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転調

 グラスにワインが注がれる。

 弦楽器の奏でる重厚な音色。演目はショスタコーヴィッチ、交響曲第五番。その名も「革命」と銘打たれた曲だ。

 ワインを飲みながらクラシックを嗜もうというところまでなら、好々爺らしい嗜みだ。その自らの厳かなたたずまいも交響曲の出だしの静かな印象と相まって絵になる。

 しかし、その絵には恐怖絵画のエッセンスが紛れ込んでいた。楽団に囲まれた大理石のテーブル。ちょうどレクトールと向かい合わせの位置。装飾された椅子に、そいつは深々と腰かけていた。


「知っているか。アルドルフよ」


 かつては陛下とへりくだって呼んでいたのが今や呼び捨てだ。

 ワインを片手に語る彼の中では、腹を刺され、目玉をくり抜かれた男など王はおろか、人間にも値しない。物好きにも醜い花を鑑賞するかのように、苦虫を噛み潰すような表情で渋味の濃い辛口のワインを口に含む。ごくりと喉を鳴らす。


「人をたったひとつの切り傷で殺す方法がある。まず、相手の光を奪うのさ。目玉をくり抜くのは乱暴が過ぎるが、今回は粋な演出とでも思えばいい」


 本来ならば布をかぶせて目隠しをする程度で事足りるものを、眼球そのものを抉り出した。

 そんな粋な演出家は、使用人にぬるま湯で燗をしたワインの瓶を用意させた。ホットワインというには足りない温度。恐らくは最も不味い飲み方だろう。


 そして、このぬるいワインは、飲むためのものではない。血だ。傷口から滴る赤い血だ。


 レクトールは鮮血をワイン瓶から、アルドルフ国王の腹部に開いた傷へと、たらりたらりと垂らし始めた。傷口からワインがあふれ出て床に赤い水たまりを作り始める。――傍観すれば馬鹿げている。

 渇いた傷口が濡れているように見せる。血も赤ワインというお粗末な偽装工作だ。だが、アルドルフの頭の中ではどう見えているのだろうか。


「どうだ。傷口から血が溢れ出す。止まらないぞ」


 曲調が変わった。ピアノの低い音色が加わり、金管楽器と木管楽器が追って加わる。深く底から突き上げ、津波が岸に上がり、その高さと激しさを増すがごとく、音色もそれに習っていく。


「感じるか血の温もりを。ハブ毒を仕込んでおいた。血が固まらないようにな」


 嘘っぱちだ。全部レクトールの口から出た出まかせだ。分かってはいる、分かってはいてもその皺涸れた声本来の持つ説得力が、アルドルフ国王の命をつなぎとめようとする意志そのものに威嚇する。牙を立てる。爪を食い込ませる。


 太鼓の音色が加わる。まるで軍歌のようなマーチに似た戦慄。木琴の音色。そしてまた弦楽器に先導された。目まぐるしく変わりゆく戦況のよう。だがアルドルフ国王の闇に包まれた視界に転がり込んでくる感覚は、ただひたすらに苦悶を謳っている。


 傷口から血が流れて、流れ続けて、止まらない。


 シンバルの音が鳴り響く。そのとき、巨大な針が露出した、壁そのものが文字盤となった大時計が時を刻んだ。短針と長針がぴったりと重なって、天を突く。


 夜半。日付とともに再び転調した。



 それまで握られていたアルドルフ国王の拳が力なく解かれる。すると、命の炎が消えたことを如実するように再び静寂が訪れた。静と動が繰り返される起伏に富んだ構成。だがそれを悪趣味にも、レクトールは自らの老獪な笑い声で汚した。



「革命を受け入れたか。柔い王だ。これからが始まりだというのに」



 ついに友愛会が動き始めた。静寂を奏で続ける楽団の音色に、明らかに脈絡にそぐわない猛々しいラッパの音色が遠くから飛んでくる。それを矢が風を切る音が追った。何度も。何度も。

