本当の敵
ラルスには待ち合わせ場所をここにするといいと言われた。
通りに面した一軒の喫茶店。通りを挟んで向かい側にまで木製のテーブルと椅子が並べられており、注文をした客はもちろん、散歩途中に休憩を取っている老人や、煙草をふかしているだけのものもちらほらと。ラルスは、レメトが付き添いの女性とともにこの喫茶店を利用しているところに会ったのだという。
「どうせ今回も付き添いの女が、案内に回るだろう。慣れない町を、独りでうろつくのは心もとないだろうからな。その女はこの店をよく知っているようだったから」
案内役がよく知る店ならば、まず迷うことはないだろうというラルスの算段だ。
噴水広場という手もあったが、人通りも多く、同じく待ち合わせ客も多い。それならば、椅子でもあったほうが、万が一待ちぼうけを喰らっても脚が辛くないだろう。そう言って、ラルスは相変わらずへらへらと笑う。
「残念だね。‘ふたりきり’になれなくて」
そんな冗談を表情ひとつ変えずに言うだなんて。ラルスの態度は、フランクという言葉を以ってしても度が過ぎている。第一、王子の側も護衛のラルスに、彼を信用できないというセバスが、‘警護の警護’としてついている。
ラルスは目の前で「王子を殺してやろうか」などと宣った人物。
彼が所属している友愛会という団体は、現政権を転覆させようと目論む過激派団体。空気を読んで、王子への警戒態勢を解くなどというのは無理な話なのだ。セバスは、ラルスに鷹のような鋭い目つきを光らせる。
彼の細い目は、その視線を捉えているのだろうか。見れば見るほど、小馬鹿にしているようにも取れて腹が立ってくる。
「なんだ、セバス。今日は気が立ってるな」
「別段そうでもないですよっ」
明らかに、そうでもないことはないという口ぶりだ。
気を紛らわすかのようにセバスは、腕時計に目を落とす。十一時に間もなくなろうかというところ。約束の時間だ。彼女は、レメトはいつ現れるのだろうか。時間を知らせると、王子はいよいよ腰かけていた椅子から意味もなく立ち上がる。
「まだ、待ち合わせの御人がいないのに立つのか」
王子らしく、どっかと腰を据えて迎えてやればどうだ。またラルスの冗談がセバスの癇に障る。
「こういうの、僕は慣れていないんだ」
言い返してやろうかという気持ちもある。だが別段、王子本人がラルスに対して敵意を抱いているようにも見えない。となれば、こちらが敵意をむやみにさらけ出すのもあまりよろしくない。
それに、あの夜ラルスはやけにすがすがしい顔をしていた。表情の読みにくい顔だ。気のせいだと言われれば、気のせいだとも思ってしまう。悶々とした堂々巡りの中、時計の針は約束の時間を過ぎた。
一瞬、ラルスの瞳が明後日の方向を向いたかのように見えた。――いや、間違いない。
その直後、ラルスは用事を思い出したと呟いて、その場から姿を消したからだ。そのあからさまな行動をセバスは、わざと見送った。尾行が悟られないように間隔を置いたのだ。こちらも王子に断りを入れて、ラルスが行方をくらました方向へと向かう。
警戒するべきはラルスだ。その潜在意識がセバスの行動を支配していた。
喫茶店の厨房およびカウンターがある側の通り、左手の方向に歩き、三軒ほどレンガ造りの建物を通り過ぎたところの路地裏。そこに彼はいた。
「手紙は渡したのか」
「ああ、しっかりとな」
誰かと話している。やはり友愛会からの差し金として情報を組織に流していたか。
レメトとやり取りをしていた手紙は、友愛会に所属している人物を経由して渡っていたのだろう。他の導線を伝っていれば、どこかで破棄されてもおかしくない。王子が一般市民ならまだしも、奴隷階級の者と交流を持とうとするなどご法度だからだ。
「で、どうだい?彼女は使えそうか?」
相手の男が邪な笑みを含んだ声で言った。ラルス以上に警戒心を抱かせられる。ラルスは、何を考えているか読みにくいということと、友愛会というきな臭い身の上のせいだ。ところが、相手の男は友愛会の繋がりである上に、さらに声から悪意というのが漏れてきている。
