薔薇の誓い
薔薇の花は掌の中に咲いていた。
その感触は温かいを通り越して熱いとさえ感じた。燃え滾るように熱い。
「本当は、その薔薇を渡すつもりだった」
あのとき、手紙とともに渡されたのは、自分を毒殺犯に仕立て上げるための偽りの花だった。
だが、自分の掌の中で咲いている花にはそんな偽りの香りも華も感じ取れない。彼の、王子の言葉がそのまま目の前で咲き誇っているかのようだった。パピルスに包まれた真っ赤な薔薇の花。その衣を剥いで棘が刺さらないように気を付けながら、茎に直に触れる。
彼の温もりが伝わってくるようだった。
「ありがとう……」
「そいつを受け取ったら、どうかここから逃げてくれ」
予想はできた言葉、それでも反発せずにはいられない。それを彼が望んでも、あたしは大人しくなんかなれないんだ。
「いいや、嬢ちゃん。ここから先には行かない方がいいぞ」
そこであたしを差し止めたのはラルスだった。彼の細い眼が見詰める先の回廊は、これまでの四角い天井ではなく、ドーム状に湾曲している。
「エドワード王子。あそこからは堀の中の人工湖に潜っているのか」
王子はこくりと頷いた。王城は四方を水を満たした掘りに囲まれており、前方には城下町へと続く石橋が。後方には人工湖に向かって突き出した石造りの塔が、同じく石橋でつながれている。この先は塔につながる道だという。
そして、王子は続ける。その石橋が爆破され、塔は人工湖にぽっかりと浮かぶ孤島になった。唯一この地下の道だけが残されている状態だと。
「ここから先は死地だ。それに、切り抜けて得られるのは現王の死に目か。くだらない落とし前か」
王子がラルスを睨み付ける。勝手に死んだと決めつけるなと。
「悪い。でも拷問研究会の中心人物とランデブーだ。どんな研究をされているか分ったものじゃないぜ。目玉をくり抜かれているかもしれない。身体のいたるところを刺され、悲鳴を上げ、喚く様を記録させているかも知れない」
「下らない脅しはやめろ」
ラルスにベラが食ってかかる。
「すまない姐さん。でも俺は本気だ。王子……。あいつは俺を修羅に仕立て上げるため、目の前で親父の首を絞め上げて殺させた。これから行くところには、‘そいつ’がいる。――覚悟しておいた方がいい」
相手の気持ちを逆なでするような態度は抜けないが、彼なりの警告の意図があったということだ。
これから向かう場所にいる敵は、容赦と言う言葉を知らない。他人の苦痛を快楽と謳う狂人だ。
「そういうわけだ。嬢ちゃんの加勢に入りたいという気持ちはありがたいが、‘犬死に’を増やすようなマネはしたくない」
「……。わかりました」
三歩後ずさりをしてしおらしい声を出し頭を下げる。そして、抑えきれず王子の胸に飛び込む。拳ひとつ分高い肩を抱きしめた。強く強く。
「帰って来てね。絶対だよ」
身体全体を包み込む温もりに、奥歯を噛みしめる。離したくない。――でもそっと肩に回した手を解いた。王子には、行かないといけない場所がある。
「待ってるから」
その言葉を受けると王子はラルスとともに、振り切るようにして走っていった。
必ず帰って来る。その言葉と胸元に押し抱いた赤い薔薇の花。
――王子の背中に想いを馳せながら、そっと呟いた。
「ごめんなさい。エドワード。ここでやるべきことがある」
「行きましょう。ベラさん。まだここには救うべき人が沢山いる」
拷問器具に囲まれて上から真っ直ぐに降りてくる螺旋階段を見つめ、そう言った。
ベラは掌で頭を抱えている。やっぱりかと。
「お前は、もはや、男泣かせの気配すらあるな」
「エドワード王子もラルスさんも戦おうとしている。だったら、あたしだって最後まで戦いたいんです」
