれば香りが立つ。汁に付ければ美味しくなる。山葵を溶かせば絶品だ。とかくに御蕎麦は楽しめる。
楽しみ方も高じると、さらに何かを足したくなる。何を足しても御蕎麦の味は変わらぬと悟ったとき、海苔を加えて、ざるで満つ。
長く御蕎麦を楽しむ賢者は神でも鬼でもざるに帰す。天麩羅、山菜、大根おろし、それでもやはりざるに帰す。小口に切られた白葱もあれば、さらに何を足すのであろうか。つけ汁と御蕎麦の調和を楽しむならば、やはり御蕎麦はざるに帰すのである。
この世に生まれて十五年、山から下りて早十年。諸国を回り絶景を訪れ、各地の名店にて蕎麦との一期一会を楽しんだ。これも福伊藩城主の黒山屋敷に住む千夜姫のお力があってこそのこと。江戸ももう近い。早く姫に会いたいなあ。
千夜姫と蕎麦への思いに浸りながら、江戸へ繋がる日光街道を化け狐の拾利が駆けていた。夜になれば妖怪も近づかぬ人狼の出る獣道を拾利は鎌鼬のように颯爽と駆けていく。ここから江戸までおよそ一日半かかる道程を拾利は明け方までに辿り着く算段で駆けていく。
黄昏時の仙台松島にて静かな海を見ながら食べた牡蠣蕎麦も美味しかった。白河城下にて食べた山菜蕎麦は汁の味を損なわぬようにちょうどよく盛られた山菜の天婦羅が美味しく、蕎麦ものど越しが良くて旅費を削ってお替りした。下野国の小山宿でさっき食べた蕎麦は海苔と山葵だけの簡素なざる蕎麦であったが、挽きたて、打ちたて、茹でたての基本を忠実に守った文句のない美味い蕎麦だった!
小山宿を出発したときは千夜姫への土産話を何しようかと考えながら駆けていた化け狐の拾利だったが、なにしろ一番の思い出が蕎麦のことだったので、そのことばかりまた考えて山道を駆け上がっていった。
ああ、江戸の屋台で初めて食べたあの夜鷹そばこそ、最初にして最高の蕎麦だった!
今宵のような寒い日、のど越しの良い細い蕎麦に熱めの汁を丼ぶりいっぱいにかけ、厚く切られた竹輪が一枚、小口に切られた葱をこれでもかといれてくれた。
あの蕎麦がまた食べたいなあ!
世に生まれて十三になった福伊城主の千夜姫は無類の夜更かし好きとして知られていた。
家来からは眠り姫と呼ばれていた。夜更かしすれば日の出の後に眠くなる。家来たちが忙しいときも、暇を持て余しているときでも、昼間の千夜姫は床に臥せてすやすやと眠っていた。いくら部屋の外が騒がしくとも昼間のときは起きることなく、夕刻になるとむくりと起きた。布団から出ると、ご飯を食べ、それから書を読み始めることが多かった。
いったん読み始めると周りの音が耳に入らなくなった。やがて疲れてくると書を置いてこっそりと部屋から出た。家来はこのことを知っていたから、当番制で姫のお供として後ろを着いて行った。寝静まった夜の町に姫と家来が歩くする姿は町人たちにも見慣れたものとなってしまい、町人たちには夜行姫と親しまれていた。
行くところはだいたい決まっており、夜分にだけ開いている灯りもない茶屋や、見世物小屋が多かった。今宵は週に一度の神社にお参りに行く日だったので、神社に行って無病息災を祈った後、そのまま屋敷へ戻り、書の続きを読むこととした。
行燈を消した暗い部屋でも千夜姫が本を読めたのは、妖怪も羨ましがるほどに夜目が効くからであった。千夜姫がそれを見たいと思えば、そこだけ光を当てたように見ることができ、形だけでなく色までも見ることができた。
東の空から彼は誰時を告げるころになり、千夜姫もそろそろ寝ようかと思い書を閉じたとき、出入り口となる襖からトントンと小突くような音がした。
「こんな夜分遅くに、どなたでございましょうか」
「千夜姫。妾だよ。化け狐の拾利だよ」
「まあ! お帰りになられたのですね」
「帰ってきたら一番に会いたくて来たよ」
「私も会いたかったですよ、さ、早くお入りなさいまし」
「お願い事があって来たんだ。開けても良い?」
「よろしいですよ。さあさあ、お出でなさいまし」
