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私性調査

 群青色の夜空が、東の端から少しずつ茜色に染まっていく。青色が薄まって薄紫色になり、紅色になり、再び空色に帰っていく。青々とした木々が生い茂る森ならば、可憐な小鳥たちの美しいさえずりによって目を覚ますだろう。

 でも残念ながら、切り開かれて荒れてしまった禿山では、そんなものは聞こえない。代わりに薄いテントの屋根の布地越しの朝陽が、目蓋の上を撫でる。


 坑夫の朝は早い。むくりと起き上がり、辺りを見回すとすでに皆は起きていた。あたしの寝床は、坑夫たちの食事を買い出ししたり料理したりする使用人の女性たちと同じテントだ。


「レメト、早く支度しな」


 背後のテントの入り口が開かれ、朝陽の光が差し込み、ベラの囃し立てるような声。振り向いて返事をして、入り口を身を屈めて外に出る。まずは、井戸に向かい、手押しポンプから汲み出される冷たく清らかな水で顔を洗う。


「今日は念入りに洗っときな」


 ベラが自分がいつも使っているという石鹸を貸してくれた。

 ほのかに花の香りがする。ジャスミンという花らしい。清涼感のある爽やかな香りだ。あたしは、あまり顔を洗う時に石鹸を使ったことはない。というより、奴隷であるあたしには私的な理由で使える金というものがほとんどない。

 顔を洗い終えると、タオルを渡されて、女性の使用人たちが身支度をするためのテントに案内される。中には姿見の大きな鏡や化粧机などもあるが、見た目というものを気にしたことがないあたしは、あまりこの空間を利用したことがない。つい数年前までは男の中に混じって着替えてたくらいだ。さすがに最近はひとりで作業着に着替えるが、物陰でぱっと済ます程度。下着を脱ぐことはないから見られたところで構わないと思ってしまっている自分が、ここに来ると少し恥ずかしく思えてきた。

 趣向品や身の回りの品のほとんどは最低限のもの以外は全て借り物だった。就寝のときに着る寝間着も、坑道で作業をする時の作業着も供用のもの。小柄な男性用のものを着用しているが、もちろん丈は少々余っている。他は散歩のときに着用する襤褸切れを縫い合わせて作ったワンピースぐらいだ。それを手に取ると、右肩にベラの手が置かれる。


「あ、あんた……、まさかそんなもの着ていくんじゃないだろうね?」


 まさかも何も、あたしには普段着というものはこれぐらいしかない。


 そう言うと、ベラは自分が持ってる中でとびっきりのおしゃれ着を取り出して来た。コバルトグリーンのサテン地に中東アジアのタイル細工を思わせるような鮮やかな装飾のワンピース。袖と裾にはフリルもあしらわれており、生まれてこのかた着たことなどない御召し物に、あたしは感嘆の息を漏らしながら見入っていた。手に取って、朝陽に向かってかざしてみたり、胸にあてがって、くるりとまわってみたり。


「これ……、本当に貸してくれるんですか?」

「今のあんたを見て、貸してあげないと言ったらとんだ薄情者だよ」


 その返事を効いて思わず嬉しくなってしまったあたしは、思わず飛び上がり、意気揚々と脚を通し、するりと持ち上げ、その可愛らしいフリルのついた袖に腕を通す。でも、困ったことが起きた。


「……、や、やっぱりいいです」

「え……?」


 そのしなやかな袖は、あたしの無骨な二の腕を受け付けなかったのだ。袖が通らず、二の腕の途中で引っかかり、背中の紐が締まらない。背中に羽が生えたかのように浮足立っていたというのに。途端に翼がへし折られて、地面に乱暴に落とされた気分だ。

 考えてみれば、袖口がきゅっとしまったその服は、華奢な女性の腕の可憐さを強調させるためのもの。つるはしを握るための、あたしの太い腕のためには存在していない。


「そ、袖が通らなくって……、無骨なあたしにはこんな服……」

「そ、そこまで落ち込まなくても……。ほ~ら、袖口がゆったりしたものもちゃんとあるから」


 ベラは苦笑いをしながら、もうひとつの服を取り出す。今度は袖口がだぼっとしていて余裕がある印象の白の中にうっすらと青が息づくワンピース。肌触りの良い綿の生地に真珠に似せたビーズが波紋上にあしらわれている襟元。裾のフリルは斜めに交差するように何段もなっており、まるで岸に打ち寄せるさざ波のよう。着てみると、今度はすんなりと腕が通る。