 猛々しい唸り声を上げて数百にも及ぶ大群が石橋を強行突破。この間、息を合わせたように、騎士団の連中は市中見回りを行っている。城中では何も知らない女官たちや使用人、半奴隷制の政治家などが寝起きで事態を飲み込めず、狼狽しているのみだ。


 この上なく王侯貴族の大量虐殺に相応しい。


 演奏が止まる。新たな楽章の幕開けだ。


「さぁ……革命の始まり、皆殺しだぁああああああっ!!」


 コントラバスの重低音。ホルンの深い音色。滑り出しとは裏腹に、曲調は狂気を内包しながらも軽快さを強めていく。

 レクトールは笑った。腹を抱えて、肺をけいれんさせて、半ば過呼吸になりながら。床を何度もたたき鳴らしながら。笑い転げた。


 可笑しい。可笑しすぎる。なんて可笑しいだ。最高に皮肉な喜劇だ。


 奴隷制を憎んで起こした革命が、奴隷制反対派を惨殺し、壊滅させる。奴隷制を憎んだ革命組織が、奴隷制擁護派の政敵の息の根を止める。そうとは知らずに。自らが最も憎んだ奴隷制を保護するために剣を振るう。人を殺める。


 傑作だ。まさに傑作。全てが楽団の奏でる旋律のよう。美しい調和を奏でている。


「踊れっ! 踊り狂えっ!」


 レクトールはじたばたと半ばもがき苦しみながら尚も笑い続けている。だが、彼のあくどい笑い声も再びの転調。ヴァイオリンの美しいソロに移るとぴたりと止んだ。いや、それどころか皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして怪訝な顔つきになった。


「……。不協和音だ」


 今まで不協和音そのものの笑い声を出していた主がそう言うのは、人工湖の水面を揺るがす水音だ。


「抗いの音色だ」


 レクトールはステンドグラスをオイスターナイフで叩き割り、開いた穴から人工湖の水面を見渡した。ひとりの男が窓から時計を、湖面に向かってひたすらに投げている。何個も何個も。王子の世話係をしていたセバスだ。たったひとりで城じゅうの時計をかき集めて来たというのか。


「……、無駄だ。爆弾をいくら捨てても、城中に忍び込んだ自爆要員だけで、この城は木っ端微塵だ。無駄な抗いだ」


「――無駄ではないぞ。レクトール……」


 ――背後から声がした。

 もう開かれることなどないと思ったその口から、力強い声が確かに背中に突き刺さって来る。アルドルフ国王は死んでなどいなかった。まだ折れてなどいなかった。それを噛みしめ、レクトールは耳まで避けようかという勢いで口角を釣り上げた。


「お前にとって国民や奴隷は、ただの人形だろう。王である私でさえ、人形にしようとしていたのだから……」


 まるで政敵であるはずのアルドルフ国王が、かろうじて生きていたことを心から喜んでいるかのよう。拷問を嗜むレクトールのことだ。国王の死が約束された以上、彼の足掻き、苦しみ、口答え。その全てを‘愛しき抵抗’と称えている。レクトールは彼の自らと同じく髭を蓄えた顎を冷たい手で撫で上げる。


「黙れっ! 人形に相違ないだろうっ!」


「国王に必要なのは、お前のような生ぬるい正義ではない。正しき者。強き者の安寧のために、愚かで弱きものを代償として切り捨てる潔さ。強かさ。いわば度量だよ。打算で物事を考えられない阿呆が、口を聞くな! パスカルは人間を‘考える葦’と謳った。脳の足りないお前らは、倒れて枯れるが定めだっ!」


 その髭を掴んだ後、勢いよく引き抜いた。身悶えしながらもアルドルフは、盲目の中でレクトールの襟元を探り当て、掴んで引き寄せる。


「私は民のために考えることを止めた覚えはない。方向が正しいかどうか。お前の捻じ曲がった議会のせいで舵など取れたものじゃなかったろうが、私は進むことを止めた覚えはないぞ!」


