悪の繁栄
確信を持つとともに、エドワードの心には怒りがこみあげてきた。民を苦しめるためだけの奴隷制を、自分の父は頑なに撤廃しようとしてきたのに。
それを阻んできたのは、王の腕として政治の指揮をとってきたレクトール議長だというのだ。民意をくみ取るなどという耳当たりの良い文句を並べ、その実は奴隷制に反対する民意も王の意志さえも突き返すために徒党を組んだに過ぎない。彼は自分の父が頭を捻りに捻って書いた法案を、嘲笑いながら破いていたというのか。
エドワードは拳を握りしめる。自分は何も知らなかった。何も知ろうとはしなかった。どうすればこの国は良くなるのか。国という名の船の進む道をどれほど父は思い悩んでいたのかということさえ。その全てをレクトールが隣でへし折っていたのかと思うと、いよいよ手のひらに爪が深く食い込んでいく。
そして、レクトールが囲っていた奴隷制により、レメトは人身売買の商品とされて鉱山に売り飛ばされたのだ。彼女の父親も母親も。
「……、させない。継承なんてさせるかよ。確かに俺は、国のことなんて何も知らない。何もわからない。でも――」
「あいつの笑顔さえ守れない国の王など、俺は御免だ」
エドワードの決意にセバスは腹を抱えて笑った。せっかく真面目な話をしているのにそれを笑うとは何事か。
「な、なにがおかしい!」
「おかしいですよ。惚れた女ひとりのために国の舵を取ろうと言うんですから。これはとんだ愚君の誕生だ。でも、それでいいかもしれません。今の今までこの国は、誰ひとりとして笑わせたことがないのですから」
「なんか、居心地悪いな」
素直な言葉ではないが、セバスから褒められるのは慣れていない。鼻の頭を指の腹でこすりながら、ふて腐れた笑みを浮かべる。
奴隷制継承の計画が実行段階に入ったということは、現王アルドルフも王子エドワードも‘捨て時’と見定められたということ。‘審判のとき’が訪れれば、奴隷制の反対派の王侯貴族は、友愛会のテロに巻き込まれてこの王城ごとお陀仏だ。
そうなる前に、ひとりでも多くの命を救わねばならない。
エドワードが、決意を固めたとき、城下町の端から端まで響き渡るかのような爆撃音が轟いた。この国ではその災害は珍しいが、例えるならば震源地の浅い大きな地震が襲ってきたかのようだった。ぐらりとよろめくエドワードの肩をセバスが支える。どこか街中で爆発が起きた。事態を理解するとともに、エドワードは悟る。これはほんの始まりに過ぎないと。セバスにもそれは分かった。
いよいよ始まったのだ。ここから明日の夜七時十三分まで。長い長い一日が始まった。
何よりも優先すべきは、現王アルドルフにことの全てを伝えることだ。たとえ、レクトールを打ち倒しても、守るべき国は残る。
そして何よりも、彼はエドワードの父親だ。
セバスとともに自室を出たエドワード。先程の街中の爆発騒ぎが城の中も騒々しくさせていた。この厳戒態勢の中、市中見回りに兵を裂けという指示が出る。「誰が行く」、「お前がいけ」などといったやり取りはなく、市中見回りへの人選は円滑に行われた。
街中での爆発騒ぎ様子を見るために兵を回せば、当然城中は手薄にはなる。レクトール側の工作だとすれば、手薄になった城中で行動するのは罠にかかりに行くようなものかもしれない。しかし、だからと言って、自分の部屋という鳥かごの中で大人しく死を待つ気など毛頭ない。
エドワードは先を急いだ。普段は気にも留めない時計がやけに目に入る。タイムリミットがあるというのもだが、心なしか城中にあった時計の数が増えている気がする。それに。
「セバス、今は何時だ」
言われるがままに懐中時計を確認するセバス。
そして、回廊に置いてあった柱時計の針が示す時間と、自分の時計の時間を見比べる。セバスの時計は六時三十分を指していた。だが、柱時計が指していたのは七時三十二分。一時間ほど狂っている。それに、針の音がやけに大きい。
