はじまり
「……ごめんなさい。あなたを男の子に産めなくてごめんなさい」
なぜ、母親がそんなことを自分に言ったかは分らない。
その言葉通り、確かにあたしは女だ。そんなことは分かっていたけど、母親がそう言った意味が分からず、問いかけた。
「……女はね、奴隷階級に生まれれば、身体を売らなきゃいけなくなるかもしれない。あなたには……、そうなって欲しくない……。この国では奴隷の子は奴隷。男に産まれようが女に産まれようが奴隷であることを引きずって、それを子供にまで引きずらせるの。奴隷は、奴隷としか結ばれない。どんなに願っても――」
「私たちの人生に光なんてないの……」
子供心から、そんな暗い話には、あたしは反感を抱かざるを得なかった。
何より、その発言は自分の父親に失礼だと感じた。
「母さんは、お父さんのこと愛していないの?」
「そうね……ごめんなさい……。愛していないわけじゃないわ」
「だったら、そんなこと言わないでよ。お父さんのこと否定してほしくもないし。――あたしまで、否定された気持ちになるから」
そう言うと母親は、涙を流しながら微笑んだ。まるで、あたしの言葉に救われでもしたかのような表情だった。
それがあたしが七歳のころの記憶。
それから間もなくして、あたしは身売りに出された。
移動はまるで家畜かそれ以下の扱いだった。馬車に、体重の軽い子供なのをいいことに、荷台に物と同じく、重ね置きにされた。顔の前には粉を吹いた泥にまみれてささくれだった木の床があり、あたしの膝の皮膚を紙やすりのごとく削った。背中には同じ年頃。七つくらいの子供の身体が乗せられていた。
息苦しかった。馬車の揺れとともに、膝に激しい痛みを感じながら、あたしの瞳は離れ行く故郷を想って床板を涙に濡らした。
恐らく、あたしの上の子供も泣いていたんだろう。耳には子供のすすり泣く声が溢れ、あたしの髪を他人の涙が濡らした。それが奴隷という言葉の意味をあたしが初めて知ったときだった。
顔に腐った緑色の水がかけられた。
少し飲み込んでしまい、腐敗臭が口の中に広がり、思わずむせ返り、嘔吐いた。
髭面の男がけたけたと笑いかける。あたしの顔を見て間もないくせに馬鹿にしたような笑み。先程までの馬車の揺れで頭がおかしくなってしまったのか、もうぞんざいな扱いにも麻痺してきた。
「おいっ、お前はどこに売られたい?」
その言葉とともに、男が群がり始め、あたしの顎を泥だらけの手でひっつかんで、顔を右に向かせたり。左に向かせたり。
「……目鼻立ちはどうだ?」
「稼げそうか?」
あたしの顔を入念に調べている。
何をしているか察しはついた。あたしを娼婦にしようとしているのだと。そこで母親の言葉を思い出した。
『……女はね、奴隷階級に生まれれば、身体を売らなきゃいけなくなるかもしれない。あなたには……、そうなって欲しくない……』
恐れに震える背中。だけどここで言えなければ、あたしは身体を売ることになる。
母親が自分に託したその言葉を、あたしは無駄にはしたくなかった。
「……しょ、娼婦は……嫌です……」
「おいおい、女の奴隷は娼婦と相場が決まっているんだ。金は稼げるし、婿も見つかる。おまけに男とズッコンバッコンし放題だ」
男は葉巻を加えながらにたりと汚い笑みを浮かべている。
奴隷の買い手先は、娼婦を扱う風俗店を除けば、負担の大きい力仕事が多い。それを女にやらせるのはひどく非効率だ。そんな言葉も聞かされた。女にはつらい仕事だと。それでも、あたしは必死に首を振り続けた。娼婦にはなるなという母の言葉に従って。
<九年後、マインゴールド鉱山>
威勢のいい男どもの叫び声が木霊する。
湿度の異様に高い上に地熱で蒸し暑い坑道の中。あたしは汗だくになりながら、つるはしを握っていた。母親よりもずっと太くなってしまった腕で。そう、あたしは娼婦にはならなかった。女でありながら、この道を選んだ。
