男の闘い
乾燥した荒野を吹きすさぶ風が、喉の痛みを思い出させる。
だが、固唾を飲まずにはいられない光景だ。王子は騎士団長たるハロルドに一騎打ちを申し込んだ。それも国の命運そのものを賭けて。――無謀だ。それでも彼の瞳は言っていた。僕を信じて欲しいと。
「王子、面白い勝負に出るなぁ。この俺とサシでやり合おうと。温室どころか王室育ち。その剣に血が流れるところを見たことがあるのか?」
ハロルドが剣を引き抜く。勝負に乗ったという合図だ。
王子の肩が少し震えている。
ふたりの身長差は十センチは優にありそうだ。筋肉量・実戦経験を考慮すれば、さらに優劣の幅は広がることになる。――それでも自分にできるのは、ただ信じることだけだ。
両手を組み合わせて目を閉じる。暗闇と静寂があたしに訪れる。風の音、流れる砂。転がる石の音。足音がひとつ、ふたつ。じりじりと睨みを利かせながら、間合いを詰めている。そして地面を蹴って走り出した。
近づくふたつの足音、金属音。ついに二本の剣は交わされた。
「ふんっ!」
目を開くと、視界に飛び込んできたのは、ぎりぎりと刃をこすり合わせるふたり。線香花火のごとく火花が舞い、振り絞るような叫びとともに、かろうじて王子がハロルドの剣を押し返した。
根負けしたのか。――いや、奴は笑っている。余裕の笑みだ。
単に根負けしたんじゃない。自分にかかる負荷が最小の状態で、王子の剣筋を流したのだ。
気付いていない。王子はハロルドの手の内に気づいていない。
次の一手も王子からだ。大ぶりの振りかぶった一撃。ハロルドの上半身に喰らいつく。それを受け止めるハロルドの剣は、まるで王子の剣が狙ってくるところを予測して、宛がわれているかのようだ。
読まれている。完全にハロルドの調子に巻き込まれている。
まずい。このままでは、王子が疲弊する。ハロルドはそれを狙っている。
「エドワードっ! 読まれてる! 相手の目を見るのっ!」
何度喰らいついても流される。剣が届かない。
上から。下から。打点を変えても全て、読まれている。
肩が自然と上下してしまっている。息遣いが荒くなっているのが、口元を見ているだけでわかってしまう。
「まずい……、エドワード」
「エドワード王子、お前は成長しないなあ。先代も言ってたか。王子の剣は真っ直ぐすぎてつまらんと……」
ハロルドが漏らした一言で分かってしまった。彼は、王子の剣術の稽古をつけていたのだ。道理で彼の手の内が読めてしまうわけだ。相手は王子のことを知っている。そして、それと同じくらい王子も相手のことを知っている。それでも敵わないんだ。
「そろそろお終いにしようや」
変わった。今度はハロルドからの攻撃だ。大きく振りかぶり、右脚を地面にめり込むほどの力で力強く踏み出す。そこでわざと一瞬振り下ろすタイミングをずらした。王子はそれを見抜けない。
にやり。
ハロルドがほくそ笑む。王子の懐に屈んで潜りこみ、なんと体当たりで突き飛ばした。舞い上がる王子の身体を、ハロルドの剣が空中で引き裂いた。
「ぬぁっ!」
「エドワードっ!」
思わず叫んでしまう。喉がきりきりと痛む。――限界だ。もう声を出すな。声帯がそう訴えかけても。目の前で血を噴出して地面に転がる王子の姿を見て、声を出さずになどいられるものか。足を踏み出さずになどいられるものか。
「邪魔立てするな。これはエドワード王子と団長ハロルドの一騎打ちであるぞ」
踏み出したところを騎士団の取り巻きに取り押さえられた。
ここで見ていることしかできない。祈ることしかできない。信じることしかできない。