奇妙だ。不気味だ。これは意図的に仕組まれたものではなかろうか。
エドワードの脳裏を嫌な予感が駆け巡る。
柱時計の向かいにも壁掛け時計がある。よくよく考えれば、こんなにも近くの距離で時計が向き合わせられているのもおかしな話。そして、その壁掛けの時計もなぜか七時三十二分を指している。
「セバス、こいつはどういうことだ……? 城中には不気味なほど時計が多い。それに時間も狂っている」
「おそらく全て友愛会の仕掛けた爆弾かと」
そこまでは予想がつく。しかし、なぜその時計は狂っているのか。セバスは柱時計の中で規則的に揺れる振り子を手で止めてみた。狙い通り、動力であるはずの振り子を止めても、針は廻り続ける。ラルスの懐中時計もそうだった。
複雑に歯車が絡み合っており、そのひとつひとつに摩擦で火花が出るように細工がしてあった。下手に解体しようとすれば爆発する仕掛け。ラルスが床に落として、蓋が外れた際に爆発しなかったのが不思議なくらいの代物だった。おそらく、それと同じ仕掛けがこの柱時計にも施されている。そして、その時計がずれているということは。
アルドルフ国王のいる謁見の間の時計は、いったい何時を指しているのだろうか。
同じ疑問が同時にふたりの頭の中に浮かんだ。ふたりは走り出す。向かう先は、アルドルフ国王の玉座が鎮座する謁見の間だ。エドワードはその扉を半ば体当たりするかのように勢いよく開けた。人の背丈の倍はあろうかという巨大な木製の扉が開かれる。ここまで走って来て、肩で息をするエドワード。
「何事か」
そう心配する父親の姿は、そこにはなかった。エドワードは狼狽した。国王アルドルフが頭を捻くりまわして考えた法案を書き連ねた書簡の散らかる書斎机。主のいない空の玉座。国王がいたという形跡しか、そこにはなかったのだ。
「……、父上はどこに……」
エドワードがぼそりと呟いた一言に、セバスは答えることが出来ない。彼もここの玉座にいつも通り王がいると思っていたからだ。いつもそうしているように、羽ペンを片手に紙面と睨みあい、法学の本を山積みにして頻りに唸っている彼の姿がそこにあるはずだと思っていた。
ぞわり。背中を虫が這うような感触がした。
セバスは謁見の間の窓から外を見渡す。エドワードがついこの前中庭に向かって飛び降りたあの窓とは反対側。城の背後にある堀に水を満たした人工湖の方角だ。人工湖に城から石橋でつながれた塔がせり出している。当の最上階には豪華絢爛なつくりの食堂がある。レクトール議長との奇妙な食事会はそこで行われる予定だった。
「食事とともに陛下と政の話がしたい」
食事会を申し込んだときのレクトールのしわがれた声が脳裏に響く。その食事会が一日早く繰り上げられたというのか。いったい何のために。
(まさか……、ラルスの反目がレクトールに割れたのか)
「……これは、まずいな」
「なにがだ、セバス?」
「アルドルフ国王は今、レクトールの手の中かもしれない」
その憶測は奇しくも当たったことになる。再び爆撃音が轟いた。かなり近く。城の敷地内であることは明らかだ。そして、人工湖を視界に入れていたセバスには、その光景が目に入った。、煙に包まれてガラガラと崩れゆく石橋が体現していた。
アルドルフ国王がレクトールの手中にあることを。
「国王陛下、肩に力が入っておられますよ」
人工湖に向かって突き出た塔。この食事会の会場となっている豪華絢爛な食堂からは、城内が一望できる。城の中で一番高い建物だ。
レクトール議長が設計したこの塔にアルドルフ国王は招待されていた。設計者である彼はこの場所がお気に入りらしいが、アルドルフ国王にとってはここが居心地が悪い。金箔で縁どられた大理石のテーブルに料理人が腕を振るったご馳走が所狭しと並べられている。
「レクトール議長、食事会は明日ではなかったのか」