「戦うって、どう戦う気だい?」
かと言って呆れかえっているわけではない。好戦的な笑みを浮かべる彼女の性分は、あたしとどこか似ている。彼女も黙って守られているような女ではない。いや、むしろ彼女のそれが、あたしにうつってしまったというのが正しいだろうか。
「ここが拷問研究会の心臓部だというのなら、レクトールの悪事を白日の下にさらす手がかりが見つかるかもしれない」
ここに来るまでに置き去りにしたひとりの男と約束した。世界をひっくり返してやる。それが叶わなければ、救えなかった魂、守れなかった人すべてに後ろ指を指され、笑われるのだ。
だから見つけ出さなければならない。皆がレクトールの正体を認知するきっかけとなるものを。
血の滲んだ拷問台。あの男がかけられていたものと同じ、四肢を縛りつけて四隅に置いてあるウインチで負荷をかけて引き延ばす。ユダの揺り籠。同じく四肢を拘束し、陰部または肛門を尖った金属にあてがった状態で晒し者にされる。車刑。回転する船の舵のような台に括り付けにされて、叩きゴマのごとく鞭で打たれて回され続ける。どれもこれも残酷性極まりなく、死に至るまでの過程を愉しむための悪趣味極まりないものばかり。これらの拷問器具がレクトールの指示により、使われていた証拠さえあれば。
見ているだけでむせ返るほどの惨たらしい。血痕がべったりと付いた拷問器具のまわりを調べる。きっとこの拷問台に奴隷がかけられているとき、こんな風に傷口を舐めまわすように観察していたに違いない。
観察して何をするんだ?
この組織の趣味を理解する気は毛ほどもない。だが、拷問研究会と銘打つほどの組織だ。文字通り、拷問を研究するための組織。ならば資料をつくるために手記をしていた者がいたはず。
こつり。とつま先に分厚い何かが当たった。車刑の根元に一冊の埃を被った本が転がっている。うっすらと黄色がかった白。手に取った瞬間にその色味、質感に身体が凍り付いた。紛れもなく肌だ。嘔吐くほどの嫌悪感を醸し出すその本は、人革装丁本。つまり人の皮膚をなめして作られた紙でできている。加えて奇妙なのは掌に当たる表紙の手触り。変な凹凸がある。生唾をごくりと飲み込み、表紙を目にした瞬間。背中を虫の群れが駆け回った。
「こ、これは……」
見ている。そこに眼球はないが、眼孔だけがこちらを虚ろな眼差しで見つめている。表紙に使われていたのは顔の部分の皮膚だったのだ。苦悶の表情を浮かべて、助けを懇願するようにも見て取れる。
‘拷問記録書 第四十七巻’
‘表紙は車刑で息絶えたジャン・メディスの苦悶の表情である。拷問を記録する書の表紙が拷問の苦痛を克明に表す顔で飾られるとは、まさに相応しいと言えるだろう。’
最悪だ。最悪の冗談だ。果てしなく悪趣味。
拷問で人の生皮を剥いで作った紙に拷問官の記録を取らせ、それに拷問を受けた者の苦悶の表情を浮かべる顔の表紙をつける。こんな正気の沙汰とは思えないような本をいったい誰が監修したというのか、背表紙にその人名が記されていた。
‘監修 バラナク・トーレック(Balanak Torec)’
「安い仕掛けね」
ベラはぼそりと呟いた。この不格好で聞きなれない名前は明らかな偽名。
これは初歩的なトリック。アナグラムに過ぎない。この拷問記録書は紛れもなく‘彼’が拷問官の手記を纏めたもの。その何十巻とあるうちのひとつだ。
そこには人の皮の下の化け物としての‘彼’がいる。伝えなければならない。かつてのラルスと同じように、‘彼’を妄信し、王侯貴族の虐殺を画策する友愛会の人たちに。
その正体を。
‘レクトール・アルバナク(Lector Albanak)’