コンタクト
馬車に揺られるのは、本当に九年ぶりだ。そのときは、身体と身体が密着する様な詰め込まれ具合だったが、今はかなりゆったりとしている。
成長して、身体が重たくなったというのもあるが、ベラに渡された服のおかげで身分がバレていないというのもあるだろう。馬車は乗り合いで、あたし以外は坑夫の面倒を見る使用人ばかり。見知った顔で、話したことがある人が殆ど。皆、帰りの馬車には、大荷物を引きずって乗り込むことになるだろう。
切り開かれて崩れた鉱山から少しずつ生命の息吹が宿り始める。蟻が息切れをして這うような乾いてざらざらした砂地から、滴る露に舌鼓を打つようなしっとりとした森の中へ。
「レメト、目の色が変わってるな」
ベラに言われてハッとなり、顔を赤らめる。
「無理もないか。初めての街だものな」
微笑みかけるベラの表情が、瞬きをした瞬間人が変わってしまったように表情を曇らせる。普段は見せたことがない顔つきに私は硬直してしまった。
「……、この馬車まではすべて顔見知り。馬の手綱を握っている御者も、鉱山で奴隷が肉体労働と引き換えに、扱いを優遇されているのを黙ってくれているほどの御人よし。でも……街は、残念ながらそこまで寛容じゃない」
「怖い想いをするかも知れない。でもレメト。私はあなたに、鉱山で何も知らずに穴を掘るだけの暮らしをするだけで死んでほしくない」
「……、でも奴隷は奴隷……」
「可能性があるって言ってるの。あなたは何も知らない。何もわかっていない。でもそれが誰にも邪魔されない、あなたの唯一にして最大の強さなの」
立ち上がり、あたしの顎をくいと引き上げて瞳を上から覗き込むようにして落ち着いた口調で諭すベラ。確かに小さい頃は、叱られることもあった。でもそのどのときとも、ベラの目つきは違っていた。
「走行中の馬車では、お立ちにならないでください」
ぐらりと揺れた馬車内で体勢を崩すベラに、御者の冷ややかな声が。
よろけた肩をあたしが咄嗟に支えたため、転倒は免れた。
「――せっかく決まったところなのにな」
「大丈夫です。かっこ良かったですよ」
「そういう励ましはいらないっての」
馬車は思ったよりも早く着いたが、一時間強の空腹に耐えるのは辛かった。肉体労働を強いられている環境上、食事というものを抜いたことはない。馬車の時間の関係と、ベラが今日の朝食は街のものにしようと言ってきたからだ。それにもちろんあたしは首を縦に振って頷いた。馬車から降り立つと、ベラはいきなり早歩きで歩き出す。
「ちょ、ちょっと。少しくらい感慨に浸らせてくださいよ」
「ごめんごめん。モーニングが美味しい喫茶店なんだけど、この時間は混んでるかもしれないからね」
「って思ったけどその心配もなさそう」
立ち止まり、街の様子を見るとどうも不自然。活気というものがやけに少ない。まるで大勢の人たちが一斉にどこかに出かけているかのよう。
「今日は王国創立記念の式典だったのね。きっとみんな騎士の隊列を追いかけて、どっかに行ってるんだろうさ。まあ、買い出しには好都合さね」
そういうと会話の空気をつんざくようにあたしのお腹が大きく音を立てた。
力仕事の生活習慣が板についてしまったあたしの腹時計は泥んこだらけになって遊ぶ少年のように単純で正直だ。
笑われた。でもそこがいいところだとも言われた。
「さっさと朝食、食べに行くわよ」
早歩きになって、たどり着いた一軒の喫茶店。
オープンテラスが石造りの公道に向かって無秩序に張り出していて、簡単な木組みだけのテーブルと椅子は道路を挟んで向かい側にまで置かれている。注文をして代金を払い、あとは厨房で手を動かす人の好さそうな中年の男店主の包丁さばきを見る。太い腕の先に葉巻を束ねて作ったような手がついている。しかし、その手さばきは驚くほどしなやかで美しい。
「大したもんでしょ? あんまり見てると、うちに帰ったときの飯がまずく思えてくるわよ」
ベラのジョークを聞いて厨房の奥で肩を揺らす店主。その手に握られているのは卵だ。小さな鍋にはお湯がぐつぐつと沸いており、そこにビネガーを少量注ぎ入れる。
そして、その上から卵を落とす。すると不思議なことが起こった。落とされた滴は広がらず、滴のままその形で白く固まったのだ。酢で変性させた卵白が熱に触れると白く濁って凝固する。白身さえ固まればいいのか、ものの数十秒で鍋から卵は上げられた。ちょうど焼き上がったコーンスターチをまぶしたマフィンの上に。さらにその上からどろっとした黄色く、香ばしいソースを豪快にかける。
「ベラさん、何を頼んだんですか?」
「エッグベネディクトよ。この店の一押しなの」
「え? エッグベナデクト?」
「エッグベネディクト」
「エッグベネダクト?」
「エッグベネディクト!もういいわ。注文の品も出来上がったみたいだし」