「さあな。世間ずれはしていなさそうだった。騙そうと思えば、すぐに騙せるだろう。でも……、もう少し時間が欲しい」
「時間とは……?」
聞き返す相手の男に、僅かに苛立ちが見えた。
ラルスが欲しいと言った時間は必要ない。すぐにでも王子を殺してほしいという威嚇なのか。
「馬鹿だと思われるだろうが、王族が害のあるものかどうか、しっかりと自覚したい」
セバスはそこで耳を疑った。ラルスの口からそんな言葉が漏れるとは思っていなかった。その言葉を受けて、相手の男はけたけたと不穏な笑みを漏らす。耳にした瞬間に、自分がそいつの手のひらに乗せられているような。気付かずに蟻地獄に足を踏み入れ、飲み込まれ行く得物を嘲り笑うような声だ。自分の行動に落ち度はないか。
湧き上がってきた問いかけに、セバスはハッとなった。
「彼女を騙せるかどうかなら、もう試したさ」
戦慄が走った。謀られた。ラルスではない。最も警戒するべき人物は、もっと別のところに。
「王子、抜け出し中、野暮を承知ですが……」
年老いた男は、王子の背後にいた。厭らしく、粘りのあるへしゃがれた笑みを浮かべて。
エドワードは、背中に悪寒を感じながら唾をごくりと飲み込み、ゆっくりと振り返る。年老いた男、レクトール議長が邪な笑みを浮かべている。彼は王国騎士団の衛兵を数人ほど引き連れていた。
「嘆かわしいことが起きた。王子に毒を盛ろうとする不届きな娘が現れてね」
王子の両脇を衛兵のふたりが取り押さえる。センニンソウ。白く細い花弁から、髭のような雄しべが垂れ下がり、茎や葉も細くひょろひょろとしていて何とも華奢な植物だ。しかし、毒がある。茎から垂れる汁が皮膚に触れれば、水疱が生じる。内服すれば、激しい嘔吐に襲われる。これを王子に盛ろうという娘が噴水広場にて、衛兵に捕まったのだという。
「この事態を受けて、誠に申し訳ありませんが、‘厳戒態勢’を取らせていただきます」
厳戒態勢。王子の命を狙って毒を盛ろうとした娘が街に現れたことから、国の政権の象徴である王族を徹底的に保護する。つまりは、王族を護衛という名目で監禁するのだ。王族の命を守ることよりも、監禁自体が目的であることは、レクトールの引きつった口角に現れている。
「ま、待ってくれっ!」
衛兵の後ろには馬車も控えていた。王子の脇を取り押さえた衛兵はくるりと踵を返して、抵抗する王子をずるずると引きずって無理くりに馬車へと担ぎ込む。尚も王子は、必死に抵抗する。この場で待ち合わせている人物がいるからだ。
「レメトっ、レメトとここで待ち合わせをしているんだっ」
聞こえた。短い笑い声が、年老いた男から微かに聞こえた。
「ならば、尚更大人しく自室に籠っていてください」
誰を笑ったのだろうか。何を笑ったのだろうか。
「王子に毒を盛ろうとしたのは、レメト・ラファエリトその人ですよ」
理解はできなかったが、理解しようとする心は絶望によってかき消されてしまった。王子は抵抗する力を亡くした。
逢いたがっていた人物は、文通をしていた人物は、自分を殺そうとしていた。
疑うとか信じるだとか、それ以前に内容自体のショックが大きすぎたのだ。塩をかけた菜のように項垂れた後ろ姿に小声でレクトールは呟いた。
「これで分断は成功だ」
*****
目の前には鉄格子が見える。どうしてこんなことになったのだろう。水も光も失ったパピルスに包まれた華奢な花と同じく、あたしも頭を垂れていた。湿ってざらざらとした粗削りの石壁には、うっすらと苔が生している。
中はかびの臭い、血の臭い、腐った卵の臭い、死肉の臭い。さまざまな悪臭が塊となって、鼻を刺す。が、その空気を吸うより他に酸素を得る手段がない。鼻孔の前に掌をあてがって臭いを紛らわす。こんな空気なら自分の手の匂いの方が数段マシだ。そう思っていたのも、無駄な抵抗に思えて、悪臭を受け入れた。パピルスに包まれた華奢な花がしおれていく。あたしの中の萎えてしまった意志のようだ。
「レメト、気をしっかりと持て」
励ますベラの声が、すぐ隣にいるのに遠く聞こえる。
あたしが馬車の中で歌っていた鼻歌は、もう今では御伽の歌だ。王子との身分の隔たりを越えた恋など、所詮は紙の上で踊る文字たちが見せた幻。