「本当は、肩とかわざと余らせて着るやつなんだけどな」


 せっかく着れたということを喜んでるって時にそんなことを言わなくていいのに。


「ご、ごめんごめん、そんな目で見るなって」


 むすっとした顔つきになってしまうと、ベラは思わず苦笑い。

 そして、今度は鏡台の足元から、何やら木箱を取り出してガサゴソと中身を漁る。覗き込むと中には化粧道具がこれでもかと詰め込まれている。その中であたしが知るものといえば、口紅くらいだ。ふわっとした甘い匂いが立ち込める。なんだかクラクラしてしまいそう。


「これ、全部ベラさんのものなんですか?」

「こういうものは腐らないから、安いときに買いだめしておくのよ。えっと……、使ってないものは……」


「え、も、もったいないですよ。あたしのためなんかに」

「あなた初めてのキスの相手が三十二歳のおばさんなんかでいいの?」


 むっと詰まるあたしに、なぜだかベラは目じりを下げて顔を歪める。


「――何だろ。あからさまに考え込まれるとへこむわね」

「い、いえ、そういうわけじゃ……。ベラさんは綺麗ですよ」


「男どもは女ざかりは十九とか言い出すのさっ。ほうら、鏡見るっ」


 肩をぐるりと回転させられて、鏡台の鏡に向かわされる。まじまじと自分の姿を見たことがないあたしは、無意識に首が回転して、鏡から目線を反らし始める。すると、呆れ調子のため息をついて、ベラがあたしの首を向き直させる。


「あんたは素材がいいんだから、ファンデーションと口紅だけでいいでしょ」

「ベラさんは、どういう化粧の仕方するんですか?」


 何故かその質問にベラは眉をしかめる。


「あんたって意外と無意識に失礼なこと言うタイプね」


 目をつぶっていて。


 そう言われた。きっと、化粧が終わったときには変わり映えには驚くからと。ただ、化粧の作業自体は本当にあっという間だった。肩をぽんぽんと二度叩かれ、目蓋をゆっくりと開ける。するとそこには、自分の知らない自分がいた。言われるがままに鏡台から立って、姿見の前に立つ。普段はあまり気が進まない行為なのだが、鏡を見た瞬間から心までも生まれ変わったようだった。とかく容姿というものには無頓着なあたし。


 すすや泥にまみれて、灰色だったあたしの頬は、今は桜色に色づいている。

 ぼさぼさだった髪は、しなやかな光を帯びながら美しい弧を描いている。


 男臭い作業着か、襤褸切れで作ったみすぼらしい服か。いつもそんな身なりだった。けれど今は違う。

 今まで自信の持てなかった自分とは全く違う鏡の中の自分。でも、それは紛れもなく自分だ。思わず感嘆の息を漏らすあたしを、ベラは微笑みながら見つめていた。


 今日、この服を着て、生まれ変わったあたしの姿で、街に出る。



*****



 同じころ、街は大勢の人で賑わっていた。朝の早い時間は露天商が道端に店を開き、目利きや値段交渉、購買で賑わう。しかし、この日の盛況はそれによるものではない。王国創立記念の式典が催されているのだ。国王や王子はもちろん、王家の者や伯爵などの王侯貴族が街を騎士たちに囲まれて練り歩くのだ。身分の低い市民には、なんとも厚かましい式典だが、煌びやかな装飾用の宝剣を携える騎士たちの隊列は中々の壮観。それを一目見ようと大勢の人で、街はごった返していた。

 特に見ものなのは、国王と王子を担ぐ神輿だ。黄金色に輝く玉座の上に国王がどっかと腰を下ろし、それを騎士たちが担ぐ。なんとも厳かで畏れ多い姿だ。王子が腰を下ろすものは、もう少し小ぶりなもの。

 だが、王子の場合はその容姿に市民の注目が集まっていた。目鼻立ちがくっきりと整っており、女性ですら羨むほどの透き通るような肌と、しなやかな髪。しかし、それでいて顔の線や喉仏が女にはない、男の色気というものを醸し出している。まさに美男子という言葉を具現化させたかのような彼の容姿に、女性たちは一度見たら最後、枕元からトイレの中にまでその顔が目に焼き付いて離れなくなるという。


「ああ、エドワード王子様。手を振ってくれないかしら」


 道の脇から、騎士たちの列を眺めていた女が、喉の奥からかすれるような声を出す。彼女の横には、配偶者らしき男性も並んでいる。隣であからさまに、他の男性に対する憧憬を唱える妻に、夫は浮かない顔をしている。


