黒幕
蹄鉄と十字架を組み合わせた友愛会の紋章は、彼の靴底で踏みつけられ、へしゃげた。人骨を積み上げられた壁に垂れ下がる羊の垂れ皮の幕に書かれてあるとおり、このカタコンベは友愛会のアジトだ。ラルスは組織の一員として忠誠を誓っていたはずだ。だがなぜ今はそれに敵意を向けているのか。化けの皮を剥がしてやる。そう言ったレクトールは、彼が最も忠誠を誓っていただろう人だ。
「俺があんたの肩を持ったことに意見はあるだろうが、今はあとだ」
彼は、刺傷を受けたベラの脇腹に自らの衣服の一部を剥ぎ取って止血帯を施した。ベラはまだ警戒心を持ちつつも、とりあえず礼を言う。
それから彼は、もはやかつての忠誠心との決別を表すように、垂れ幕を鉄の爪で引き裂いた。そして露わになった垂れ幕の向こう側。奇妙な鉄製のレバーが姿を現す。湿り気の多い地下のせいか、赤い錆が目立つが、固まっているわけではない。それにちょうど、レバーの手をかける箇所だけ、綺麗に赤錆が禿げている。何者かによって使われた形跡だ。
彼もそれに習い、レバーを一思いに下におろした。
歯車がきしむ音と地響きがする。冒険小説で見られるような、隠し通路が現れる大仕掛けだ。
「……、この友愛会には文字通り裏があるということさ」
背後の円を何等分にもしたような模様の石造りの床。その一枚一枚が下に下がり、地下のさらに奥底へと続く螺旋階段に姿を変えた。
そして、現れた階下からは、人の呻く声がかすかに聞こえる。それを耳が捉えた瞬間、言いようのない嫌悪感があたしの中に沸き起こった。
この奥には、おぞましい何かがある。
「こ……、これは……」
「見たければ、あんたの両親が死んだ水瓶も見せてやろうか」
「ラルスと言ったか。レメトをむやみに刺激しないでくれるか」
ベラが刺傷を受けた脇腹を押さえながら言う。ラルスの相も変わらず、人の心にずかずかと入ってくるような発言が気に入らないようだ。しかし、彼も彼で、あたしをからかっているだけとも思えない。なにより、主のしれない呻き声がそう思わさせる。
この階下に広がるものは、正真正銘の地獄だと。
生唾をごくりと飲み込み、ラルスの先導に従って、ゆっくりゆっくりと降りていく。
階下にたどり着くと同時に、そこから長く横方向に続く回廊が見え、その奥から人肉が腐ったようなすえた臭いが漂ってくる。呻き声とともに。
「確信した。この奥はやはり、拷問研究会の本拠地だ」
拷問研究会。忘れもしない。自分を売りとばした地主が口にしていた。あたしの両親を惨たらしい拷問の末、死に至らしめた組織だ。奴隷を管理し、道具として価値がなくなれば玩具として拷問にかける。
「奴隷制の温床。友愛会の最大の敵は友愛会と内通していたのさ。こともあろうに、総統のレクトール議長を介してね」
「ちょっと待て。議会は民意を政治に取り入れるための組織ではなかったのか」
ベラが疑問の声をあげる。いくら貴族が奴隷制により搾取された金銭の恩恵を受けていようが、民意としては奴隷制は撤廃の方向のはず。
その民意を政治に反映させることが存在理由であるはずの議会を取りまとめる男に暗雲が立ち込め始める。それも、奴隷制撤廃のために国を転覆させんとする過激派団体とのつながりと、奴隷制の温床との内通。友愛会と拷問研究会という対立組織の間を渡り歩く矛盾に満ちた黒い導線。
ベラの額を冷汗がたらりと流れる。
ラルスは口を歪めてさらに続ける。自分が最も慕っていた師の正体を。
「レクトール議長は、二十年前のクーデターで先代の王を殺した」
*****
城には既に厳戒態勢が敷かれ、王国騎士団による重厚な警備がなされていた。
幸い、もとより王城の職員たるセバスには大した影響はない。王子の世話を十八年にもわたり世話をしてきた身だ。
(取り繕えばいい。私はこの国を知ってしまった。それを知られなければいいだけだ。そして、王子に伝えなければならない)
