13
「後悔はしていない。彼女には、誰よりも幸せになってほしいから、正しい選択だったと、思っている。でも、時々思い出しては新幹線を見に行った」
情けないよねぇ、と笑うその顔には、未練がたっぷりと残っている。
でも、それならなおさら、どうしてあの部屋を見つめていたのだろう。子供の頃に住んでいた部屋だと言っていた。
信也さんは、どうしたいんだろう。
「遅いと⒓時近くまで走っているんですねぇ。知っていました? 」
「うん、まぁね」
にこやかに笑いながら、迷わずにホームを進んでいく。黙って信也さんの腕にいるクロは、ただの猫みたい。
背中が、少し寒くなる。
『死にきれないぐらい、強い心』それは、どんな心なのか、俺には、まだわからない。
ゆったりと、新幹線がホームに滑り込む。夜遅くに新幹線に乗り込む人たちは、皆疲れていて、ため息交じりに車内に吸い込まれていった。窓から見える車内はガラガラで、指定席なんて誰も座っていない。
うん、見えないんだし、指定席だな。お金払ってないけど、いいよね。
ちらっと、クロを見ると、そっぽを向いて目を細めている。これって……。
「東北まで、行きましょう? 」
せっかく、ここまで来たし。信也さんの気が済むようにしてあげたかった。
少しの間考え込んでいた信也さんは、ゆっくりと首を振った。
「やっぱり、先にちゃんと自分を見てから、かな」
吹っ切れたように、爽やかに笑う。
「自分を、見る? 」
「うん。ねぇ、猫神様。お願いできる? 」
「おう」
わかっているのだろうか、クロは『ぶにゃぁん』とないて、宙に浮いた。早くしろ、と言わんばかりに目の前をふらふらと動く尻尾に掴まると、俺の身体は重力を失った。
フワリフワリと、ずいぶん長く飛んでいる。どこへ行くのか決まっていないみたいに、ゆったりと。
夜景がきれいだねぇ、なんて呑気に笑っている信也さん。さっき新幹線に向かっていたときは、迷わずにまっすぐに歩いていたのに、今は迷ってるのか、進みたくない、と言わんばかりにゆったりと飛んでいる。吹っ切れたわけでは、無かったのかな?
自分を見るって、やっぱり、実家だよねぇ。信也さん、ずいぶん前に亡くなったみたいだけど、まだ、同じ場所に家はあるのかな? あ、それで迷っている、とか?
考え込んでいれば、クロが振り返り、馬鹿にしたような顔を見せた。声に、出していなかったはずなんだけど?
ばぁか、というようにクロの口が動く。ううん、正体知った後だとやっぱり可愛くない。
ぶぅたれた俺をみて、信也さんが笑う。
「仲いいねぇ」
……そうですか、ねぇ。
「ここだぁ。俺が住んでいたころから、なにも変わってない。懐かしい、なぁ」
言葉とは違い、その声は単調で、懐かしんでいるようにはとても聞こえない。
電気は、ついている。中からはにぎやかな声も。
「楽しそうだなぁ」
ポツリ、と呟いた声がひどく暗く聞こえてきた。クロを抱くその腕すらも、怖いと感じるのは気のせいだろうか。
「中に、入るのか? 」
クロの声すら、いつもよりも暗い。俺は無意識に親父の上着の前をしっかりと抑えて夜の空気が肌に触れることを防いだ。やばい、怖いかも。
信也さんは、もう口も利かない。黙って玄関を通り抜け、居間に入るとそこには絵にかいたような穏やかな家族がいる。幼い兄弟、台所に立つ母親、子供を膝にのせてテレビを見る父親に、祖父と呼ぶには少し年老いた男性。
一瞬、子供と目が合ったような気がしたが、すぐについているテレビに夢中になった。
ええと、この家族って……。
「あの、信也、さん? 」
「弟、だよ。まさか、ここに住んでいるとは、思わなかったな」
真っ黒なため息をついて、肩を落とす後ろ姿。信也さんが居なくなったこの家で、出ていったはずの弟が暮らしている。仲違いをしていた祖父と、自分の家族をもって。動けなかった信也さんの時間は、どこに行くのだろう。
信也さんの後ろ姿から、黒いものが立ち上る。風が強くなり、窓が揺れ、何か違和感を感じたらしき子供たちが機嫌悪くぐずり始めた。
「あっちにも、いるみたいだけどな」
信也さんの腕から、するりと抜け出し今きた玄関へ向かう。居間とは反対側についている扉を開けると、薄暗い和室。小さな仏壇の前に折り畳み式の小さなテーブルを置き、楽しそうに話しかけている女性。
「かあ、さ、ん? 」
信也さんを包む空気が少しだけ、柔らかくなった。目の前の女性は、居間にいた子供たちの祖母とは思えないほどのお祖母ちゃん。それでも仏壇に話しかけるその顔は明るく、楽しそう。
一人だけ、別に食事をしているのだろうかテーブルに食事とお茶、食後に食べるのだろうか、大福まで乗っている。
「かあさん、何を? 」
家族なのに、お母さんだけ一緒に食事をしないってこと? それって、老人虐待ってやつなんじゃない? さっきの幸せそうな家族に、無性に腹がたったのは俺だけではないようで、一瞬柔らかくなった信也さんの気配まで、殺気よりもずっとどす黒いものに変わった。
「アイツ、何を? 爺ちゃんも、まだ母さんを許していないの? 」
地を這うような低い声に、背中から立ち上る黒い影。やばい、これ、どうなるんだろう。
助けを求めてクロを見るが、クロは涼しい顔でテーブルに前足をかけている。
「よく見てみろ、これ、お前だ」
クロが前足で指した仏壇には、信也さんの写真。遺影となったスーツ姿の写真の横には、小学校から社会人になるまでにとられた写真が、隙間なく並んでいる。
お母さんは、仏壇の前で信也さんの写真に話しかけながら食事をしていたのだ。
「お前が死んでから、毎日だ。お前とは、ほとんど一緒に食事をとる事ができなかった、と後悔してな。一緒に居たかったのは、なにもお前だけじゃないってことだ」
さすが、猫神様。
ちゃんと調べてきているんだなぁ。
信也さんの背中にあった黒い影のようなものは、一瞬で見えなくなった。
「会いたいのも、一緒だ」
「……そう。でも、もう会えないよね」
至極残念そうにうつむいた信也さんに、クロが赤い口をニッカリと開けて笑う。
「誰にモノ言ってるんだ? 俺は、猫神だ。そこの見習いと一緒にするなよ? 」
悪かったなぁ、見習いで。
ちょっとムッとしたけど、確かに俺は役立たずでした。それは、認めます。
見ていろよ? と笑ったクロの身体が歪み、部屋の中には灰色の霧でいっぱいになった。なに、これ? 怖いんですけど!