「考えることを止めたのは、お前だ。レクトール」



 突如として、木製の扉が蹴破られた。楽団の演奏はぴたりと止み、狼狽する声が漏れ始める。人工湖に突き出したこの塔は石橋を分断すれば孤島。孤島の晩餐会に何の前触れもなく訪問客が現れれば、狼狽えないわけがない。


 誰だ。その望まぬ来訪者は。


「……そこまでだ。レクトール」


 その声が響いた瞬間、アルドルフ国王の口元に笑みが戻る。光を失った視界。だが、光そのものが消え失せたわけではない。


「お前の譜面通りに、もう事は運ばせないさ」


 そしてもうひとつの声が加わる。ふたつの声は、どちらも怒りに満ちている。レクトールは背後から聞こえる両方の声の主に勘付き、背を向けたまま天井を見上げて高らかに笑ってみせた。


「何を根拠に言っている。この私を笑い死にさせる気か? いいだろう。転調は好みだ……」


 そしてゆっくりと、ふたりに向かって振り返り、両手を広げてにんまりと嫌味たらしく微笑んだ。


「さあ、楽しませておくれ。エドワード王子。そして我が弟子……、ラルスよ」



*****


 螺旋階段を登ると、城の中の書斎に繋がっていた。城の中の部屋とだけあって、部屋のくせに、今まで知っているどの家よりも大きいくらいだ。装飾も豪華絢爛で嫌味たらしいとさえ感じる。恐らくは城の中でもかなり位の高い人物の書斎であることが見て取れる。ベラが机の上に置いてあった羊皮紙に目を落とす。法案を書き記した書簡だ。


「これは現王アルドルフの記した改正法案……?」


 そこには黒のインクでアルドルフ国王が記した改正法案が。内容は奴隷の解放と新しい身分階級制度の確立。身分階級は決して互いを睨みあうためのものではなく、互いの民としての役割を決めるものとし、常にそのための互いの邁進を怠らないとある。問題は、紅いインクでこの紙面に大きくバツ印が打たれているということだ。何の但し書きもなく、問答無用で打たれた無慈悲なバツ印。


「……、議会が奴隷制を擁護している。こんな滅茶苦茶ななやり方で」


 ベラの声は怒りに震えていた。――同じ気持ちだ。拳を手のひらに爪が食い込むほどに固く握りしめる。朱書きを入れた主の名は複数名ある。レクトール議長を始めとした議会員の面々だ。だがその中にひとつだけ、引っかかる名前があった。


‘ハロルド・ターク副議長’


「これも、レクトールの化けの皮を剥がすのに必要なはずよ」


 あたしは羊皮紙の書簡の束を抱えて、書斎を出た。副議長というレクトールのすぐ下に置かれた役職のハロルドという男の名前が脳裏にべったりと張り付いている。ラルスの話では、レクトール議長は自身の計画の中に、自らの死を組み込んでいる。

 この計画で最も息の根を止めなければならない人物。それは奴隷制の継承者。副議長という役職はまさしくそれに相応しいと思える。


 だが、ハロルドという男は誰なのか。そして今、彼はどこにいるのか。


 このふたつの疑問が解決されなければ、役に立つ情報ではない。考えても分かりそうなものではない。自分は城の中の人間のことなど、エドワード王子のことぐらいしか分らない。そんな軽薄な知識では、継承者を特定できない。


 とりあえず、今は……。今できることをするだけだ。


「ベラさん、この城の屋上まで行きましょう」


 まだ痛む脇腹を抱えながらベラも、急ぐあたしに歩幅を合わせて必死に走る。

 城の中の様子は夜半近いとはいえ、厳戒態勢ということを全く感じさせないほど人の気配がない。城の中で行動するには好都合だが、不気味だ。自分たちの足音だけが響く石造りの回廊。だがそんな静寂は、城の外から飛んできたラッパの音色によって消し飛んでしまった。


「な、何? いったい……」


 あたしは狼狽した。

 だがベラはいち早く事態を察知した。これは開戦の合図。革命は朝陽を待たずして、月の高く昇る夜半から始まろうというのだ。今この瞬間から、半日以上にもわたって城の中の者がひっきりなしに殺される。