レクトールは皺のよった顔をくしゃりと歪めた。
食事会を始めて早々、不服を言うのかと。陛下をもてなすために楽団による演奏もつけている。料理も催事の際のものに引けを取らないほどの逸品だ。
「そ、それに関しては不服があるわけではない……」
「今、王都には王子を毒殺しようとした娘が出たって騒ぎでこの王城にも厳戒態勢が敷かれているでしょう。だからこそ、一刻も早く大事な話をしておきたかったのですよ」
「大事な……話……?」
「ええ。陛下様はご即位よりずっと奴隷制を廃止する法案を完成させるべくその手にペンを握られてきた。私たち議会もそれに貢献しようとしてきたが、何も大事をなせなかった。それがなぜだか分りますか?」
「奴隷は、国の富だからですよ」
レクトールは氷のように冷たい微笑みを皺枯れた顔面に浮かべた。その表情に陛下に対する敬意は上っ面でさえ感じ取れない。そこにあるのは国の王たる人をも見下した老獪な悪人そのもの。
アルドルフ国王は憤怒した。
民を苦しめる奴隷制。階級制度が生んだ富などまやかしに過ぎない。そんな差別や支配制度によって育まれた卑しい富など、この国にはもう必要ない。そう反論すればするほど、皺のよった顔には青筋が走り、静脈が浮き出て、瞳は赤く充血した。
「ぬるい……ぬるいんだよ……。お前は王としてぬるすぎるのさ」
国王に対しての敬意は、彼の人間性とともにどこかへ吹き飛んだ。
大理石のテーブルを勢いよく皺だらけの手で打ち鳴らし、楽団に向かって声高に叫んだ。「曲を変えろ」と。楽団は一斉に演奏をぴたりとやめた後、すぐさま楽器を持ち直して、演奏を始めた。
――穏やかだった曲調は一変して、嵐の前の不穏な調べへと変わった。
アルドルフ国王の中の緊張とともに、ヴァイオリンの音色も張り詰めたものへと変わっていく。
弦をこする際に弓のテグスが悲鳴を上げる。背中を虫が這うような音だ。
コントラバスがそこから突き上げて心臓をまさぐるような音を出し、チェロの音色が床を這い回る。アルドルフ国王は、異様な旋律に椅子に磔にされたがごとく、動けなくなってしまっていた。催眠術にでもかけられたのか。
そんな不甲斐ないアルドルフ国王の視界の中で、ゆらりとレクトールは立ち上がった。手には、食事会の逸品のひとつとして並べられていたカキを食べるためのオイスターナイフが逆手に握られている。
アルドルフ国王は生唾を飲み込み、ごくりと音を鳴らした。
その音色が緊張の旋律に色を添えていく。時計の針が動く音色。音色の間の不気味な静寂さえ、この‘生殺し’としか形容しようのない旋律のための楽器と化していた。
「私はこの塔が好きだ。奴隷制によって反映してきたこの国家の偉大さを踏みにじろうとするお前を目下にできる。お前の顔を見ると、お前の偉大な父との差に嫌気が挿す」
「何が偉大だっ! 奴隷制を産んだ暴君ではないか!」
「人形が口をたたくなぁああああっ!」
レクトールは怒りのままに、振りかぶったオイスターナイフをアルドルフ国王の太ももへと一直線に振り下ろした。衣服を貫いてざっくりと突き刺さった刃の根元から動脈に開いた穴を縫って流れ出てきた鮮血が溢れる。どくどくと脈打ち、疼きながらだらだらと滴り落ち、石造りの床の上に血だまりを作り始める。
アルドルフ国王は叫び、喚き、もがいた。
それをレクトールが腹を抱えて、背を反らせながら嘲り笑った。
「いいっ! いい声で鳴くなぁあっ! まるでファラリスの雄牛が如く甘美な音色だっ! あはっ! ふはははっ!」
間髪入れず太ももから引き抜いて今度は肩口へと振り下ろす。
痛みにもがき苦しむアルドルフ国王は椅子から転げ落ちた。まるで玉座から降ろされたようだ。いい気味だ。引きつった笑いを浮かべるレクトールはアルドルフ国王の脚に縋り付いて、両のアキレス腱をオイスターナイフでかっ裂いた。その足を奪ったのだ。
