10
ごろごろごろごろ……。
足元にすり寄りながら、全力? で喉を鳴らし続けるクロ。それを気にすることもなく、窓の明かりを見つめ続ける男。
ああ、なんか、胸が痛くなってきた。
「あ、の……」
勇気を振り絞って声をかけてみる。ちらり、とこっちを向いたのは、クロの黄色い目。男は、見向きもしない。まるで、世界はあの窓にしかないと思っているみたい。
「あの部屋、誰がいるんですか?」
さっきよりも少し大きな声で話しかけるけど、やっぱりこっちを見ることはない。見つめ続けているのに、ぼんやりとした表情。『聞くのが仕事』って言われても、話しかけて答えてももらえないのに、どうやって聞くんだよ。
恨みがましくクロを見ると、静かな黄色い瞳がこっちを見ている。急かすように、穏やかに待つように。
なんとかしろって、ことだよな、これ。
「……あの、俺の声、聞こえませんか? 」
取りあえず、なるべく大きな声を出してみる。が、効果はない。これ、どうしろと?
ええい、クロ、何かあったら責任とれよな。思い切って、男の肩をつかんでゆすってみた。
「あの!あのマンションに、何の用事ですか? 」
「え? 」
男の目に意志が戻った。今まで一点だけを見つめていた瞳が、俺を映す。
「俺の事、見えるの? どうして?」
嬉しそうに笑うその顔は、さっきよりもずっと幼く見えた。
「ねぇ、どうして俺の事見えるの? どうして俺、この猫抱けるの? 」
さっきまでとは一変、クロを抱き上げて、大きく開かれた瞳でよく喋る。なんだ、意外にこのヒト、明るい人かも。
「ええと、なんて言うか……」
猫神、なんて信じてくれるかな?死神、のメイは居ないし、俺は猫じゃないし……。
「アンタが何しているのか、気になってな」
突然口を開いたクロに、驚くこともなく頭を撫でている。
「そうかぁ、君は死神の助手、だね? 」
え? なんで?
「猫神を、知っているんですか? 」
「猫神っていうんだ? 会うのは初めてだけど、ここに立ってから死神の助手がいるって、噂を聞いたことがある。君も、猫なの? 」
いや、猫、なのかな? 人間だと思って育ったんですけど……。
「ハーフ、です」
猫神と気づかずに付き合って、子供まで産んだ母、種族が違うと知りながら、子供を作り、一度も顔を見せることもなかった父、結果、人間だと思いながら育ったハーフの俺。
ううん、自分で言っててなんだけど、間抜けな話だ。
「そうなんだぁ、面白いね」
ケラケラと笑っている。なんか、明るいんですけど……。
さっきまでの思いつめた虚ろな瞳をした人、どこかに隠れちゃったんじゃないかと思うぐらい元気だ。なぜ?
『生きてるヤツと一緒だ、と言っただろう?』突然、頭の中にクロの声が響く。うん、まぁ、話し相手がいれば、笑えるってことなのか?
「あの、俺、優人って言います。貴方の、名前は? 」
「俺は、信也。」
よろしくね、と笑う。何か、心残りがあるにしては、ずいぶん明るい。
「で、猫神って、何するの? 」
いや、俺も知りたい。
首をかしげてクロを見るが、涼しい顔をして、お腹を出して寝転んでいる。それが、仕事ですかね?
「魂を、癒すのが仕事ってとこかな? 」
笑いながらクロのお腹を撫でる信也さん。いや、違うと思います。こいつ、正体は胡散臭いおっさんなんです。
「ええと、それより信也さん、あのマンションに誰かいるんですか? 」
未練の残りそうな人って、彼女とかかな。まだ、ここに住んでいるのだろうか?
「ううん、誰も、居ないだろうなぁ。いや、居るんだけど、俺は知らない人」
寂しそうに、つぶやいて、また窓を見つめる。
知らない人なのに、なんで?
「このマンションね、小さいときに住んでいたんだ。母さんと、俺と、弟と。」
三人で? 一人暮らし用っぽいマンションかと思っていたけど、違うのか?
俺の考えていたことがわかるのか、信也さんはクスクスと笑いだした。
「狭いよ、ワンルーム。でも、当時の母さんには精一杯だったと思う。ここは、俺が小学校に入るまで暮らしていて、そのあと、三人で爺ちゃんの家に移ったんだけど、母さんと爺ちゃんの仲が悪くて、いつも怒鳴り声がしていた。『出ていけ』って怒鳴り声、今でも耳に残っている」
昨日の笹原さんもだけど、爺ちゃんって、優しい人ばっかりじゃないんだなぁ。
「そんなふうに言われ続けているうちに、少しずつ母さんの帰りが遅くなって、帰ってこない日が増えて、いつの間にか、俺と弟を残していなくなった」
「……」
「それでも、仕方ないと思うんだ。俺はね。でも、弟は違ったみたいで、毎日泣いて爺ちゃんを責めて、大きくなるごとにだんだん荒れていって、母さんと同じように帰らなくなった」
「……」
言葉が、出ない。話を聞くのが俺の仕事だって、クロは言っていたけど、本当に聞くことしかできない。悔しいけど、うまい言葉なんて、全く見つからない。
「何年もたってさ、母さんが帰ってきた。弟と一緒に。ずっと一緒に住んでいたって。帰ってきたことは、嬉しかったんだ。でも、寂しかった。弟だけが、一緒にいた事が、悲しかった」
「でも、家に帰って、来たんですよね? 」
「うん。しばらくは一緒に暮らしたよ。俺、これでも兄ちゃんだから、寂しかったなんて言えなかったし。でもねぇ、毎日、やりきれなかった。母さんが帰ってこなくなったころ、夕方になると泣き出す弟と一緒に、テレビ見ながら待っていた。もう、帰ってこないんだ、と思ったとき、手の平から血が出るくらい拳を握った。しっかりしなきゃ、ちゃんとしなくちゃって思ったから、一人でも真直ぐに生きた。なのに、泣き叫んで、怒って、暴れて、逃げた弟は、愛された、一緒にいたんだって、ね。もう、いい大人なのに、情けないよね」
笑う姿が痛々しい。情けなくなんて、ない。
「いい大人って。寂しかったのは子供のころですよね。子供のころ寂しかったのは、大人になったからって、消えない。やりきれない気持ちは、残って当然です」
そう、俺だって、わかる。もうそんなことはないけれど、やっぱり小さいころ、暗くなっていく部屋で一人待っていた記憶は、悲しく、寂しい。記憶の中の俺は、一人ぼっちのまま。
「仕事帰りに、帰りたくないな、なんて思いながらぼんやり歩いていたら、事故にあった。そのとき、ここに住んでいたときは幸せだったな、って思い出して、気がついたらここに立っていた。もう何年も、動けないんだ」
そう、か。自分でも、なんでここにいるのか、わかっていないんだな。さて、どうしたらいいんだろう……。