「なによ、年に一度くらいの浮気くらいいいじゃない」

「気に入らないな、俺たちの上に立つ者がふんぞり返っているのを見るなんて」


「そういうあなたも、ここに来てるじゃない」

「俺は、騎士の勇猛な姿を見るのが好きなんだ。剣闘士の斬り合いはもっと好きだがな」

「あんな血なまぐさいものこそ、興味ないわ」


 同じものを見に来ているとはいえ、やはりそこは男と女。

 ふたりの興味はあまりうまくはかみ合わない。それでも王子が担がれた神輿が現れるとふたりともが背伸びをしてなんとか、そのご尊顔を眼中に収めんとする。

 神輿の上の玉座には、王子の姿が、妻の顔はぱあっと晴れあがるが、ここで夫の方はあることに気づく。どうも様子がおかしい。王子は何故か帽子を深々とかぶっており、不自然なほど猫背勝ちで、神輿の揺れに成すがまま。まるで魂が抜けた抜け殻がそこに座っているかのようだった。


「なあ、なんか王子の様子おかしくないか」


 そう言われて初めて気づいたらしい妻は、深々とかぶられた帽子の中の王子の顔を目で捉えて口をあんぐりと開ける。見えたのは、頭陀袋に太い糸を縫って描かれた口元。ボタンの目とつぎはぎの鼻。つまり一言でいえば、かかしが王子の服を着て玉座に座らされていたのだ。


 ならば、本物の王子はどこにいるのか。その答えは街中のとある喫茶店にあった。


 ひとりの若い女と、男性ウェイターが切り盛りしている小さな喫茶店。女の年齢は二十五ほど。店内にはコーヒーミラーのがりごりという音とともに香ばしい香りが立ち込める。来店したのは、フードをかぶった男。声色から若い青年であることが伺える。深々とかぶられたフードの影から口元だけが覗いており、透き通るような肌と手入れの行き届いた髭の伸びていない端正な顎。


「あら、いらっしゃい」

「これはどうもどうも。初めて伺いましたが、いい店ですね」


 女が気さくに声をかけると、身元を明かそうとしない怪しい風貌とは裏腹に、人懐っこい声と口調が返された。それにコップの水滴を拭っていたウェイターがぴくりと反応し、何故かほくそ笑む。

 店内には、年季の入った木の香りのするアンティークのテーブルや椅子が、ところどころがくすんだり剥がれたりしているタイルアートの床の上に置かれている。店自体は新しいのだが、内装はあえて古ぼけたもので統一されており、その奥ゆかしさの中にコーヒーの香りが花を添えている。カウンターにはチョコレートコスモスの一輪挿し。入り口のドア付近には、ゼラニウムのプランターが吊り下げられている。青年の言葉に愚かはなく、落ち着いた雰囲気の趣味のいい店だ。

 青年がカウンター越しに、女と向かい合わせるような形になって座る。女が注文を尋ねると、淹れたてのコーヒーを注いでくれ、砂糖もミルクもいらないと。


「いい注文の仕方ね。初めての店ではバリスタの力量を調べるために、嘘のつけないブラックコーヒーを頼む」

「頼まなくても、あなたの顔を見ればわかりますよ。――絶対に僕を落胆はさせない。そして、嘘もつけない」


「まあ、嬉しいこと言うのね。褒めても動揺などしませんよ。私は私が出せるすべてをカップに注ぐまで」


 慣れた手つきでしなやかな線の整った手が動く。

 その様子をフード越しに眺めながら青年は口元を緩めて口角を上げる。


「そう言えば、今日は王国創立記念の式典があるとか。あなたは行かれないのですか」

「私を平民の一番底辺に押し込めている悪政の主犯を拝む気にはなれないわ。まあ、娼婦をやるしかないような奴隷階級よりはマシだけど」


「僕もどうもかったるくてね。玉座の上でふんぞり返るのが仕事とはね。だから、こうして市民の声を聞くために、喫茶店に抜け駆けをしているわけです」


 何の冗談を言うのかと、女はふっと鼻にかけた笑みを漏らし、肩を揺らす。

 こんなしがない喫茶店にまさか王子が、それも王国創立記念の式典をすっぽかして来ているわけなどない。そう言うと、青年は再びフードの影からのぞかせた口元を緩める。


「何を言っているんですか。ここには、あなたがいる。それだけで式典をすっぽかす大義名分になり得ますよ。諦観にうつつを抜かすより、その眼を見開いて現実を見てください」