 地獄の業火を灯すための火種が今、油の海に落とされたのだ。


 窓ガラスを割って、まさに火種を宿した炎の矢が降って来た。破片と矢を身を屈めて避けるも、悲鳴を上げている暇などない。火は足元の赤い絨毯を焦がしていた。尚も一層走る足を止めてはならない。


 膝が笑おうが、くるぶしが馬鹿になろうが知るものか。


 駆け上がれ。走れ。ただひたすらに走れ。


 石段を踏み外し、ベラが背後で声を上げて転倒した。自分のことで頭がいっぱいになりすぎていたのが仇となった。彼女は負傷している。

 あたしは、立ち止まり手を伸ばした。猛々しい唸り声、悲鳴。襲われる者と襲う者が、声帯をすり減らして声を上げる。その喧騒が近づく前に、あたしの腕で彼女の状態を引き上げる。


「悪い……、足手まといになるとはな」


 弱音が彼女の口を突いて出た途端。彼女の背後にナイフを突き立てた暴漢が現れた。その喧騒が追いついてしまった。

 

 危ない。思わず声を上げるが、あたしの手は届かない。

 

 ――だが同時に暴漢の手も届くことはなかった。


 暴漢は倒れこんで階段の段を重力に任せてずり落ちる。男の背中を引き裂いたのは一本のレイピアだった。石造りの螺旋階段に窓から差し込む月光。うっすらと顎にひげを蓄えた男がそこには立っていた。


「あ、あなたはっ……」


「ただのしがない執事ですよ」

「セバスチャン?」


 髭の男は目を細めて、若干呆れたような声を出す。


「あなた私が執事だから、セバスチャンっていう名前だろうなあって思ったでしょ? 大当たりだよ。こんちくしょう」


「な、なんかごめんなさい……」


 何故謝ってしまったのかは、自分でもよく分からない。


「謝るくらいだったら、これで最後かもしれません。下の名前まできっちり覚えておいてください」


 髭を蓄えた執事のセバスは、王子の世話役だけでなく護衛も兼ねていたようだ。レイピアに付いた血を真っ白なナプキンで拭き取り、刀身に輝きを取り戻す。レイピアを構え、落ち着きとともに力強さを内包した声で、あたしたちに背中越しに呼びかけた。


「私の名前はセバスチャン・クレイシル。ここは死守する。だから先に行けっ」



 その背中を信じ、再び走り出した。やがて階段の終わりが見えてくる。膝はもうボロボロだ。脚はもうガクガクだ。だが、城の屋上にたどり着くことだけが目的ではない。人の革をなめして作った紙の本で、奴隷の拷問を記録する。惨たらしい奴隷制をみずからの私腹のために擁護する。奴隷制を全部王侯貴族に擦り付けて、奴隷の荒んだ心につけこんで、こんな馬鹿げた暴動を起こす。


 全部、全部終止符を打ってやる。


 民の心を踏みにじった道化師の仮面を剥ぎ取ってやる。


 屋上からの友愛会による暴動はまさに阿鼻叫喚。中庭では女官が引きずり出されて、暴行を受けている。屋上にも数か所既に矢が降り注いだ跡がある。逃げ場のない屋上。人工湖に浮かぶ塔に勝るにも劣らない死地だ。


「ベラさん。行きましょう。ここからが、本当の戦いです」


「勘弁しとくれよ。エドワード王子はお前を守るために逃げろと言ったのに。こいつは男でも泣いて逃げ出すよ」


「嫌なら逃げていいですよ。あたしはたとえ独りでも行きます。男だ女だはもういいです。あたしは、あたし。生きたいように生きるし、戦いたいように戦う」


 ふて腐れたベラの笑顔をまっすぐに見つめ返して言い返す。彼女は痛む腹を抱えて大声で笑った。


「レメト、あんたは最高だ」


 そう皮肉を漏らしながら、手をつなぐ。屋上への出口が作り出す、アーチ状に湾曲した光の線。命知らずなふたりは、そのスタートラインを跨いだ。


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