さらに、アルドルフ国王の身体にまたがり、その動きを完全に取り押さえる。
――曲調は激しさを増し、嵐が訪れようとしていた。
「どうだ。今の無力な気分はっ、王座を蹴落とされた気分は! もとよりこの国の富そのものを廃止しようとしたお前に、王としての権利など最初からなかったがなあっ!」
「そうか……。王の勅令の廃止は、政敵である私から権限を奪うため。民意を無視して王が暴走した際の抑止力ではなく……、レクトール……、お前が暴れるたに私を抑止していたのか」
「ああ。そのために議会なんぞというおもちゃ箱も使ってねえ。いろいろと取り繕うのも大変だったよ。でもそれも終わりだ。奴隷制を王家ごと滅ぼそうとする友愛会の手によって、この城は落城する。奴隷制廃止に足掻きながら、奴隷制廃止のために殺されて。なのに奴隷制がそのまま生き残り続ける。これは最高の皮肉じゃないかっ!」
「友愛会が私を殺すのなら、お前も道連れだっ」
「だから、お前はぬるいんだよっ!」
肩に刺さった刃は今度は下腹部に突き刺され、体重をかけて肉の奥深くまで抉りこまされる。
レクトールはこの抵抗できないままの男の身体を、旋律に合わせて刺傷する行為にまるで性的な快感を覚えているかのような恍惚した表情を浮かべる。
「この私の死は、‘奴隷制継承’の儀式に必要なものだ。お前はこの私とともにこの城ごと沈むのだっ! 悪政を産んだ政治の負の遺産としてなぁ! そして、友愛会は革命に現を抜かす間もなく爆死だっ! 友愛会にはこの城に仕掛けたものと同じ大量の時限爆弾を携帯させてある! この城を落城させる審判のときを知らせるための確認のためとしてなぁ!」
「いい筋書きだろう? 友愛会の総統としてこの私を崇めながら。私の仕掛けた爆弾によって死ぬなんて。この国の富を滅ぼそうとする愚人どもは、皆殺しだぁあっ!」
「そして、継承者たちは‘安息の地’へとしばしの逃亡。再びここに帰還し、革命の夢の跡で再び奴隷制の国家を立ち上げるだろう。それが歴史のあるべき姿。独裁制に革命を起こすも再び独裁制に転げ落ちる。そのセオリーを以って、奴隷制を守り抜くのさ。――これは偉大なるお前の父親が教えてくれたんだよ」
「すべての手筈は整った。だから……」
レクトールは下腹部に刺したオイスターナイフを引き抜き、滴る血を口中へと注ぎ、乾いた唇に舌なめずり。けたけたと笑いながら、汚い過呼吸気味の息遣いを暗く重たく激しい旋律に乗せる。血にまみれて息も絶え絶えの衰弱したアルドルフ国王の瞳の中で、レクトールはこれまでにもないほどの生き生きとした表情を浮かべていた。
しかし、その姿は人間ではない。人の命をがりがりとやすりで削るような拷問に興奮を覚える禍々しい化け物だ。
「私の拷問の研究に付き合ってくれ……」
「拷問研究会ってのも私はやっていてねえ。奴隷制で使い古した奴隷を玩具にするところなんだけど。拷問って奴はいいねえ……。抵抗もないままに死への恐怖に蒼白して喘いでいる様を見ると――無様すぎてたまらないんだっ!」
今度は左眼に刃を突き刺した。
「ぬぐぁあああっ!」
「ふふ……、ふは、ふぬははははっ!」
まるでカキの貝殻の間に刃を食い込ませるように眼球に突き刺した刃をこねくり回し、その貝を開くようにしてずぶずぶと傷口を広げていく。さらに右眼もだ。アルドルフ国王の光はついに奪われた。
失明者が見る視界は真っ白な光の中と形容されることもあるが、眼球そのものを抉り出された彼の視界は恐らく闇そのものだろう。闇の中で響く陰鬱な音色の中に、爆撃音が木霊した。それに続くがらがらと何かが崩れ落ちる音。地響きで塔が揺れている。アルドルフ国王は悟った。この塔はたった一つの石橋で城と繋がれている。
それが分断された。ここは人工湖に浮かぶ孤島となったのだ。
「王子エドワード! 聞こえているか! お前の父親が死にそうだぞっ!」