6:美少年、邂逅
ぱちり、と彼女は目を開いた。
閉じられたカーテンの隙間から、冬の弱々しい朝陽がうっすらと差し込んでいる。昨夜十分暖めたといっても、まだ火の気のない部屋は寒く、温もりの残るベッドの中から身体はなかなか出ようとしない。
(こんなに寒いのに、よくもまあ熱い夜の夢をみたもんだ)
先程までみていた夢の内容を思い出しながら、彼女はむ、と眉をひそめてベッドから潔く這い出た。いったんガウンを羽織り、熱い紅茶で身体を温めるため湯を沸かす。
ふと横に立てかけてある全身鏡を覗き込み――はだけた胸元が見えて顔を顰めた。
「あの変態野郎…」
ぼそり、とこぼした単語は、淑女にあるまじき響きである。思わず声に出して呟いていた自分にもう一度顔を顰め、彼女は湯が沸くまでに手早く身体を確認した。
(あーっ、痕つけないでって釘刺したのに、この前帰ってきたときは気づかなかったけど、こんなところにも付けてる!やめてよまったく!ただでさえ回を重ねるごとに変態じみてくるプレイに付き合ってんだから、そこは譲歩してよね?!)
夢に見たあの光景は秋口のことであり、彼女は実際、あれから既に何回か“将来の王族としての振る舞いを、公爵に相談”しに行っているのである。
もちろん彼女たちの密会はあくまで密会であり、周囲に気取られないよう入念に注意して行われている。ただしそうはいっても、漏れるときは意外なところから漏れるのだ。そこで、万が一話が出回ってしまったときのために、正当な名目を用意したのである。
ガリエラ公は継承権を放棄し臣下に下ったものの、現王の弟だ。第2王子の婚約者で結婚すれば王族となるルクレチアが公爵に相談するというのは、コスタ侯爵がガリエラ公派である以上特別不自然だと断言できないのである。
(もちろんみんな関係を勘ぐるだろうけど、理由に完璧に筋が通っていれば、それはただの憶測にしかならない。相手は宰相と第2王子の婚約者、憶測なんかで訴えたらむしろ不敬罪で首が吹っ飛ぶ。つまりこちらは隙のない建前さえ用意しておけば、証拠さえつかまれない限りいいわけだ。)
もちろんそれ自体が目的ではない。ガリエラ公にしてみれば、ルクレチアを手懐けておいて将来第2王子へのバイパスも繋いでおこうという魂胆である。ルクレチアは第2王子に惚れたように、意外と押しに弱い一面もある。だからこそ、“自分の父親くらいの頼りになる、しかも美形なおじさま”である自分が甘く囁けば、堕ちてくると見込んだ。――自分の容姿の使いどころをきっちり外さないのが、アレティノ公国の狸である。
だがそれは“以前のルクレチア”であったなら、という話である。確かに彼女は、公爵の思惑通りに動いた。なぜなら、彼女にとってもメリットが存在したからだ。
慎重に進めなければいけないが、宰相という外とも繋がるポジションにいるガリエラ公は、彼女にとってとても好都合なのだ。今のところ特に疑うことなく、公爵は彼女を貪っている。相手は妻子持ち、こちらも王族の婚約者なので、あちらもさすがに無茶はしない。少なからずリスクはあるものの、基本的にハイリターンな案件なのである。
(それにしても男性は、年を重ねるごとにアレがねちっこくなる気がする…これってやっぱり国を越えて、ならぬ、世界を越えて共通なのかな。あー、あいつも将来ああなるのか…)
一瞬思考がぶれたのは、疲れのせいである。
(しかしガリエラ公夫人も凄いよなー、あれは形式上妻にしてるけど、実際妻じゃない、同僚だ。言ってみれば固い同盟を組んだ、支持者層の違う政治家同士だ。)
そう、ガリエラ公夫人は、夫と互角の政治力を持った立派な“政治家”なのである。ガリエラ公が外や表の外交官だとすれば、夫人はいわゆる女社会の外交官。――間違っても一般的な“女”という生き物の枠に当てはめてはいけない。
(旦那がいくら若い子に手を出そうと、“英雄色を好む、大物であるならそのくらい当たり前”って平然としてるしなあ…そもそも私と公爵の密会場所の提供元、毎回公爵夫人だしね…なんか最近私、新しい夫婦の在り方の扉を開けそうだわ…)
いつの世も、どんな世界でも、政治家というのは本質的に同じなんだろうと、遠い目をしながら彼女は支度をし始めた。
✦✦✦✦✦✦✦
さてルクレチアは現在この学園で、第6学年に在籍している。12歳で第1学年が始まるが、早生まれは11歳で入学する。そして17,8歳になる第7学年で卒業するのだ。
科目はさして変わり映えもない――国語・外国語・算術・化学・地学・歴史・地理・剣術・基礎運動が必修であり、1~4学年で必ず取らされる。3・4学年の成績が下3分の2であれば通常コース登録であり、続けて必修科目の高等教育がなされる。一方上3分の1に入ると法学、神学、科学コースに登録することができ、必修に加えて法律・第2~4外国語・経理・外交・神学・神代史・薬草学・農学などの基幹科目を自由に履修することができる。
ルクレチアは割と成績が良かったので、現在法学コース専攻2年目だった。水曜日の2限は外交論の授業で、教授は現役を引退した元使節団長だ。
本日の授業内容は、交渉ロールプレイングである。2人1組でチームを組み、それぞれのチームは“国家カード”か“使節団カード”を渡される。カードには簡単な国家関係と条件が箇条書きされており、それを参考にしながら国家チームと使節団チームで模擬外交をしてみるのだ。
普段彼女はロベルタと一緒に授業を受けているが、残念ながら今日はロベルタが風邪でお休みだ。他の生徒に声をかけなければいけない。
幸い少し離れた席から、割と世話を焼いてやっている後輩が声をかけようとこちらに顔を向けてきたところだった。授業後のランチは、あの子の忙しないお喋りに付き合うことになるだろうな、とまで考えて――
「ルクレチア先輩、僕と一緒に組みませんか?」
後輩と彼女の間にすっと入ってきた者がいた。先輩、というからには後輩であろうが、一体誰なのか――
顔を上げてその学生を目に入れた瞬間、彼女は最大級の脱力感に襲われた。
(よりによってこの授業で、攻略対象とペア…ついてない、ついてなさすぎるよ私。)
プラチナブロンドの細い髪はくるくると巻かれ、カールは白い面立ちを縁どっている。ぱっちり二重のエメラルドの目は少したれ気味で、小さい鼻と赤い唇と相まって、まるで少女のような愛らしさを醸し出していた。背丈も小柄で、彼女がヒールを履いたら軽々と抜かしてしまいそうだ。
そんな美少女ならぬ美少年は、可愛らしく小首まで傾げながら、上目遣いでこちらを伺っている。
彼女はとうとう5人目の攻略対象――ペザロ伯爵家長男、カルロ・マラテスタとの邂逅を果たしたのだった。