揺さぶり
「全て嘘だったんだ。俺の人生は、王子を憎む暗殺者として‘仕立て上げ’られたんだ」
その声は、その瞳は静かな怒りに震えていた。ぼおぼおと煮えたぎるようなものではない。冷たい温度を連想させる青い炎だ。
「お前さんも王子に近づきたいという動機が王子の暗殺になるように‘仕立て上げ’られたんだろう? お前は、自身の気持ちではなく外面だけを仕立て上げられた。でも、心ごとそうされた俺の気持ちがお前には分かるか」
この人は王家を憎んでいたのではない。憎む以外の生き方を許されなかったのだろう。そして今、その仕立て上げられた世界の外を知った。
あたしだってそうだ。
仕立て上げられた世界はあたしを守ってくれた。彼が王子を憎む世界で守られていたように。その世界の外に放り出され、戸惑いながらも彼は生きようとしている。今まで王子を憎んできた過去を振り払い、真の敵を見定めようとしている。
彼には警戒心を抱いてきた。人の懐にずかずかと入り込んでくるような話し方。意図の読めない常ににやついた表情。警戒心を相手に抱かせることで自分に予防線を張っているのではと思ってしまうほど。でも本当の彼を知ってしまった今、気持ちは同じだ。
『そこまでして王子を信じるってんなら、この国ごとひっくり返すくらいに信じてみるってのも悪かないだろ』
浅はかだろうか。つまらない淡い憧れだろうか。それでもせめて、この自分を囲っていたちっぽけな檻ぐらいはひっくり返したい。
「ラルスさん、協力させてくださいっ」
歯を噛みしめて深々と頭を下げると、頭上から笑い声が降り注いできた。何が可笑しかったのか。
相変わらず瞳の細い眼。意図が読めない。そう思ったとき、その眼は見開かれた。その真っ直ぐな瞳は、誠を示していた。
「お前さんは面白い人だ。王子が惚れているのも分かるよ」
腹を抱えて笑う声が複雑に入り組んだ地下空間に共鳴する。
あたしの何が面白いというんだ?
「お前さんを助けるふりをした。王子を謀ろうとした性が抜けない。俺は不届きものだ」
「お、お前……。レメトを謀ったのかっ!」
ベラが大きな声をあげる。助けるふり?
ではベラが負傷して、それを介抱したのもすべて。偽りだったとでもいうのだろうか。いや、もう彼の眼は人を謀るためのものではない。彼の本心を伝えるものになっている。うそぶいているのは彼の唇。
「いや、俺の助けがなかったら二人とも殺されていたよ。その恩義を利用して自らの怨敵をつぶすのに加担させようとしていた。そんな俺の下心に気づきもせずに、この不届きものに頭を下げたんだ」
「俺の‘完敗’だよ」
そこにいたのはあの胡散臭い皮を被った男ではない。
偽悪者。儀悪者は高い背を曲げ、あたしの前に跪き、上目遣いで真っ直ぐにこちらを覗き込んできた。
「今ここで誓おう。お前たちをこれ以上誰にも傷つけさせないと。そして王子もだ。俺は偽りなど脱ぎ捨てる」
「これからは本当の‘王族直属の護衛係’だ」
目の前で人が変わったかのような言動を続けるラルス。
ベラはまた謀られたとも、拍子抜けを喰らわされたとも取れるような表情。ここに来てからずっと、あたしのことを守ろうとしているから過敏になってしまっているのだろう。でももう大丈夫だ。
彼の本心も分かった。ベラの激励もこの胸に届いた。――だから、答えないといけない。
あたしは、もう守られるだけじゃないよ。変えてやる。
「……ベラさん、あたし決めたんだ」
この国ごとひっくり返してやる。
「何をだ?」
「ラルスさんを謀った友愛会も、あたしたちを苦しめた拷問研究会も一泡吹かせて、国をひっくり返すんです。そして、あの王子に突き出してやりましょう」
口角がつり上がり、白い歯がギラリと見えているのだろう。
自分ではもう慣れっこのつもりだが、ちっとも女の子らしくない。悪童のような笑みだ。ベラは笑った。しようのない子だと。
あたしたち三人は、カタコンベの地下空間をひたすらに歩いた。途中爆撃音が轟いたときはひやりとした。水気が多くかび臭い。そして、口に出すのは憚れるが汚物の匂いがする。
このカタコンベは下水工事のために掘られたところに宗教集団の隠れ家になったり、集合墓地になったりして今に至る。下水道の一部は今も機能しており、民や王侯貴族の生活を支える柱となっている。この鼻を刺すすえた臭いにも納得だ。だからこそ、爆撃音で地下空間が激しく揺さぶられた際は、自分たちが押しつぶされるのでは。どこからか水が注ぎ込み、溺れ死ぬのではと思ってしまった。
何とか生き延びている。
「この先は?」
「おそらく城のどこかに繋がっているはずだ」
そしてどれほど恐れがあっても、脚が歩みを止めない。
かすかに感じていた納得できない臭いが強まっていく。腐臭だ。明らかに人の肉が腐ったおぞましい臭いがする。
思わずせき込み、嘔吐きそうになるほど臭いは強いが、その正体を確かめたいという願望が足取りを早めさせて行く。気が付けば、あたしは先頭を切って歩くようになっていた。声が聞こえる。苦痛に喘ぐ男の声だ。
父もこんな声を出していたのだろうか。
この鬱屈した地下道で、あたしの両親もラルスの父親も拷問の研究などという、この上なく趣味の悪い遊びに付き合わされて亡くなった。そんな残酷な人形はこれ以上増えないでほしい。
ぱしゃり。ぱしゃり。
地面に浅く張った水は汚れている。自分の姿が見えないわずかな松明の明かりだけの暗がり。ベラに貸してもらった服はとっくに泥だらけ。申し訳なく思う心の余裕さえなく、あたしの頭の中は「遠くの闇の帳の中から喘ぐ声の主が誰か」という疑問でいっぱいだった。
走る。走る。
その声は大きくなる。自分の傍に誰かが来ることをひたすらに希うその声は。
カビの生えた脆い木の扉を乱暴に開けると、声の主はいた。思わずあたしは松明を地面に落としてしまった。男は四肢を鎖で縛られていた。それも腕は肩から、脚は股関節から。絶対に引き剥がせないように内側に刃の突き出した鉄の輪が、男の皮膚にがぶりと噛みついている。流れる血は刃の周りで固まって流れていない。その傷口に蛆が集っている。
ばきり。ばきり。骨がきしむ悲鳴。
『お前は言ったな。この国をひっくり返すと』
あたしはその声を知らない。その姿も知らない。名前だけしか知らない。
『この私を差し置いてそんなことさせるものか』
でも、その男の無残な姿を見るだけで、あたしは思い知らされた。
ひどい。うんざりするほどに。ひどい。
鎖でつながれた先は床を這って壁を登っている。残酷だ。その鎖が重たい鉛の吊り天井に繋がっている。
『やってみろ。今ここで、そいつを見捨てて、ここを通ってみろ』
惨い。あまりにも惨い……。その年老いた男、レクトールは想像を絶するほど。
「レ……、レクトールぅううううううううっ!!」