女の闘い
狼狽する楽団。弓は弦から離されて、惨たらしい拷問現場と変わり果てた食卓には、時を刻む音が響き渡る。遠くの方で友愛会の暴動の喧騒が、燃え盛る炎の音と協奏している。
「面白い光景だ。私が王子を殺すよう命令した男が、王子を連れてここに私を殺しにやって来た。それだけでも立派な転調だ」
皺だらけの顔をくしゃくしゃにして怪しい笑みを浮かべる。一度目にしただけで、全身の皮膚がぶつぶつと寒いぼを出す。額と掌に嫌な汗が滲み出る。その濁った瞳がこちらの考えを全て看破しているかのように感じてしまう。
「御託はいい。返せ」
レクトールの気迫に押されがちになってしまったエドワードを押しのけるようにして、ラルスが前に躍り出る。
「王子を殺させるため仕立て上げた俺の人生。もとい……親父を返しやがれっ!」
にんまり。渇いた笑みからレクトールは膝を折り、その場にうずくまって腹を抱えて笑う。表情が見えない、ただ老いに負けて少し曲がりつつある背中が小刻みに揺れている。不気味だ。
(気迫に押されてしまっている。考えなければ――)
「……、ラルス、王子お前ら二人そろって甘ちゃんだ」
変わった。笑っているのではない。痛みをこらえて、肩を上下させている。息が荒い。床に血の染みがぽたりぽたりと落ちていく。
(やられた……)
「私の死は計画の中に組み込まれている。ここはお門違いだ。何の手掛かりもなく、私の死に様を見届けろ!」
充血した目を見開き、けたけたと笑う。自らの懐から懐中時計を取り出し、ラルスの眼前に突き出す。
時刻はやはり、七時十三分。
「……、私は、ただの……代償だ」
「危ないっ!」
動揺し、動けなくなったラルスを、エドワードが突き飛ばす。間一髪だった。エドワードは背中に爆風を受けて、食堂の扉の方向に向かってラルスもろとも吹き飛ばされた。ふたりは壁に叩きつけられる。煉瓦に紅い血が付いた。幸い、軽傷だ。だがゼロ距離で爆発を受けたレクトールの身体は肉片が転がるのみ。
レクトールは自らに審判を下したのだ。
「……、くそ……」
ラルスが静かに呟く。苦虫をかみつぶしたような顔と、絞り出すような声だ。
「くそがぁあああああっ!」
左手の拳骨で壁を叩いたが、鈍い音がするのみ。
本当ならば、鉄の爪が付いた右手をレクトールの喉元に突き立てたかったのに。今や、その喉元は愚か、皮の厚い憎たらしい顔さえ拝めやしない。一番恐れていた徒労という結果だ。
「ラルス、落ち着け」
「聞こえるか。王子、地獄の底で奴が笑ってる。落ち着いてなんていられるか! 怨敵に逃げられたんだぞ! ――父の仇を討てなかった……」
「……それなら、僕もだ……」
ラルスは目を見開いた。
大理石製のテーブルの影でよく見えなかったが、その向こうにひとりの男が項垂れているのを。腹を刺されて、目玉をくり抜かれている。胸部がかすかに上下していることから、一命は取り止めているが、長くはもたない。そして、起き上がる気配もない。
「……、とんだ負け戦だ。……ちくしょう……」
戦に負けた兵ふたりを、楽団が冷めた目で見降ろしている。
「それでもただで負けるわけには行かない。僕は腐っても王子様だからな」
ふて腐れた笑みを浮かべて、打ち身できしむ身体を奮い立たせ、エドワードはふらふらと歩き始めた。父のもとへ。全身に鈍い痛みを感じる。視界がぼやけていて平衡感覚が馬鹿になっている。恐らく軽い脳震盪だ。まっすぐ歩けない。
「諦めるわけいかねえだろうがよ」
だが、目の前で椅子の上に横たわる自分の父親は、もう二度と椅子から身体を起こすこともできない。
「このクソ親父が諦めてねえんだからよ」
「なんだ、その口の利き方は……」
だらりと垂れた両の手にも力が宿る気配はない。言葉をかろうじて発し、呼吸をする。口だけが消えそうな命に縋り付いている状態だ。
「けっ、口だけかよ。殴ってくれてもいいんだぜ?」