でもたった一撃で王子は襤褸切れのようになってしまった。刺傷を受けた腹部を抱えてもぞもぞと地面を這っている。かろうじて剣を右手に握ってはいる。立ち上がることもできたが、剣を地面に突き立てて、膝をがくがくと震わせながら、柄の先を手繰り寄せるようにしてだ。
「もう辞めたらどうだ? 俺についている血はお前の返り血だけだぞ。エドワード王子、何も女の前だからってこんな見栄を。それとも、命を賭して戦った美談を彼女にでも捧げたいか?」
「……じ……じゃねぇ……。もう僕は王子なんかじゃないっ! 国王、エド……ワード……、オーウェンだ……。名声や美談のためなんかに、ぼ……僕は剣を振るわないっ」
二本の足でようやく立てた。本当にようやくといった様子だ。唇から血が垂れて、地面を濡らした。咆哮し、全身を奮い立たせる。
今度は王子からだ。
身を屈める。潜り込む。剣先を突き出す。
王子の剣先は、ずらされてハロルドの脇の空間を貫通。剣の腹を手繰り寄せ、至近距離に詰め寄るハロルド。そのまま石頭が王子の鼻頭に打ち付けられる。鼻血を噴出しながら、後方によろけるも、なんとか立ち上がった姿勢を崩さずに堪える。だが、衝撃で目が開かない。闇に閉ざされた視界の中で、王子は斬撃を聴覚だけで手繰り寄せる。
受け止めれた。ハロルドの剣は、王子の左肩に届く間際で受け止められた。
「――ほう、少しはいい剣筋になってきたな」
だが、安堵している暇はない。
実力差は外野も、王子本人も存分に知っている。油断すれば全て終わりだ。緊張の糸を束ねた縄の、その繊維の一本すら切らしてはいけない。
さもなくば、全て、あの剣に断ち切られてしまう。国の命運ごと、ハロルドに。
力が剣に込められる。まだ目が開かない。剣に伝わる振動を手掛かりに衝撃を流せ。心の中で呟いた一言を王子は受け取った。わずかに前のめりにバランスを崩すハロルド。好機か。いや、ハロルドはまたほくそ笑んだ。
まるで後ろに目がついているかのように、王子を後ろ蹴りでなぎ倒したのだ。
「ちょっと我ながら油断が過ぎたようだ……。もう少しで一手喰らわされるところだったよ。危ない危ない」
再び剣を杖に立ち上がる王子。刺傷箇所を蹴られ、血が噴き出し、滴り落ちる。より一層息が荒くなっている。見ているだけで、彼の全身を蝕んでる痛みがこっちまで移ってきそうだ。いや、事実苦しい。彼の血が流れる度、胸元の赤い薔薇の棘が心臓を刺すようだ。
でも踏みとどまってなんて言えない。彼を信じるこの心が弱みを見せたら、彼はきっと――
今度こそ、彼は立ってなんかいられなくなる。瞳を濁らすな。顔を歪めるな。
「だが所詮お前は甘ちゃんだ。だからここに、のこのことやって来れるんだ。本気で俺を相手取ろうというなら、こんな馬鹿やってないでこの鉱山ごと代償として捨ててしまえ。レクトールがお前たちをそうしようとしたようにな」
砂に赤黒い血がぼたりぼたりと滴り落ち、渇いた砂を濡らしていく。いよいよ失血がひどくなってきた。意識が定まっていないのか、呼吸のリズムと瞬きのリズムが安定していない。背中を貫く身体の軸が不安定だ。
「……そんなことしたら……、レクトールと……あの狸じじいと同じになるだろうが。僕は……代償なんて言葉で見限るなんてしたくない。救えなかった命は全部……この背中が、ぼろぼろになって崩れるまで背負ってやるっ! ――ハロルド、お前がやろうとしている国づくりなんぞ興味はない。僕は……、国王として人の上に立つ人として、相応しくなりたい。もう……何も、取りこぼしなんぞしたくないっ! 何も、置き去りにしたくないっ!」
「ただそれだけだぁあっ!」
歯をぎりりと音が出るほどに噛みしめて。王子は跳躍した。
「馬鹿め、空中で身の自由が取れるかっ」
難なくハロルドは上方からの斬撃を受け止める。