「城内に王子が連れ戻されたとのこと、遅ればせながらお聞きいたしました。王子の身の回りの世話を任されておりながら、このような形での帰還となったことを、誠にお詫び申し上げます」
城門前で槍を構える騎士たちの前に跪く。
彼らは互いに目配せをした後、城門の大扉をゆっくりと開けた。セバスを迎え入れるようにして開く大扉。いつもとはその耳に響く音の意味合いが違う。
セバスの状況を表すのならば、‘知りすぎていた男’というフレーズがふさわしいだろうが、彼はケ・セラ・セラを歌うほど気楽ではなかった。
重たい影を背中に感じながらも、いつものように取り繕い、王城の奥へと忍び込む。忍び込むという表現をするのは今日限りだ。階段を登る足取りが重い。
たどり着いた部屋で、王子は項垂れていた。
あの能天気で世間知らずな王子からは想像もできないほど、鬱屈とした顔つきだ。別人ではないかとさえ思えるほど。だが、セバスがこれから彼につきつける事実は、彼にどんな印象を与えるか。幼少の頃から面倒を見てきたセバスにとっても予測不能だった。
「セバス、戻ったか」
落胆に満ちた声だ。
無理もない。文通相手が自分に毒を盛ってきたというのだから。それについては、今から「彼女はシロだ」と明かすつもりだ。
だがその後の知らせはすこぶる悪いものだ。「良いニュースと悪いニュースがある。どちらから先に聞きたい?」というお決まりのフレーズが出てきそうだ。だが、当の本人は神妙な顔つきで、そんな洒落たフレーズが唇から出てきそうにはない。
「……。結局……、僕は憎まれていただけなのか。セバス、この国は王侯貴族がひどく憎まれているようだな」
少し前にラルスがそうしていたように、窓枠に腰かけて硝子の向こうの月を仰いでいる。悲しみに濁った瞳。蒼い月明かりが、王子の白い肌に色を添えて彼の憂鬱な心情を如実しているようだった。
「彼女のことならば気に病むことはありません。彼女があなたに毒を盛ろうとしたというのは、ただのでっちあげです」
王子の瞳の濁りが一気に晴れ上がり、澄んだ青が戻る。
しかし、再び眉間にしわが寄って怪訝な顔つきとなる。誰がなんのためにそんな工作をしたのか。始めはセバスにも分からなかった。
だが、セバスとラルス、ふたりが互いの情報を持ち寄ったことで、神話上の合成怪物キマイラのごとく禍々しい事実が明らかになったのだ。
ラルスは友愛会の導線をつかって、王子からレメトへの身分差を越えた文通を成立させていた。
彼自身が届けに行ったわけではないので、仲介人物が何人か入っている。そのうちの誰かが工作をし、偽物の手紙を渡した。だから、レメトは待ち合わせ場所に現れることが出来なかった。
恐らく彼女が持っていた毒草とやらは手紙に仕込まれていたものだろう。王子が同じくそうした赤いバラの花のように。
王子の命を狙う者が街に現れた。
その事実が欲しかった。
――結果として王城は厳戒態勢に入り、王国騎士達による厳重な守りが敷かれた。王国騎士団は、騎士団長のハロルド・タークを含め、レクトール議長の忠実な下部。
つまり、今のこの王城は、王子エドワードおよび、国王アルドルフを守るというハッタリのもと、レクトール議長の手のひらの上にある。おまけに友愛会により大量の爆弾を仕掛けられた‘沈み行く船’にだ。‘沈み行く船’を守る騎士たちは爆弾のことも審判のときの大量虐殺も知らない。彼らは王侯貴族とともに墓に入れられる‘兵馬俑’に過ぎないのだ。
「この城じゅうに時計仕掛けの爆弾が仕掛けられているというのか。審判のときとは、何時なんだ?」
「明日の午後七時十三分。忌み数の入った時刻に爆発する」
王子は生唾をごくりと飲み込んだ。レメトが王子に毒を盛ろうとしていることがでっち上げだろうが、結局は命を狙われていることに変わりはない。
「……、友愛会とやらを動かしているのはレクトール議長か。そうすると僕も父さんも、レクトール議長に狙われていると」