「……、殴ってくれよ。なあ、殴ってくれよ! 親父がこんな目に合っているのを知らずに、今さらのこのこやって来たバカ息子を殴ってくれよっ!」
「殴りたいさ。この手が動けば。その生意気な面が拝めれば」
「見えなくても、もう……、生意気な面は目の前だ」
互いの鼻の先がくっつくかという距離でエドワードは父親のアルドルフと見合った。アルドルフの目には眼球がなく、血がだらりと垂れて頬を汚している。見ているだけに胸に穴が開いてしまいそうだ。
「手が動かなくても、も……、持ってやる。さあ……、殴れ。はや……く殴れっ」
声が震えてしまう。瞳が潤んでしまう。
罪だ。立派な大罪だ。父親にこんな苦しみを味わせる愚息など、立派な大罪人だ。だが、アルドルフは笑った。そして、右手に宿せるなけなしの力を、愚息の頬を撫でるために使った。
「……断るよ。生意気なバカ息子への鉄槌なら、天罰で代替がつく。でも、体温は何の代替もつかない」
冷たい。間もなく精気を失うであろうことが分かってしまうほど冷たい。
エドワードは、その皺のよった手を自らの苦労の知らない手で包み込み、奥歯をぎりりと噛みしめた。頬を伝う一筋の涙でふたりの手が濡らされる。
「レクトールは、奴隷制の幹部を安息の地へと移した。これはこの国が戦乱に塗れていた時代の隠語でな。‘鉱山’を指すんだ。あそこはゲリラ部隊の潜伏先として使われていた。‘鉱山’に向かえ。本当の敵はそこにいる。もたもたするな」
「……、親父……」
「この国を背負う王として、知識も武器となることを覚えておけ。お前は、軍記も風土記もろくに読んでないだろうからな。生きて、ウンザリするほど読めばいい」
もう一度、父の冷たい手に力が籠められる。だがもう、もぞもぞと指が動くのみ。震えるという表現の方が正しいかもしれない。その端正な顔立ちを撫でるまでもなく、アルドルフの手はエドワードの手をすり抜けた。
「……、その面を拝みたかったよ。バカ息子。いい王にな……れよ……」
そして、息を潜めていたころと同じく、だらりと垂らしたままになった。また、狸寝入りか。違う。もう上下しなくなった胸がそう告げた。
「……なれるわけねえだろうが……。まだ何も教えてもらっちゃいないのに!」
屍と化した父親の胸ぐらをつかんで揺さぶったそのとき、音が聞こえた。壁が丸ごと文字盤になった飾り時計からだ。もたもたするな。父の声がエドワードの頭の中に反響する。歯車がきしむ音がする。もう一度時計が刻む音がする。
歯車がきしむ。針が動く。
時の流れに任せてではない。調子の狂った針を調節するときに使う機能だ。
それが、わざと針を乱すために使われている。楽団だ。振り返ると、楽団が演奏台から降りて、肉の壁を形成していた。壁の大時計までの道を頑なに阻んでいる。時計は出鱈目に速い審判のときまでのカウントダウンを開始していた。
もたもたするな。
もう一度、エドワードの頭の中にアルドルフの声が聞こえる。
「ラルス、ズラかるぞ!」
肉の壁をかき分けようとしていた彼に呼びかけ、エドワードは腰に挿した剣でステンドグラスの窓をぶち抜いた。それに続いてラルスも違う窓を右手の鉄の爪でぶち壊す。塔もろとも心中を決意した楽団を背中にふたりは、身のすくむような高さから飛び降りた。
人工湖の水面に高い水柱がふたつ上がったのと息を合わせるようにして、塔は炎に包まれて砕け散り、瓦礫の雨を湖面に降らせた。楽団もレクトールも、そしてアルドルフ国王も。すべては湖水に漂う藻屑と化したのだった。
(ありがとう。父上――)
*****
スタートラインの向こう側は戦場だった。
すぐさま塀の影に隠れるも、隙間からは容赦なく矢の雨が降り注ぐ。見渡す限り、石の床、石の壁。矢に火が点いていても燃え広がりそうにないのは、不幸中の幸いだろう。
「で、これからの作戦は?」