失意に耽ることすら許されず。鉄格子の向こう側に面会人が現れる。もっともここに閉じ込められたあたしたちを、‘いたわる’のではなく、‘いたぶり’に来た人だ。そいつは、どこかで見たことがあるような人だった。髭面で相も変わらず、あたしたちを一瞥で軽蔑した。
「よう。すっかりいい女になったなあ。哀れなものよ。あのまま娼婦になっていたら――、こんなとこには入れられずにいたのに」
髭面の男は、あのときよりも立派な葉巻を口に加え、ぷかりぷかりと紫煙をくゆらせる。あたしを売りとばした人だ。その耳には、十字架に向かって槍を左右から突き刺したような格好の飾り。王子が乗っていた馬車の御者と同じものだ。男は、鉄格子の前に椅子を置き、どっかと腰を下ろした。
「マインゴールド鉱山……、そこに売られたんだってな。随分と可愛がられていたそうじゃないか。正直、あんな辺ぴなところまで奴隷の監視を回せないからなあ」
「そこの女のように甘やかす存在がいるから、生意気な奴隷が生まれるんだ」
人差し指と中指の間に葉巻を挟んで、ベラを顎で指す。
「あんた……、レメトを売りさばいた地主かい?」
「ああ、そうさ。この国は地主が管轄とする土地から奴隷の収益を集め、拷問研究会という組織に寄付する。拷問研究会は、その予算を使って文字通り拷問の研究をするのさ。検体は使えなくなった奴隷たち」
けたけたと笑う、その汚らしい口からヤニくさい息が漏れてくる。その悪臭に乗せれられて、唐突に残酷な真実が運ばれてきた。
「……その中にはレメト。お前の両親も入っていた」
「え……、な……に……?」
思わず、聞き返してしまった。
失意の中で曖昧になっていた、自分の感覚が蘇っていく。これから男の口から這いずり出てくるのは、自分を生んでくれた親の断末魔だというのに。
「お前の親に科せられた拷問は、それはそれは惨たらしいものだった。少々時間がかかるのが玉にキズだがな」
下準備はこうだ。奴隷たちに頼んで大きな水瓶を焼いてもらう。大きな大きな水瓶。人の背丈よりもずっと大きく、中に数人が押し込める。内側にはべったりと油を塗り、中から這い上がれないようにする。そして、中に濃い塩水をちょうど人の胸の高さくらいまで張る。
裸にされ、手足をくくられて猿ぐつわをかまされ、脚に重りをつけられた状態で、ふたりはその水瓶の中に、紐でつるされた。ちょうど身体の半分までを塩水につけた状態で。
あとは空気だけが通るように隙間を開けて蓋をする。そのままふたりは放置された。何時間とかではない。何日、何週間、何ヶ月。その水瓶の中で、どれだけ自分の母親が、父親が、飢えに苦しんだか。
光に飢えていたか。
皮膚はふやけ、やがて裂けて塩水が沁みこんでいく。やがて自らの排泄物にまみれ、すえた臭いの中でもがき苦しむ。舌を噛み切ることもできない。塩水に顔をつけて、溺れ死ぬことすら許されない。
喘いで、死んで腐って、骨になるまで放っておかれたのだ。
「……母さん……、父さん……」
お母さんは何をしたというのだろう。お父さんは何をしたというのだろう。どんな悪いことをしただろう。どんな罪を犯したのだろう。
「おかしい……。おかしいよっ」
「何がだ……?」
男は笑う。あたしが奥歯をぎりぎりと音を立てるほどに噛みしめて、爪が割れて血が滲み出るまで石の床を握りしめる。
それほど憤っているのに。この男は、にんまりと嘲り笑っている。
「なにもお父さんは、お母さんはっ、悪いことなんかしてないのにっ!」
「それが奴隷というものさ。お前は知らずにいただけさ。奴隷に相応しい‘対偶’というものを……。まあ、これからじっくりと教えられることになると思うが」
「相応しい対偶……?」
「あんた、何をする気だい?」
何かを企んでいる。男の表情からそれを読み取ったベラが、問い詰める。奴隷に相応しい対偶を教えてやる。そして、鉄格子に閉じ込められた自分とベラ。つまりは人質。
まさか、まさか……。
「マインゴールド鉱山の奴隷に、おもてなしだよ。お前らを人質に取れば、誰も抵抗はすまい」
あたしは悟った。灰かぶり姫など、どこにもいないのだと。