「レメト、精が出るなぁ」
「ゴーシュさん、いえいえ、まだ……そんな。大して掘り進めてもないですし。今日は成果も全然」
あたしの名前はレメト。レメト・ラファエリト。
ラファエリト家は奴隷階級第三級に位置付けされている。
奴隷の中にも細かく階級があり、最低階級は、試し斬りや、拷問の検証に利用されることもあった。それを思えば、この職場は体力的にはかなり過酷だが、精神的には安らかな場所だった。
「何を言っている。鉱山での仕事ってのはギャンブルだ」
あたしを労って話しかけてきてくれたのは、この鉱山で働く奴隷を取り仕切る平民階級のゴーシュ。階級はあたしより遥かに上だが、奢り高ぶることなど全くしない。その証拠に、労働の苦痛に顔を歪めることはあっても、この鉱山で精気のない顔を見ることはなかった。
「同じ深さを掘っても、ざっくざく馬鹿みたいに採れることもあれば、すかんぴんのときもある。そう謙遜するな」
「……で、でもあたしは女ですし、ただでさえここでは場違いなのに。せ、成果を出さないと……」
「……女であることに負い目なんて感じるな。俺の知っている坑夫の妹は娼婦になって、行方も知れない。きっと今頃は他の娼婦と同じくアヘン漬けで、見ていられない女になってるだろうさ。人身売買のこ汚い文句に踊らされた結果だ。あんたは偉いよ。ここで汗水たらして働いて、泥だらけの顔で俺たちの前で笑ってくれる。それだけで、腕の筋肉の張りがなぜだか少し和らぐんだ」
「だから、お前のことは誰も捨てたりしないさ」
ゴーシュの熊のようにごつい手があたしの小さな背中を叩いた。無骨だけど、その手は温かかい。そして、ゴーシュは、高らかに指笛を坑道に響かせた。採れた鉱石をトロッコに乗せろと。夕飯、仕事の締め時だと。
トロッコには鉄鉱石や石炭、中には価値の高い水晶や金、銀などというものもある。金を掘り出した坑夫には、盛大な祝宴が挙げられる。もちろん、その坑夫も奴隷には違いないのだが、ここではそんなもの関係ないとゴーシュは言う。トロッコはランタンの灯に照らされながら、ひどい揺れで坑道の出口までひた走る。最初の頃は、酔って気持ち悪くなったりしたものだが、八年も乗っていれば慣れたもの。
「うぉーう、うぉーう、うぉーう♪ マインゴールド♪
お宝埋まりし~山~♪
うぉーう、うぉーう、うぉーう♪ つるはしに夢を♪
我が心の山~♪ マインゴールド♪」
陽気な男が歌い出すとともに、あたしも大きな声で口ずさむ。
中にはトロッコのふちを叩いて、演奏するものまでいる。これにゴーシュは声を荒げるどころか、安い煙草をくわえて笑っていた。
坑道を抜け、夜の帳とそれに浮かぶ無数の星々が目に入る。坑道の中では時間間隔が馬鹿になってしまうが、外の空気を吸えばそれも元に戻る。腹時計の調子が急によくなって、あたしのお腹が勢いよく音を立てた。思わず赤面したが、それに遠慮することなどひとかけらもなく、皆があたしを指さして笑う。悔しいから笑ってやった。誰よりも大きな声で。
雨風を凌ぐための水はけの良い生地の布と簡単な木組みで作られたテントが、あたしたちの住まいだ。晴れて、寒くないときは外で寝ることもある。決して心地よい住まいではないが、頭領のゴーシュがお人よしなので不満はない。
食卓も奴隷という言葉に似合わず、かなりの量がある。食材は安いし、ほとんどが見切り品だという。肉もほとんどがガラか、あらだ。それでも坑夫の面倒を見る使用人たちが、方々を駆けずって寄せ集めて、腕によりをかけてご馳走に仕立て上げる。鉱山は街から外れた辺ぴな場所にあり、ここまで視察に来るような役人はめったにいない。だから、奴隷を奴隷として扱っていなかったところで、お咎めなどないというわけだ。