ベラがあたしに尋ねる。甲冑も着ていない丸腰の女ふたりが、戦況をひっくり返す。実現すれば、ジャンヌダルクを優に超える逸話になりそうだ。
「とにかくデカい音を出す」
なんだそりゃと笑われた。
戦況をひっくり返すと言っても、どんぱちも斬り合いもしない。第一、今城中で暴れまわっているのは、レクトールにそそのかされた友愛会の面々。彼らに罪はないことは愚か、レクトールが囲っていた奴隷制の被害者たちだ。目的は、この暴動自体を止めることにある。
「女が甲高い声を出せるからと言って、ふたりの肉声じゃ喧騒にまみれてしまう。大筒を使いましょう」
長らく城が攻め込まれるようなことはなかったが、もちろん塀には敵の侵攻を阻むための砲台がいくつかある。そして、その砲門に弾を込めるための軍用庫が屋上の小さな砦にあるはず。
矢の雨を避けながらそこまで身を屈めて走り、重い鉄の弾を転がす。そして持ち上げて大砲に入れ、ぶっぱなす。それが第一段階。そして大砲の弾と同じく軍用庫から頂戴するものの中で忘れてはいけないのが、拡声器だ。
「この矢の雨の中、大砲の弾と拡声器ねぇ」
頻りに降り注ぐ矢の雨。脚で行儀悪く、散乱していた木の板を踏みつけて引き寄せ、それを背負って矢避けに使う。ベラも板の影に隠れながら、塀の上を息を切らして走る。板に火のついた矢が刺さった。燃え盛る板。だが、それを手放せば肌に矢じりが突き刺さることになる。手が焼かれるまではこの板を手放すわけには行かない。
見えた。軍用庫のある砦だ。
姿勢を軽く跳躍し、燃えた板を投げ捨てる。丸裸になる前に、ベラに向けてアイコンタクトを送った。
転がれ。
ふたりは息を合わせて転がった。
ふたりとももう衣服はぼろぼろで泥だらけ。地下道のすえた臭いまで移っている。そんなもの構うものか。ふたりは野を駆ける童のように転がって、軍用庫に忍び込む。目的の品は、実際の戦いでもよく使う代物だ。すぐに見つかった。
「大砲の弾は?」
「ひとつもあれば十分です」
問題は楯を失った帰路だ。
短絡的な発想だが、塀のすぐ裏を匍匐前進で弾を転がしながら進む作戦をとった。矢は堀を渡る石橋の方角から一方的に降り注いでいる。石橋以外に城中に侵攻する手立てを断つ仕組みなのだから当たり前だ。そして、矢を射っているのは戦場に出たことなどのないただの労働力として使われた奴隷が大半。矢の扱いも不慣れならば、死角に潜り込むのは容易いはず。
耐えろ。近くに矢が降り注ぎ、自らの身体にその矢じりが突き立てられることを恐れても。
もがくな。喚くな。声を上げるな。
ただひたすらに前だけを見て突き進め。
岩の床を掴んで、重たい身体を引き寄せろ。膝をこすりつけろ。
ついに塀に取り付けられた、石橋の方角を向いた大砲にまでたどり着いた。ふたりで協力して、華奢な腕四本の力を振り絞る。
「せーーーのっ!!」
ガコン。そんな音を立てて大筒の中に砲弾が込められた。筒の向きを慣れない手つきで操作する。
「狙いは?」
「誰もいない方角へ。明後日の方向に向けてください」
「何ともトンチンカンな指示だこと、軍曹」
大砲の向きを明後日の方向。なにも存在しない石橋のすぐ横。人工湖の湖面に照準を向けた。あとは火種。こいつは簡単だ。塀の上に転がるまだ火がちりちり燃えている矢を導火線にあてがえばいい。
鼓膜が破れるかと思うほどの音が、床を揺るがして下腹部から突き上げるように響いた。砲撃が湖面を叩くとともに群衆のどよめき。それまで無抵抗にもひとりの兵士も現れなかった塀の上の砲門が火を噴いた。動揺し、矢をつがえる手が止むその一瞬。それを逃すな。
それを逃せば、「怯むな」という怒号とともに再び矢の雨だ。
あたしは立ち上がった。塀の上によじ登る。両手を広げ、背筋を伸ばして立ち上がった。
