友愛会の真実
「彼女を騙せるかどうかなら、もう試したさ」
戦慄が走った。謀られた。まるで、‘今まで’が全てその一言で裏切られたような暗幕の中に、ラルスはすっぽりと覆われた。暗闇の中で彼は、話していた男。蹄鉄と十字架が重ね合わされた紋章、友愛会の証を背中にでかでかと描いたフードの男に向かって、鉄の爪を突き刺そうとしていた。
爪の刃先は、男の顔面に届くか届かないかというところで止まった。
手首を抑え込まれていた。普段ならこんな馬鹿はしない。衝動的に攻撃しようとしたのが馬鹿だった。
「抵抗しない方がいい。お前も彼女と同じさ。奴隷でありながら、‘抜け道’を使って優遇されてきたもの同士。彼女は地理的要因。お前は政治的要因を利用したに過ぎない」
「……なんのこと……だ……?」
抑え込まれた右手は、ぐいっと下方にねじ伏せられ、それとともにフードの男の口元がラルスに耳打ちを仕掛けてきた。
「奴隷に戻りたくなければ従え。‘審判のとき’はもう遅らせれない」
審判のとき。ラルスがこの男とここで会っていたのは、交渉をするため。
『もう少し時間が欲しい』
つまり、審判のときを遅らせるための交渉だ。ラルスは審判のときのための重要人物だった。その立ち位置を任されたのは、まだ彼が少年のころ。
少年ラルスの頭に、皺のよった初老の男の無骨な手が置かれる。ラルスの瞳は、幼い顔立ちに不釣り合いなほど暗く淀んでいた。古くなった血が固まって色が変わってしまったような赤黒い淀みが眼孔にはめられている。
無理もない。少年の目の前も黒く淀んでいたのだから。
少年の瞳は、それを曇りのない鏡のように、綺麗に反射したに過ぎない。
ガロットに力を失った男が腰かけている。首をきつく縄と金具で締め付けられ、拘束部位にとどまらず顔全体が青紫色に染まってしまっている。もう、その人が目を覚ますことはない。ラルスの父。ジョージ・コローネは目の前で殺された。拷問研究会の拷問官によって。
初老の男は、ラルスをここに連れてきたが、目の前で殺される彼の父親を助けようとはしなかった。それはできないのだと、口を歪めて初老の男は言う。拷問研究会は、この国そのものだから。国に刃を向けるには、もっと友愛会は強くならなければいけない。今歯向かっても皆殺しにされるだけだ。
だから、お前の父を殺した国に対する憎しみを忘れるな。それがお前が父親にできる唯一の親孝行だと。ラルスはその言葉を信じ、生きてきた。
全ては、審判のとき、王子をこの手で殺すために。
『絶対に……ぜっ、絶対に王侯貴族の皆を殺すんだ。ひとり……、ひとりひとり……。首を縛り上げて殺すんだ……。父さんがそうされたように……』
自分を苦しめ、自分から父を奪った王侯貴族への報復のために、鉄の爪を研いできた。人身売買にかかわる地主とつながり、友愛会の強大化に尽力してきた。
だが、その王子は。
『……、さあね。王子は何も知らないだけでしょう』
何も知らない。
『あまり、人の立場を使って偉そうにするのもやめてくれないか? 人を優しく扱うか、冷淡に扱うかくらい、僕に決めさせてくれ』
何も知らないのに、正義感だけあって、身分や格式を嫌う。そして何よりも、街で出会った少女に、淡い憧れを抱いて文通などするような。
普通の少年だ。
(どう殺せばいい? どう憎めばいい?)
ラルスは自問自答の末、鉄の爪を一度、しまうことにした。審判のときを遅らせたいという手紙を友愛会に書いた。そして、この日の面会。
その交渉は受け入れてもらえなかった。
フードの男は、奴隷に戻りたくなければ従えと、それだけの言葉を残して去っていった。おまけに男は、すでに何らかの策を行使して、王子の文通相手をハメたという。男はラルスの情報網だけを利用し、ラルス本人の意思を無視したのだ。
「奴隷は奴隷だ。この国ではそうなんだ。恨みたいなら、コローネ家を恨んでもいいんだぜ」
(俺をコケにしやがって!)