だが、王子は自らの剣が跳ね返る力を利用して、ハロルドの背後に回り込んだ。そして振り向き様に剣を振る。焦りの色を見せながらも、ぎりぎりのところでハロルドの剣はその刃を捉えた。またもやにやりと笑う。左手が王子の顔面に伸びて来た。ハロルドの大きな手が王子の頭蓋を鷲掴みにし、地面へと押し倒す。
「ぬぐぁっ!」
「無駄だ無駄だぁあっ! 何も取りこぼしたくない? 何も置き去りにしたくない? レクトール議長が聞いていたら、反吐が出るような言葉だぞっ!」
反吐が出る。それはハロルド自身もそう思っているのだろう。顔に青筋が浮き上がっている。その筋は腕を伝って、拳まで伸び、王子の頭蓋を地面にこすりつけた。もともとつぶれていた鼻頭がさらに圧迫される。苦痛に悶える王子。
「俺たち上流階級の安寧があるのは、ここにいる奴隷の皆。数々の代償があってのものだろう? 没落という恐怖を断ち切り、安泰に腰を下ろした上で国力を高める。奴隷は無為には死なない、国のために死ぬのだっ! そんな価値ある死の何が悪い! 価値ある死以上に、何を奴隷に与える必要があるっ!?」
さらにこすりつけられる頭蓋の痛みに喘ぎながら、その両手がハロルドの足元を手繰り寄せる。そして、両脚を一思いにねじった。間接がおかしくなり、膝から崩れ落ちる瞬間、手に込められていた力が弱くなる一瞬。それを狙って、王子は倒れ込むハロルドの身体から抜け出して、剣を振るう。ハロルドは身を伏せてかわそうとするも、僅かに王子の刃が右腕をかすった。やっと、やっと彼の剣が届いたのだ。
「ハロルド……、下をよく見ろ」
笑っている。彼が笑っている。
「ああ、また油断しちまったみたいだ」
だが、喜んでばかりはいられない。
向こうに与えられたのは血がじわりと沁みだすような浅い傷だ。ハロルドを止めるにはいくらなんでもお粗末すぎる。そして、バツの悪いことに、この傷が、ハロルドの自制心を打ち砕いた。負傷というハンデがある王子。残念だが懐に入り込むのは容易だ。
「だが、お前は前さえも見えていない」
剣が王子の懐に向けて突き出される。刃は腹部を貫いた。
血を吐いて、地面に膝を折り、倒れ込む。袈裟切りを受けた後の二度目の負傷。全身から自身の鮮血を垂れ流し、もはやピクリとも動かない。痛みにもがく声も、叫びもない。静寂。最も恐れていた静寂だ。
――彼の命の声が聞こえない。
「少しだけ楽しませてもらったよ。でもエドワード王子、お前の負けだ。所詮世の中は取引で成り立っている。代償を切り捨てられないお前の考え方じゃあ……」
聞こえない……。嘘だ……。こ、こんな……。
「国どころか、誰ひとりも守れやしないさ。己の命さえもな」
いいや、まだそんなもの信じるな。
信じていいのは、あのときの王子の瞳。ただそれだけ。
生きると互いに交わした約束。ただそれだけ。
「レメトと言ったな。王子はこのザマだ。最期の手向けの花くらい供えてやらせるよ」
にんまりとした邪な笑みを浮かべて、こちらへと近づいて来るハロルド。あたしを取り押さえている取り巻きの二人に、放すよう命令した。紙一枚にかいたような、薄っぺらい紳士的な笑みで、よりにもよって変わり果てた姿で地面に転がる王子までの道を手のひらで指し示す。胸元の赤い薔薇を、彼に手向けろと。
「さあ、その手で花を供えれば、王子もせめて安らかに眠れるだろうさ」
「……。……」
「まったく、飛んだ女ったらしだ。英雄色を好むとは言うが、色を好んで英雄にはなれないのだな。それともお前がこの頭が空っぽだった王子を焚き付けたのか? 親子そろって無駄に大志など抱きおって、大人しく人形になってれば、少しは生き永らえさせてもらえ――」
減らず口を叩くハロルドの頬を平手で打ってやった。