木製の皿に乗せられたエッグベノダクトとかいう料理はほっこりと湯気が立っていて、黄色いソースと固まった白身が麻の光に照らされて、ぷるぷると揺れている。それに合わせて立ち込めてくる香草の香り。思わず鼻をひくひくと鳴らしてその甘美な嗅覚に浸る。思わずよろめいてしまったその肩が誰かにあたる。
「あ、ご……ごめんなさい」
「構わないよ。嬢ちゃん、あまり見ない顔だな」
その耳には蹄鉄と十字架を組み合わせたような飾りのイヤリングがぶら下がっていた。なぜだかそれがあたしの目に留まった。
「俺の名はラルス。ちょっと拾われて仕事をやっていてね。君の名前は? 俺が教えたんだ。答えてくれるよね」
答えに困っているあたしを見かねて、ベラの助けが入った。
「ちょっと! あんまり、このこは外に出たことがないんだ。べちゃべちゃと、しゃべりかけないでやってくれるかい?」
「おお、これはこれは、随分と怖くて色気のある姉さんがいたもんだ。俺はこの界隈じゃちょっと情報収集に凝っててねぇ。困ったことがあったら聞いてくれよ。案内してやるぜ」
ラルスというこの男、背がひょろ長く、短髪を深緑色のバンダナで巻いて止めている。目は糸のように細く、開いているのか閉じているのかわからない。それが常に笑っているようにも見えて少し不気味だ。
ベラも警戒心を抱いたのか、代金だけを乱暴に置いてあたしの手を引いて、走り出した。店主が皿を返せとおろおろとしていたが、そんなものは構わないと走る。追いかけては来なかった。ただ少しだけ声が聞こえた。
「――答えられない身分ってことか」
そう聞こえた気がした。
それが聞こえたとき、背中に悪寒のようなものが走った。恐怖を感じたんだと思う。初めてだった。自分の身元が誰かに知れるということが、怖く感じたのは――
「だ、大丈夫かな……。あたしの身元バレて……あ……」
そこで自分の皿に乗っていたはずのものが、そこにないことに気づく。あまりにも無我夢中で走ったため、皿の上の注意におろそかになっていたのだ。
「ああああ、あたしのエッグベナテクトがぁあああっ!」
「エッグベネディクトね」
「ほら、私の無事だったから、食べなさい」
もちろん遠慮はしたけれど、食べたかったんでしょと言われ、その後の念押しの一言で、飲んでしまう。ベラはあたしの分の代金まで払っていた。せっかく奢ったのだから、あたしが食べる顔を見なければ意味がないというのだ。煉瓦造りの建物の影にひっそりと息を潜めて、それを頬張る。
まず一口目、さっくりという音が下の歯からなり、上の歯は柔らかな白身を突き破って中のどろどろと固まっていない黄身を溢れ出させた。滴り落ちる温かな黄身が唇にべったりと張り付いて顎を伝う。
「おぉわっ!」
何とはしたない食べ方をしてしまったのか。
頬を赤らめながらも、やがて舌の上で踊る黄身の絡んだ香ばしいソースと、もちもちしたほかほかのマフィンに思わず唸ってしまった。その様子をベラはお腹を抱えて笑いながら、ハンカチであたしの口元を拭き取る。どうやらつぼに入ってしまったようで、いくら笑ってもおさまらないらしい。ひとしきり笑うと、呼吸を整えるべく深呼吸をするベラ。
そこまで可笑しいだろうか。口の周りを黄身まみれにした、あたしの姿が。
「あはは……、いいもん見せてもらったわ。これだけで払った価値があるってもんよ」
褒められたのか、貶されたのかよく分からない。とりあえず褒められたのだと思っておく。そう思ったほうが、おごってもらった上に、朝食を分けてくれたベラを気の毒に思うことも少しは無くなる。
日差しが少し陰る。ひんやりとした路地裏の空気が少し冷たくなる。煉瓦造りの建物に挟まれた空間。そこから外に広がる、高い建物が軒を連ねるのも。目新しく、わくわくさせるような光景だった。あたしの知らない未来がこれから待ち受けている。そんな気分にさせてくれた。
また一口、ベラにもらった朝食を口に頬張る。するとまたどろっとした黄身が唇の周りにべったりと付く。もう、ベラに塗ってもらった口紅はめちゃくちゃだ。げんなりしてしまったあたし。
「エッグボナパルトって美味しいけど、綺麗に食べれないわね」
「エッグベネディクトね。今までで一番離れたわ」
ようやく全てを食べ終わるころには口の周りはべったべた、水筒の水で湿らせたハンカチで拭き取ろうが、拭き取れたものじゃない。せっかく化粧をしてもらったのに、なんだか剥がれて元の冴えないあたしに戻された気分だ。ベラは、素材はいいとは言ってくれたが、今になって急に無頓着だった容姿に自信を持つ気にはなれない。
そんなあたしのことを嘲笑ってか、一匹の猫は、天を仰ぎ見てごろごろとうがいをした。そしてにゃんと一声あげてあたしの服に体を摺り寄せてきた。