ラルスは憤った。飛び上がり、鉄の爪を突き立てる。だがまたも届かない。代わりに相手の刃が、手首を切り裂いていた。右手首。鉄の爪がついたグローブの付け根に一本のダガーナイフ。
鮮血が滴り落ちる。ぼたり。ぼたり……。
膝を折り、うずくまる。激痛にさいなまれている間に、フードの男は視界から消えていた。自分は友愛会に貢献していながら王子を殺すための道具程度としてしか扱われていなかったのか。自分に疑問を投げかけるラルスの視界に懐から懐中時計が転がり落ちた。
‘審判のとき’を知らせるための時計だ。
「大丈夫か」
背後からの声にラルスは、肩をぴくりと跳ねあがらせる。王家専属の護衛として王城に潜入しながら、王家の執事に背後を取られるとは、何とも間抜けな話だ。
「……、全部聞いていたか」
細い視界の中で、セバスがこくりと頷く。ラルスは自らの鈍感さに失意にまみれた薄笑いを漏らした。
「ここで俺を殺して、王子を守るってのはどうだい? 得物ならここにあるぜ」
自分の右手首に突き刺さったダガーを引き抜く。突き刺さっていた刃自身が血止めになっていたのが、それがなくなったことによって再び血がほとばしる。動脈を貫いて深く刺さっていたらしく、川のようにだらだらと血が流れ落ちる。
「おい……、受け取れよ……。お前は王子を守るのが……仕事だろっ。ここで俺を殺せ……ば、お前は……英雄だ……」
自暴自棄に笑いながら、ダガーナイフの血にまみれた刃を左手のグローブで握りしめ、柄をセバスに向けて差し出す。
(俺の爪は折れてしまった。だから、俺を殺してくれ)
だが彼の甘えた願いは、聞き入れられることはなかった。セバスは懐からハンカチを取り出し、ラルスの右手首に止血帯を施したのだ。
「なんの……つもり……だ……? 俺は、王子を殺そうとした男だぞっ!」
「……、あなたがその程度の扱いならば、あなたがいなくとも王子は殺されるでしょう。だから、あなたを殺した方が、‘あなたという情報源を失う’という点で大きく不利になる」
「そう判断したまでだ」
「……、ふっ、お前は賢いな……」
「ただし、取引です。これ以上の治療を希望するのなら、教えてください。‘審判のとき’が何なのか」
その日、ラルスを始め友愛会の人員は、煉瓦造りの地下空間に兵馬俑よろしく詰め込まれていた。兵馬俑の前に一人の男が、うず高く積み上げられた人骨の壁の前に現れる。
友愛会の潜伏先はこの何とも不気味な骸骨が無作法に積み上げられた集合墓地。カタコンベだった。骸骨はどれも、拷問研究会によって惨たらしい拷問の末、息絶えた奴隷の亡骸。ここは、幹部を覗いては奴隷という立場を詐称して王城に根を張る者が多い友愛会にとって、もっとも憎しみという名の士気を高ぶらせる場所だったのだ。
「友愛会の始祖たるレクトール議長に敬礼っ!」
猛々しい声がフードの男から上がり、それに続いて犇めく男どもが唸りを上げて咆哮する。そして一斉に静まる。彼らの団結の根底には、ラルスと同じく家族を惨殺された深い憎しみがあった。
王侯貴族を惨殺し、この国をひっくり返す。王侯貴族に報復を。
それが‘審判のとき’に実行される大量虐殺計画。凶器は、城内に仕掛けられた六百個もの爆弾。時計に見立てた時限爆弾を始め、ゼンマイを仕込んだ小型の時限爆弾。すべてが審判のときに一斉に爆発し、城を阿鼻叫喚のごとき業火に包むのだという。
審判のときは、既に目前に迫っていた。明日の夕方、午後七時十三分。