「いっただきまーす!」
掛け声と同時に、男どもががつがつと音を立てて飯を喰らう。
もう少し品性というものを知ったらいいのにとは思うが、がさつでない皆を見ればそれはそれで寂しいもの。フランスパンはからっからに乾いているので、ガラで出汁を取ったポトフに浸して食べる。ガラには申し訳程度の身しかついていないので、代わりのタンパク源として豆類がごろごろと入っている。これでもかというくらいだ。干し肉は、皆が皆ちぎりながら回ってくるが、あたしのところにたどり着くころには無くなっている。かと思うと、隣の坑夫があたしに分け与えてくれた。気付かないうちに始まった、干し肉を賭けた腕相撲の戦利品らしい。
「いいんですか?こんなもの頂いて」
「何言っている。ここのおばはんどもの笑顔じゃ、明日腕が動きそうにねえんでな」
お望みどおりにとにっこりと笑って、干し肉を受け取ると、腕によりをかけていた使用人は、むすっとした顔つきになる者もいれば、腹を抱えて大笑いするものもいる。
その様子はどちらも可笑しくて、さらにあたしは笑ってしまった。そして干し肉を頬張る。塩気が引き立てる肉汁のうまみが唾液を介して口の中を満たす。その甘美な味覚にあたしは声を漏らした。
「おいしいっ」
その食卓が終わってすぐ、あたしは使用人の一人に呼び出された。
使用人の中ではまだ年齢が若く、あたしが歳の近い女性として唯一話しているベラという女性だ。とは言っても三十代前半で、歳は二倍ほど違う。流行ものが好きで、お金を貯めては、街に買い物に出かけるついでに、本などの趣向品を買ってくる。他の坑夫が酒や、肉を賭けるのに使っているトランプやチェス盤も彼女が買ってきたものだ。あたしは、そんなベラから、本を度々借りていた。
「じゃ~ん、これ新作っ!」
「こ、これ買ったんですか!読んでもいいですか!」
ここに来たときは文字なんて読めなかったが、ベラに教えられた。
そしてあたしは、ページの上を彩る文字に手を引かれて、まだ歩いたことのない、城下町の石造りの地面を踏みしめる。トロッコの線路が張り巡らされた、単なる岩肌という無骨な坑道の地面ではない。そして、人が住む建物も布と木で作ったようなテントなんかではない。
街の中心にはお城があって、そこには王子が住んでいる。皆は口々に言う。この国の王はろくでなし。階級が家名によって決まり、一切の栄華も没落もない。皆が生きる光を失うような悪政を行い続けていると。
でも、本の中の王子は違う。気品があるというのに、それでいて奢り高ぶることは決してしない。剣術に優れ、博学。美しい旋律を愛し、可憐な姫に恋をする。
あたしはその世界の虜になっていた。
「……レメト、行ってみたい……?」
ベラのその言葉で、一気に現実に引き戻される。
「行ってみたいって……、どこにですか?」
「街よ。街。私たちの買い物につきあわせてあげる」
憧れの土地ではあった。
でも、現実のその土地は、あたしを売りとばした売人や、ゴーシュさんもベラさんも雇って奴隷を動かしている地主までいるところだ。はっきり言って、現実の城下町には、憧れよりも恐れの方が勝っていた。
「で、でも……あたしが、そんなところにいたら」
「大丈夫。悪政を放っておくほどのずぼらな国よ。奴隷ひとりのサボタージュくらい見逃してくれるわ」
確かに、あたしの顔を誰かが覚えているなんてことはないだろう。奴隷など、星の数ほどいるのだから。それでも、この鉱山を離れて、まだ見ぬ街に出ることは憚られた。だけど、ベラのその言葉を聞いた瞬間、あたしはこくりと頷いてしまった。
「もしかしたら、王子様に会えるかもよ」
あたしは、この空に朝日が昇るそのとき、城下町に向かう。
これは、鉱山で勤める、泥まみれの灰色の顔の少女の物語。
灰かぶりのレメトの物語。