「おや、いきなり懐かれたわね」
「は、はい……すみません、ベラさんの服に猫の毛ついちゃうかもしれないですけど」
構わないよと手で払う仕草をし、ベラもしゃがみ込んで猫の背中に手を伸ばす。ビロードのように毛に光沢のある、野良とは思えないほど美しい黒猫だ。黒猫と言えば魔女の遣い。不吉の象徴として捉えられることもあるが、そんなことは全く思いもせず、喉の裏を指先で撫でていた。
やがて、撫でられることに飽きたのか、黒猫はにゃあと一声あげて路地を出てしまった。飽きられるなど、猫が相手ならばよくあることだ。猫はあたしたち人間のことを大きすぎる、毛の禿げた猫と思っているだなんて言われるくらいだ。犬のように心から慕っているわけではない。だから、その背中を追いかけようとしなかった。視界に、猫に向かって行く馬車の姿が目に入るまでは。
「危ないっ!」
咄嗟にあたしの身体は動いた。動いたけどどうなるかなんて考えなかった。
考えなかったから、あたしは黒猫の背後から覆いかぶさるようにして馬車の前に躍り出たんだと思う。
馬のいななく声、蹄鉄が石畳をはじく音が、あたしのすぐ隣でした。本当に間一髪だった。馬車のつくりは、あたしたちが乗って来たものとは違う。美しいシルクの布の屋根。恐らくは位の高い貴族が中に乗っていただろう。
それなりの処分は覚悟しよう。そう思った。
「おいっ! 何を考えているんだっ! この馬車には誰が乗っておられると!」
「王子だよ」
俯く耳に信じられない会話が入る。
いきなり目の前に飛び出たあたしを叱る御者の言い分は想像できた。問題はその後にすぐ続いた、若い青年の声。王子だよという言葉。どういうことか分らない。いや、意味は分かる。その内容が指し示す状況をの中に自分がいるということが理解できない。受け付けられない。
「あまり、人の立場を使って偉そうにするのもやめてくれないか? 人を優しく扱うか、冷淡に扱うかくらい、僕に決めさせてくれ」
その声は、低く落ち着いていた。それでいてへしゃがれていない、透き通ったようだ。
あたしの声は女の中では落ち着いた低めのものだが、それでも男声よりはトーンが高い。
でも、綺麗だ。素直にそう感じた。
「さあ、お嬢さん。顔を上げてくれ。僕の名はエドワード・オーウェン。この国の正真正銘の王子さ」
小説の文字たちは声を持たない。でも、耳に入ったそれは想像通りだった。
背中に投げかけられた言葉たちは、心臓を後ろから突き刺すように響き、あたしの心を揺さぶった。
気が付けば握っていた。俯いた視界の中に舞い降りてきた、白く透き通るようでいて力強く温かい、その手を。
「……、は、はい……」
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「――ラルス、いい情報とは何だ?」
裏通りで動く二つの影。
ひとりはあの蹄鉄と十字架を組み合わせたような飾りを付けたイヤリングを耳にした情報屋と名乗っていた男、ラルスだ。もうひとりは、身元を隠しているのかローブに身を包んでフードを深々とかぶっている。そして、こちらは背中に、蹄鉄と十字架を組み合わせた紋章がでかでかと刺繍で施されている。密談の会場は、人気のない路地裏の奥に進んだところにある、レンガ造りの建物たちの間にできた奇妙な空間。おまけに、ふたりともが互いの顔を見ないように背中合わせのまま話している。
「……、面白い女の子に逢いましてね。女のくせにやけに肩ががっちりとしていた。恐らく肉体労働をやっていたんじゃないかと」
「それがどうしたっていうのだ?」
「慣れない化粧と丈が合ってない服を着ていた。――恐らく貸してもらってたんだろうな」
「な、何が言いたい? じれったいぞ、ラルス」
情報を細切れにしか伝えないラルスに、フードの男は業を煮やし始める。ラルスとは違い、余り勘の走るタイプではないらしい。その鈍感さをラルスはどこか弄んでいるかのようだ。
「全部つなげると、ある一つの理由で辻褄が合います」
「……、回りくどい言い方をするな」
そこでようやくフードの男も勘付いたようだ。
「癪なんですよ、あくまでも元奴隷である俺が貴族のあんたに情報を渡すのは。友愛会が差別を生んだ拷問研究会を倒すための組織で、その中には身分による差別などないと言われても、貴族の連中はいけ好かない」
「待てっ! だとしてもそれのどこが面白いんだ?」
だが、娘の正体に勘付いてもまだ腑に落ちない。それは、この情報が面白いと評価するに値するかということだ。たった一個人の奴隷の優遇など詮なきこと。それに、身分による差別と、身分が家系によって完全に決まってしまう悪政を憎む友愛会という組織の氏名からすれば、何の支障もない。
「接触したんですよ。エドワード王子に」