慌てふためく俺とは違い、さっきまでと何も変わらずに笑顔で仏壇に話しかけるお母さん。いや、急に霧が出てきたんだから、火事とかなんか思って少し慌てたら?
「普通の人間には、見えねぇよ」
そうなんだ、まぁ、見えない方がいいよね。俺も、できれば見たくないし。
「お前は、見届けろ」
はい。わかってますって。
「かあ、さん? 聞こえる? 」
急に聞こえた息子の声。今度こそ驚くかと思えば、お母さんは一瞬だけ驚いて、意外にあっさりと受け入れた。
「信也? 信也? やっぱり、まだいたのね」
「……うん。なかなか、上には行けなくてさ」
「そう……。一緒に、行こうか? 今度こそ、ずっと一緒に」
柔らかい声で、とんでもないことを言い出した。ちょっと、そんな簡単に。小学生を学校まで送って行くんじゃないんだから。
「母さんね、毎日信也と一緒に食事していたのよ。信也、私が出て行ってから、私の絵をテーブルに置いて食事してたって聞いたから、真似してみたの。でも、返事もないしやっぱり寂しくて。もし、今でもお母さんと一緒に居たいって思ってくれているんだったら、一緒に」
「いらない。来なくていい。俺、恨んでいたから、憎んでいたから。だから、一緒になんて、来なくていい。食事も、俺の写真なんかとじゃなく、あっちでみんなと食べて。俺は、神様が迎えに来てくれたんだ。だから、母さんなんていなくても、ちゃんと上に行ける」
きっぱりとした拒絶に、目の前のお祖母ちゃんは、声を殺して、顔を覆う。愛情は、ちゃんとあったんだろう。家族が多いと、かけ違いも増えるのかもしれないなぁ。
かけ違いを直す時間が、信也さんには足りなかった。
「さよなら」
一言だけの、別れの言葉。何年も見つめ続けた部屋は、もう懐かしむこともないのだろう。
始発を待って、新幹線に足を踏み入れた。
向かい合って座った俺たちは、話すこともなく、車窓をみていた。飛ぶように流れる街明かりがきれいで、静かな車内が少し怖い。姿の見えない俺達に、売り子のお姉さんが足を止めるわけもなく、駅弁やらジュースやらを乗せたワゴンはさっさと行ってしまった。あ、駅弁食べたいって、言ってなかったっけ?
信也さんは駄目でも、俺はこの上着を脱げばお姉さんから見えるはず。
「食べます? 少しお金持っているから、買ってきましょうか? 」
『食えねぇよ』呆れたようなクロの声が頭に響く。そうか、そうだよな。こうして話したりしているし、歩いているから忘れていたけど、実体はすでにない人なんだ。
東北の駅に着いても、まだ出勤時間よりも早いらしく、駅の中はすいていた。
「歩いて、十分くらいかなぁ。結構近かったんだよ」
笑いながら前を歩く信也さんは、もうクロを抱いていない。
「ここ? 」
目の前にあるのは、なんというか、昔の家。壁、土なんだろうな。屋根もトタンみたいだし。
まだあるんだなぁ、こういう家。感心してみていれば、家の中からおじいちゃんがザルをもって出てきて、庭のトマトをもぎ始めた。ああ、なんかいいなぁ。
二人暮らしの俺には、信也さんが身を引いちゃった気持ちが少しわかる。当たり前にこういう暮らしを知っている人とは、自分は何かが違う気がする。何が違うのか、わからないんだけどさ。
「おじゃましまぁす」
元気に部屋の中にはいっていく信也さん。なんか、性格変わっていません?
慌ててついていけば、テレビの側に飾られた写真をみつめて笑っていた。
「これ、彼女。お母さんになったんだねぇ」
映っていたのは、日に焼けた健康そうな男の子に、母親らしき女性。幸せそうに笑ってる。
「よかった」
その顔は、心底安心しきった顔だった。
「もう、気がすんだか? 」
クロが、ぽつりとつぶやけば、信也さんは黙って頷いた。
「付き合ってくれて、ありがとう」
その姿は、少し透けているように見える。
「じゃ、行くか」
フワリと宙に浮いたクロの尻尾につかまると、灰色の空間をとび、親父の家へ。そこには、クロの相棒であるランさんが待っていた。
「じゃぁ、いきましょうか」
「よろしくお願いします」
頭を下げた信也さんは、そのままふフワリと飛び上がった。ああ、最後だなぁ。
「ありがとう。君が一生懸命に考えてくれたこと、すごく嬉しかった」
目の前から消えるとき、そういって笑った信也さんの顔を、俺はきっと忘れない。