右の手には指示を投げかけるための拡声器。左の手には、地下で拾った拷問記録。左の掌を前に突き出し、止まれの合図とともに拡声器に宛てた口から声帯が引き裂かれんばかりの声を出した。
「止まれぇええええっ!」
賭けだ。これで止まるだなんて思っていない。
動揺に動揺を重ねろ。相手を揺さぶれ。トランプ遊びのスピードと同じだ。攻めがある限り、踏みとどまるな。
「ここにあなたたちの求める敵などいない! 奴隷制の責は、王侯貴族にはない!」
続いてベラが立ち上がり、その手に持った議会員によってバツ印をつけられたアルドルフ国王直筆の改正法案をばら撒く。アルドルフ国王が奴隷制の撤廃のため努力を繰り返してきたこと。それを全て議会が突っぱねていたことの何よりの証拠だ。法案を記した羊皮紙はひらひらと石橋の上にごった返していた暴漢どもの頭上に降り注いだ。
顔に張り付いたそれらを拭うとともに、アルドルフ国王の羽ペンで書かれた文面が目に入る。群衆の何人かが膝を折り始めた。ことの真相に気づいた者は数名でいい。あとは、とどめを刺すだけだ。
「ここに拷問記録がある。レクトール議長の監修が入ってる」
「奴隷制の主犯、拷問研究会で製本されたものだ」
まだ矢をつがえようとする者もいる。だが、それに恐れをなせば、その矢が飛んでくる。死など恐れるな。恐れていいのは、ここで踏みとどまることだけだ。その一節、最も深く刻まれる項を読み上げろ。
<五月二十日、ふたりの人形を水瓶の刑にかけた>
――人形の名はジョン・ラファエリトとその妻、メグ・ラファエリト。ふたりとも下級奴隷のラファエリト家の人間だ。四十の齢を迎え、人材としての活用が難しくなったため、水瓶の刑の試験台に処す。――
その一節を開いたのは最も説得力があると感じたからだ。声が涸れるまで叫んだ。読み上げるだなんてこれ以上ない拷問だった。でも、せめてこの悲劇が、今のこの惨劇を止めるきっかけになるならば。
――水瓶の刑三日目、水瓶の中から呻き声がする。皮膚が瓶の中の水でふやけて裂けたらしい。塩水が沁み込んでもがき苦しんでいた。ふたを開けると糞尿の匂いがした。どちらがしたものかは知らない。――
<五日目、乾いて血走った目が力なくこちらを見上げている>
――猿ぐつわを噛ませた口で物を言うのは、喉の渇きを呼ぶだけだと知ったのか。人形は無口だった。――
――やがて矢をつがえようとする手は止まっていた。石橋の上の皆は、耳を貸すようになっていた。
<七日目、ふたりとも目から精気が抜けていた>
――ただれた皮膚を蛆が喰らっている。瞬きをしているが、目をつむった一瞬。死人の顔になる。喉の渇きのせいで、見立てよりも死期が早まりそうだ。――
受け止めろ。真実を見ろ。
あなたたちが崇拝してきた友愛会の総統レクトール議長は、目の前のひとりの少女。レメト・ラファエリトの両親を惨たらしい刑にかけて、奪ったのだ。
<十日目、ふたりは眠るように息を引き取った>
――暗闇と無尽蔵の苦しみが、もがくことすら愚行と教えたのか。何とも静かな最期だった。――
「これが、お父さんとお母さんを殺した時の記録だっ」
その一節を読み上げた瞬間。声を出し過ぎて、せき込んで嘔吐いた瞬間だった。一本の矢が、あたしの肩口を射抜いた。
衝撃のあまり後ろにのけ反り、あたしの身体は仰向けになって転がった。
「レ、レメトぉおおっ!」
ベラがすぐ様駆け寄って、あたしの肩を揺さぶる。ここまで踊らされた中には、もういっそこのまま踊り狂って死のうという輩も大勢いるということだ。それでも、少しでも多くの人が踏みとどまれば、それでいい。
「少しは……、止まったかな……」
肩を震わせて答えるあたし。ベラは塀の外を一瞥して笑った。さっき矢を射った男が取り押さえられた。自らの仲間に。友愛会が暴動を放棄したのか。
「これは、ジャンヌダルクも驚くでしょうね」
「ああ。呆れかえるくらいだ」
笑った。とんだ笑い話だ。