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「かあ、さん?」
「ああ、ごめんね、優人。今、ご飯作るから」
いや、ご飯じゃなくて。でも、それが言えなくて、黙ってテーブルに夕食が並ぶのを待つしかなかった。
「いただきます」
「……はい」
カチャ、カチャ。
静かだ。全く口を利かずに、食器の音だけが部屋に響く。ああ、気まずい。テストで最低点を取った時よりも、さらに気まずい。
「あの、さ。母さん、クロのこと、知ってたの? 」
いつも、母さんが帰ってくる頃には、いなくなっていたクロ。母さんに見せたくって窓を閉めていたこともあったのに、いつも逃げられた。
「昔、ね。優人が産まれてからは、今日が初めて。優人から聞いて、たぶんクロさんだろうなぁ、とは思っていたんだけど」
閉じ込めてるのに逃げるなんて、普通の猫じゃないでしょう? と笑う。
そうだよね、普通の猫って、窓が開いてないのに逃げる、なんてしないよね。
「あの、俺の、父さんって? 」
「……死神の、助手」
「は? 」
いやいや、待って。死神の助手って、そもそも人はできないよね? てことは、俺も人じゃないの?
「クロさんも、アンタの父さんも、猫神様なの」
溜息と一緒に、爆弾発言。いや、猫神様って、何? 化け猫ってこと? 俺、猫の子供なわけ? そもそも、生々しいけど、猫と人間、子供できるの?
パニック過ぎて、口もきけない俺に、母さんは黙ってお茶をすすった。いや、落ち着きすぎでしょ。息子がこんなになってるのに、なぜ?
「びっくりしたわよねぇ。母さんも、昔そう聞いたとき、驚いて声も出なかったわぁ。あ、もちろん付き合ってた時は人の姿してたのよ。だから、全然わからなかったの。まさか、自分の彼氏が猫神だなんて、ねぇ。しかも、アンタができてからそういわれてさぁ」
話す覚悟を決めたのか、いや~まいったわぁ、なんてカラカラ笑っている母さん。ああ、そんなだから、猫神の彼氏なんかができるんだよ……。
「猫神って、何するの? 」
「さぁ? 詳しいことは聞いていないからねぇ。でも、死神の助手っていうんだから、死んだ人の魂を導くとか、悪霊を無理やり連れていくとか、かなぁ」
「それ、手伝えって言われた……」
「受験が嫌みたいだからって言っていたでしょう? アンタがこっちで暮らす気があるなら、断ったらいい。こっちで暮らす気がないなら、ちょっと手伝ってみたら?嫌なんでしょ?受験も、この世界での、未来を考えるのも」
うぅ。まぁ、嫌だけど、だからって死神の助手になんて、なりたくない。自慢じゃないけど、小さいころから留守番の多かった俺は、その手の類の話は大嫌い。テレビも、絶対見ないし、学校でみんなが盛り上がっていても極力近づかないようにしているの、母さんも知ってるよね?
「父さんと、約束したからね、アンタの望む方の世界を与えようって。だから、どっちの世界で生きるかは、アンタが決めなさい。クロさんに言われたのは、癪だけどねぇ」
「……」
その夜、ベッドから見える小さな窓には、細い三日月が浮かんでいた。クロの、目みたい。
そういや、初めてクロがうちに来たのは、小学校に入ってすぐの事。保育園の頃は仕事が遅くなっても、迎えに来てくれていたから、一人で家で待つなんてことはなかったけど、小学校では学童からは一人で帰って、家でも一人で待たなくちゃいけなくて、寂しくて仕方なかったころだ。あの頃は、毎日夕方になると、クロがベランダに来ていた。冬になって、学童からの帰り道が暗いときには、毎日帰り道にクロがいた。あれは、父さんが俺を心配していたから? 様子を見ていた?
「おい、おい!開けろ! 」
不意に聞こえた声に慌てて窓を開ければ、クロが宙に浮いている。
大丈夫、もう、多少の事じゃ、驚かない。
「クロ、さん?入る? 」
窓を開けて恐る恐る聞いた俺に、クロはニカっと赤い口を開けて笑った。
「なんだよ、クロでいいさ。長い付き合いじゃねぇか」
どすっと音をさせて俺のベッドにのったクロは、また前足を上げて笑う。
「母さんから、聞いたか? 」
「……うん。俺の父親は、死神の助手をしている、猫神様。クロも」
そうそう、と嬉しそうに尻尾が揺れる。
「助手って言っても、別に死神が俺たちよりも偉いわけじゃぇぞ。俺たちは闇を飛べるんだ。死神ってのは、光を求めて飛べるが、闇は飛べない。だから、死神が探せないところ、いけないところに行ったり、死神を連れていったりできる。」
得意げに話すクロ。闇って、やっぱり?
「だけど、俺たちは光に向かっては飛べないから、心が光を求めたら、俺達には救えない。その時は、死神の役目だ」
ちょっと、悔しそうに耳が後ろを向く。
「なぁ、とりあえず、お前の親父に会ってみねぇか?手伝うかどうかは別にして、よぉ。親父が何しているか、気になってたんだろう? 」
ああ、クロにそんなこと、何度も言った気がする。会ってみたい、どんな人だろう、ずっと気になっていた。だけど、まさか……。
黙ってベッドを見つめていれば、急にベッドが揺れて、沈んだ。
顔を上げたそこにいたのは、見知らぬオジサン……。
海の家で焼きそば焼いているような感じ。明るくて、日に焼けた、ガタイのいい、胡散臭い、ジャージのオジサン。まさか、じゃないよね、やっぱり、このヒト……。
「ク、ロ……。」
ニカっと笑うその口元がさらに胡散臭い、と思ったのは黙っておこう。本当に人になれるんだ……。
これは、猫神様っていうより、化け猫?
「お前今、失礼なこと考えただろ? 」
ヤバッ。ばれてる。
「まぁ、いいさ。言っておくがな、お前の親父は、俺よりずっと貧相だぞ」
貧相、ですか。猫で、死神の助手で、さらに貧相。会う気がどんどん減っていくんですけど。
「でも、いいヤツだ。仕事熱心で、お前のこともいつも気にかけている」
「……」
「なぁ、会ってだけ、みないか?」
覗き込むように俺の目を見つめるのは、クロの目。時々、俺の目をこうやって覗き込んでいた。
「クロが言うなら、会ってみようかな」
途端に、絵に描いたようにぱあっと明るい顔をして、猫の姿にもどった。