矢を受けた肩が引きちぎれそうになるかと思うくらい手を伸ばして、引っぱたいてやった。
すぐに取り巻きが、あたしを再び取り押さえる。敵わなくとも暴れまわってやる。喉が引き裂かれようが、叫んで、叫んで、叫びまくってやる。
「エドワード……、こんの大ぼら吹きがぁああああああっ! ふざけるなぁっ! なにをそこで伸びてんのよっ! 信じろって言う約束だったでしょ! 必ず、必ず勝ってみせるって! こんなんじゃ、信じたのが馬鹿みたいでしょうがっ! 立つのっ! さっさと立ちなさいっ!」
地面に押さえつられた。所詮はどれだけ暴れても結果は変わらない。だからって安らかになんか眠りたくない。最後まで生きて生きて、生きてやる。
――だから、頼む。
「この女を殺せ。首を落とせ」
お願い……。お願いだから。
「はっ」
この声が……、届いて……。
「エドワードぉおおおおおおおおおおおっ!!」
――視界の中、一本の剣が宙を舞った。
あたしに向かって取り巻きの騎士が剣を振り下ろすほんのコンマ数秒の前だ。上空を回転しながら舞った剣はそのまま、重い刀身を地面に突き刺した。代わりにハロルドが剣を失ってひどく狼狽していた。何が起こったのかよく分からなかった。
それでも、砂煙が晴れて、彼の顔が見えた気がしたから。
安堵とともに、あたしは血を吐いてその場に倒れ込んだ。声帯を使い過ぎた。意識が遠くなる。
――彼は……、彼は幻……?
*****
「ハロルド、下をよく見ろ」
エドワードは全身のなけなしの力を奮い立たせて立ち上がった。
そして、ハロルドの剣を自らの剣で吹き飛ばしたのだ。どうして今になってこんな力が出たのかは知らない。ただ、それよりも武器を失ったハロルドの喉元に刃を突き立てる。この一瞬の形勢逆転にハロルドはひどく狼狽していた。
エドワードが完全に屍と見誤っていたところでむくりと起き上がったのだ。無理もない。
「殺せ……、俺は奴隷制の後継者だ。殺せばこの国は救われる」
ハロルドの要求に応えず、エドワードは自らの剣を鞘に納めた。
拍子ぬけたような顔をするハロルドは、ゆっくりと挙げていた両手を下ろす。
「断るよ。誰かを殺して救われる国はもう沢山だ」
剣を鞘に納めたままで、エドワードは真っ直ぐに血を吐いて倒れ込んだレメトのもとへと、ぼろぼろの身体を引きずって歩く。やがて、王子を殺せ、殺せと取り巻きが煽り始めた。しかし、それをハロルドが制止した。
「やめろ。もう負けだ」
「し、しかしハロルド団長っ!」
「俺を殺さずして勝った奴を殺しても、勝ったことにはならないだろう? あのゴーシュとかいうハゲ頭も下してやれ」
「相変わらず、引き際は知っているな、ハロルド」
「伊達に騎士団長なんざやってないさ。それにこんな甘ちゃんたちの国だ。崩れゆくのを楽しむのもおつだ」
背中越しに会話をしながら二人の距離は離れていった。地面に突き刺さった剣をハロルドは引き抜こうとはしない。
口先だけじゃなく、本当に負けを認めたのだ。
取り巻きは、命令通りに鉱山の奴隷を縛っていた縄を解いていく。退却だ。ゴーシュを磔にしていた十字架に梯子が架けられた。それを横目で見届けながら、エドワードは力尽きたレメトのもとへと寄り添い、彼女が吐いた血が滲んだ砂を撫でた。
「……、すまないな。無理させてしまって……」
「レメト、君が起こしてくれたんだな。道理でおちおち眠りにつけないわけだ。情け……ないな……、何時も守ろうとしてるのに、守られてばっかりだ」
そっと彼女の身体に触れてみる。まだ温かい。気を失っているだけだ。それを確認すると、エドワードもまた彼女と同じように安堵の中に崩れ落ちるのだった。
ふたりは、荒野の上に折り重なるようにして倒れた。