襖が開けられると、軽装姿に狐色の髪を後ろで結わいた拾利がいた。急いでやって来たのか少し息が荒いものの、汗はまったく掻いていないようだった。
目が合うやいなや、挨拶もなしに拾利は言った。
「お蕎麦を食べたいんだ。とびきり美味しいのを」
拾利のその言葉に千夜姫は「はい」とだけ返事して、少々考えてから言った。
「お蕎麦ですか。この町で有名なお蕎麦屋さんといえば、白寿屋と一江屋ですね。私はどちらも食べたことありませんが、お昼に行けば開いているそうですよ」
「行ったことあるよ。その時はざる蕎麦を食べたよ。美味しかった。でも、いま妾の食べたいお蕎麦とは違うんだ。僕がいま食べたいのはかけ蕎麦なんだ」
「かけ蕎麦ですか。このまえに言っていた夜鷹そばのことでしょうか」
「そう、それだよ。お店の名前は忘れてしまったよ。けれども、どこかにあるんじゃないかって探していたんだ、今まで」
千夜姫は拾利がここに着いてからの様子が少しわかった気がした。東北諸国を周りながら蕎麦を食べ歩きたいと言い出したのは拾利だった。そのための費用を千夜姫が賄う代わりに、諸国の様子を教えてほしいと提案したのだった。
いろいろな蕎麦を食べたが、帰り道になって名も分からぬ店で初めて食べた夜鷹そばが懐かしくなり探そうとしたのだろう。
「見つからなくて、諦めてここに来た、ということですね」
「あ……、蕎麦がなければここに一番に来たよ、間違いなく」
約束では一番にここへ戻って来るはずだった。
「来てくれただけでもうれしいですよ。蕎麦のことは安兵衛にお伝えしておきますね。明日の昼にでも一緒に食べに行けるよう支度を整えておきます」
「うん」
そうして今日はもう遅いから、明日の丑三つ時にでも来て話を聞かせてくれるよう頼もうとしたとき、拾利が興奮した様子で言い出した。
「それでね、考えたんだけどね。白寿屋と一江屋の蕎麦は一、二を競うほどの蕎麦屋だ。もしこの蕎麦屋が競ってかけ蕎麦を作ったら、もっと美味しいものを食べれると思ったんだけど、どうだろう」
突然の提案に千夜姫は驚いた。
「そしたらとびきり美味しい蕎麦が食べられると思ったんだ」
誰の差し金でもなく、拾利の本意なのだろう、と千夜姫は思った。その目には好奇心と期待しか感じ取ることしかできず、千夜姫も競い合いを見ることは好きだったので、その案に乗じることにした。
「面白いですね。でも、競い事となれば勝ち負けが付いてしまう。その後のことも考えねばなりませんね。負けた方が蕎麦屋を辞めるということにでもなるかもしれません、頑固者と知られていますから」
「そっか。それならやっぱり」
千夜姫は蕎麦をそこまで食べることはなかったが、江戸町民の楽しみを奪う結果にはしたくない。蕎麦屋の店主はお互い筋を曲げぬ頑固者として知られ、これをしたら辞めるとすぐに言い出す癖もあったため、危惧する点といえばそれだけだったが、ちょうどそうならぬ案も思い付き、言った。
「それならば、勝ち負けをつけなければ良いのです。お互いの良いところをお話して、そうして引き分けで終わらせる。私には蕎麦の知識はないのでできませんが、拾利はいかかでしょう。私の姿に化けて二人の前で食べて言えばよろしいのですが、できそうですか」
「千夜姫に化けてもいいの?」
「いいですよ。旅先で私の姿に化けてはいませんでしょうね」
「うん」
千夜姫の姿で拾利が言えば、蕎麦屋の店主もお互いに引き分けで顔が立つだろう、と考えたのだった。
「それならば、さっそく支度にとりかかりましょう。後は任せてくれますか」
「うん。難事なく進むことを頼むよ」
「はい」とだけ返事をして、もう寝るからと拾利を帰すと、千夜姫は床に入り、二週間後に競い合いの場を設けることだけを決めて眠りについたのだった。
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