「あなたの王子様は、ここにいますよ」



 フードをバサッと勢いよく脱いだ後、黄金色の髪を振り乱す。中から現れたのは正真正銘、エドワード王子だった。

 彼がフードを脱いで素顔をさらした。ただそれだけだというのに、店の中の空気がごっそりと入れ替わったようだった。女は目が覚めるような戦慄を覚える。女でさえ嫉妬する美貌と言われるその端正な顔立ち、たおやかな黄金色の髪。その姿を一目見れば恋に落ちる。だが、女はゆっくりと瞳を細め、冷たいまなざしを向けた。


「現実を見たほうがいいのは王子様の方だと思いますけど」


 女が冷たい言葉を返すと、王子は途端に間抜けな顔になる。

 そして次の瞬間、頭上から手刀が振り下ろされ、王子はその顔面をカウンターの天板に叩きつけられた。


「あなたの執事が、ここにいるんですから」


 凶手はウェイター、もとい、ウェイターに変装していた王子の世話役の執事。セバスチャン・クレイシル。通称セバスだ。


「まったく、本当に女たらしで困ったものです」


 あろうことか王子に向かってお見舞いし、赤く腫れた手の側面に息を吹きかけて冷ますような仕草をする。切れ長の瞳と顎を覆う整えられた髭が特徴的。もとの顔立ちが良いためか、年齢を重ねた渋味が漂う中年の男性だ。


「ご協力感謝いたします」

「いえ、王子と言えど、若いお子様に口説かれるのも迷惑なんで。――私男の好みも内装と同じで、年季の入ったバーボンとかが似合うダンディな男性が……」


「王子、さっさと式典に戻りますよ」

「って、私のことは無視なんですかーーっ!」


 女が地団駄を踏んでいることなど気付かないのか。それともあえて気付かないふりをしているのか。

 セバスは王子の耳を引っ張って喫茶店の外へと連れ出す。王子の世話係の執事だというのに、どうもその扱いが雑だ。


「いだだだだっ! 嫌だ! 戻りたくなんかないっ!」

「式典をすっぽかすとは何事です。おまけにまた、女目当てで街をほっつき歩くとは……。女性ならば、こちらでいくらでも縁談を組むというのに」


「お膳立てされた縁談などロマンスのひとかけらもないだろ? それにこれは前にも言っただろ?‘市政’調査を兼ねていると」

「そんな‘私性’調査はすぐにやめてしまいなさい」


 喫茶店のすぐ前にはセバスが用意した馬車がつけてあった。


 馬車の中で王子はセバスに現状を聞かされる。式典はとっくに始まっており、王子が仕掛けたかかしによるカモフラージュは、玉座に座らされて街を練り歩いているという。その内容を聞いて王子は驚愕する。かかしで作った影武者など誰がどう見ても本人でないと分かるはずだ。


「そんなことをすれば、王子が私用ですっぽかしたということが、街の住民全員に伝わってしまうじゃないかぁ!」

「まぁ、それに関しては真実ですし、構わないでしょう」


 王子が女たらしで、事あるごとに城を抜け出しているのはかなり街に知れ渡ってしまっている。だが、この式典をすっぽかしたことがまずい理由はもっと他にある。


「問題は、このことがレクトール議長に知られているということ。彼を怒らせるとかなり厄介ですから」


 レクトール議長。


 この国の政治の一部を国王から分担されて任されている立場にあるもの。

 国王が政治を行使する権限があると言っても、その内容を事細かに一個人が決めるのは限界がある。そこで結成されたのが伯爵などの位の高い貴族により構成された議会。それを取りまとめているのがレクトールという男だ。


「とにかく急ぎましょう」


 馬を操る御者に呼びかけ、式典の隊列を追いかける。城下町を歩いて回る騎士の隊列を馬で追いかけるのは容易いようにも思えるが、いかんせん時間がない。城から出て城下町を歩いて回り、再び城に戻る行程のほぼ最終段階まで来てしまっている。御者が手綱を揺らすと馬車のスピードは速くなったが、道幅の狭い街中では急ぎ様も限られてしまってくる。王子は揺れの激しくなった馬車の中から不安げな顔を出す。もちろん街中で遠く離れている騎士の隊列など見えるはずもない。だが、代わりに王子の視界はあるものを捉えることになる。


 道に飛び出した一匹の猫。


 そして、それを庇おうとするひとりの少女。


「危ないっ!」



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