「ええ。あなたの父上である国王陛下は、奴隷制の撤廃を進めている。だがすべてレクトール議長が議会で突き返している。民意をくみ取るための組織が、奴隷制を囲うために機能している」
矛盾に満ちた事実に王子は口を歪める。
「……レメトは奴隷階級だ……。僕もそれを知って、奴隷制なんて無くなればいいのにとようやく思ってきた。父さんもそれを望んでたっていうなら、議会が跳ね除けようが押し通せばいいだろうがよっ! 国王ならそれができるんじゃねえのか!」
「国王は法律を作ることが出来ても行使できない。‘勅令’を下す権利が議会に剥奪されたからだ」
言葉を紡ぎ出すごとに湧き上がる怒り。しかし、セバスの言葉によってそれは失望に変わってしまった。法律を作ることが出来ても行使できない。これでは国を治める王とは名ばかりの、ただの飾り人形ではないか。
飾り人形のままガラスケースの中で足掻く様子を、レクトールは外から眺めて楽しんでいたとでもいうのか。そう考えると、国王の不甲斐なさよりもいよいよレクトールに対する敵意が、王子の中でざわめきはじめる。
セバスはさらに続けた。国王が飾り人形になった経緯を。
先代の国王は拷問研究会を発足し、身分階級を固定化。家名により階級が末代まで決まるという悪政のもと、大量の奴隷を国力として資産を築き上げた。
金の多くは拷問研究会のもとになだれ込み、文字通り拷問を研究するために使われた。最低階級の奴隷や、年老いた奴隷が検体として用いられた。
その結果、薬学や外科手術、解剖学。兵器開発が急速に進んだのは、何とも皮肉な話。しかし、もちろんこんな悪政の極みが民衆の怒りを買うのに時間はかからなかった。レクトールは、そこで友愛会を設立した。奴隷制を不道徳と考える者、その被害を被った者をより集め、クーデターを計画した。
だが、このときには既に、レクトールには奴隷制を産んだ先代の国王の息がかかっていたのだ。奴隷制を廃するためのクーデターが見せかけでしかなかったことは、奴隷制がしぶとく息づいている現在が証明している。先代の国王は奴隷制が長く続くためにレクトールを革命のヒーローに仕立て上げた。そして、レクトールも革命のヒーローを演じ切り、先代の国王の左胸を剣で貫いたのだ。
――その後の手筈は、先代の国王に全て吹き込まれた後。
クーデターとは名ばかり。本当の役割は、‘奴隷制の継承の儀式’だった。これが行われたのが、今からさかのぼること二十年前。
――その後は手筈通りに物事を勧めた。
先代の王の息子にあたるアルドルフの頭上に王冠が輝いた。だが、彼が奴隷制撤廃を主張していたことはかなり有名。王位継承のときにして既に成人して政治活動も積極的に行い、先代の父親とは常に対立してきた。
奴隷制の継承を受けていたレクトールには、彼の政治権力を剥奪することが何よりも先決だった。レクトールは革命のヒーローのままとして、アルドルフ国王に近づき、民意をくみ取るために法案を議論する議会の設立を提案した。法案は必ず議会を通してから行使される。
国王の勅令は悪政を産む危険があるから廃止すべきだ。レクトールの口車に乗せられて、国王アルドルフはまんまと首を横に振った。その議会が奴隷制を囲うために機能することになると知らぬままに。
「……。今の僕たちの状況は、ふたたび継承の儀式が、始まろうとしているということか」
セバスは目を見開いた。そこまでは考えが至らなかった。
‘審判のとき’は政敵をこの王城ごと消し去るため。しかし、よくよく考えれば、その時刻は国王アルドルフとレクトール議長は、食事会を開いている。‘沈み行く船’に同乗しているというわけだ。てっきり爆発前に城を離れるのかと思っていたが、違う。王子の読みで、ある確信が生まれた。
レクトール議長は、先代の国王が行った奴隷制継承の儀式を再び行うつもりだと。
「もう、継承者は決まっているということか」