忌み数の入った不吉な時刻に、王城は破壊される。それまでに既に王城には友愛会のものによる奇襲が仕掛けられ、それに向けてまずは厳戒態勢を意図的に整えさせ、王城に王侯貴族が閉じ込められる状況を作り出す。友愛会は既に政界に根を張っているため、厳戒態勢による軟禁状態を逆に利用できるのだ。特に現王アルドルフと、エドワード王子の分断は重要視された。それを任されていたのが、王家専属の護衛という立場で迎え入れられた、ラルスその人だったという。
そして、明日の七時。その時間は同時にレクトール議長と現王アルドルフの食事会があるのだという。
「……奇妙な食事会だな。それは……」
前代未聞だと、セバスは怪訝な顔をした。彼は現王アルドルフとレクトール議長が政敵のごとくいがみ合っているのを知っているからだ。とここで、セバスはある矛盾に気が付く。
「待ってください。友愛会の始祖はレクトール議長と」
「ああ、レクトール議長は、奴隷の構成員の立場を詐称して王城に侵入させる工面をやっていた。友愛会では奴隷という立場はないと。それも結局、あの体たらくだがな……」
「私はレクトール議長こそ、悪政の根源だと思っている」
セバスのその言葉にラルスは目を丸くした。彼の細い目が珍しく見開かれた瞬間だった。
それほどまでに、王族を憎むという生きる術を与えてくれた人物が、最大の敵だというセバスの発言は衝撃だった。
ラルスはセバスの肩を激しく揺さぶる。動揺するのも無理はない。だが、セバスも彼を動揺させるために出まかせを言ったわけではない。レクトール議長が取り仕切る議会に、アルドルフ国王は何度も奴隷制の撤廃法案を持ち込んでいた。しかし、全て議会で取り消され、突き返される。国王の勅令は、議会により剥奪されている。つまり、国王は法を作る力はあっても、それを行使する力は持っていないのだ。
「それって、どういうことだよっ! どういうことだよっ! 先代の王が作ったんだろっ!先代の王が、俺を奴隷にした! 俺の親父も奴隷にした! コローネ家を奴隷にして、俺の親父を殺したんだっ! それは変わらないだろうがっ! 国が、この国が俺をこんなに苦しめたっ! じゃあ、この国が悪いんじゃないのかよっ! 何なんだよ! 何なんだよっ!」
「落ち着けっ! 現王アルドルフは、奴隷制の撤廃を望んでいるっ! ならば、それを突き返すレクトール議長が悪政を囲っていると考えるのが妥当だ」
「……、じゃあ俺は、俺はっ!自分が最も憎むべき相手に拾われて、そいつが背後で薄ら笑うのを何も気づかないで、王子を殺そうとしていたとでも? 俺がただの王子を殺すための手ごまか? 王子が国王が、奴隷制を囲うのに邪魔だからか? 何だよ……。いったい何のための革命なんだよっ! ふざけるな! 冗談じゃない! ふざけるな! ふざけるな! ふざけるなぁあああっ!」
立ち上がり、セバスにまくしたてる勢いで迫りながら、頭を激しくかきむしる。額を抑えて声を荒げる。ここまで彼が感情をむき出しにすることが、今まであっただろうか。激しく動揺する彼の懐から、拾いなおした懐中時計が落ちた。
地面に叩きつけられ、割れた。
まっぷたつに割れて、中の歯車やネジがあたりに散らばり、その内部が露わになった。
「お、おい……」
ラルスは震え上がった。そこに普通の時計にはないはずの部品があった。震える手で、歯車の隙間からそれを引きずり出す。
火打石と油を染み込ませた紐の先に火薬の入った袋。
何度瞬きをしても、それは時刻を確認するための時計の中に‘あってはならない’ものだったのだ。
「……、冗……談……だ……ろ……?」