5:公爵家当主、誘惑
✦✦✦✦✦✦✦
一見、その緑で覆われたガラスの建物は、更ける夜の中でただひっそりと月の光を反射しているかのように思える。
珍しい植物で埋められた一角に、ガラスのラウンドテーブルと椅子が無造作に置かれていた。そしてその上に、黒い豊かな髪と宝石の散りばめられたネイビーのドレスが存分に乱れ広がっている。
ふと、その上に濃い影が落ちる。覆いかぶさった影の主もだいぶ熱が入っているのか、普段はきっちりきめられた髪型がほつれ、一層官能的だ。
ゆっくりと2つの黒髪が入り混じると、僅かに荒い吐息が響く。
高く上げられたほっそりとした脚が、うっすらとした月光のもと、白い真珠のように輝いた――
✦✦✦✦✦✦✦
彼女はこれまでに4人の攻略対象と対面したが、その態度から、エレオノーラはいずれも順調にその距離を縮めているようだった。最初にエレオノーラの持っていたメモを読んだときには俄かに信じられなかったが、案外と事は予定通りに進んでいくものである。――まあゲームの世界であろうとなかろうと、若く燃える恋は種火さえあれば勝手に勢いづくものだ、という世の理なのかもしれないが。
そんな彼女は今、5人目の攻略対象と接触――してはおらず、先日挨拶したガリエラ公と談笑している。
「今日の君も美しいね、ルクレチア嬢。その神々しいまでの佇まい――まるで月明りの中を歩む宵闇の女神のようだ。」
発せられる公爵の賛辞は、今日も絶好調だ。かといってその大げさなまでの賛美は、壮年期の色気を上品にまとった彼から発せられることで、とても自然に聞こえてくるのである。
「まあ、女神様と比べるなんて、閣下も意地が悪いですわ…あまりそうやって褒め称えると、神がわたくしの傲慢さに罰を与えそうですもの。」
「はっはっ、君はなかなか上手いねえ!これじゃあ女神も嫉妬しきれず加護を与えるわけだ。」
今宵は夜会、デッラ候主催の内々のパーティーである。今回のパーティーには主催者のデッラ候をはじめとして、ガリエラ公、コスタ侯爵、ファルネーゼ伯爵夫人など、一部の貴族のみ参加している。
本来、学生であり侯爵家令嬢でしかないルクレチアは、招待されるはずがなかった。それがなぜ彼女はこうしてガリエラ公と、優雅に温室を散策しながら口上を述べあっているのか。
(これはたぶん、気に入られた。元々ノーマークで使い易かったから駒にしたんだろうけど…この前の雰囲気みて、もうちょっと使えるんじゃないかって考え始めたのかな)
――そう、でないとまさかこの“ガリエラ公派の集会”にお呼ばれなどしないはずなのである。
「しかしルクレチア嬢は本当に、静養してから雰囲気が落ち着いたね…コスタ侯から聞いたところによれば、こちらが元々の君の性格だと。」
ガリエラ公は穏やかな目尻に笑い皺を刻みながら、彼女に話しかける。
「ええ、まあ、自分の性格というのは自分でなかなか掴みにくいものではありますけれど…少なくとも数ヵ月前のわたくしよりは、今の方が淑女たる矜持を持てているとは感じますわ。」
そういって彼女は目線を下にやり、少し困った様に微笑んでみせた。
以前も触れられたルクレチアの静養は、彼女にとっては“ルクレチア”になる過程で色々と整理をつけるための期間だった。しかし、以前のルクレチアにとっては本当に静養の意味だったのである――しかも実らぬ恋の病の。
未だに彼女が笑いを禁じ得ないこの事実。そう、ルクレチアは婚約者である第2王子に恋をしていたのである。あの第2王子に、である。まあ確かにルクレチアは持ち前の高いプライドで隠してはいたが、実のところ少々奥ゆかしいというか、奥手な性格ではあった。
(だからこそちょっと強引な俺様タイプの王子に惹かれたんだろうけど…俺様タイプって、ちょっとさじ加減間違えば自己中心主義か傲慢だからね。もちろん、だからといってその性格が悪いわけじゃない。どんな人間だって不完全だ、痘痕も靨は恋の症状、そして逆もあり得るし。)
――それは、彼女の目の前で微笑むガリエラ公とて当てはまることである。
青年期の子供を持つ父でありながら、黒々とした短髪は隙なく後ろへ撫でつけられ、息子へも受け継がれた面立ちは、年月を経てもなお女性を惑わせる色気を放っている。そうして、未だ現役を匂わせる鍛えられた体躯にしな垂れかかろうとする女性は、既婚というハンデがあるにもかかわらず後を絶えない。
(まあ年上物の恋愛小説でもはまってる女の子には、まさに物語の中の“ダンディでちょっと意地悪な、甘いも酸いも知っている大人な男性”に見えるんだろうけど…)
「なるほど、その凛とした姿勢が、今の様に君を輝かせているわけだ。」
彼女の伏せた長い睫毛、赤いふっくらとした唇、細い項、大胆に主張するデコルテにくびれた腰――その上をつーっと伝っていく、1対の視線。
「…しかし、孤高の女神には同時に、守り手も必要だね。」
「確かに、孤高は強さであると同時に、崩れてしまえば立ち上がることができない弱さもありますわ。しかし守り手になり得る方というのも、容易に得られるわけではないかと…」
そうして彼女は視線を彷徨わせる。まるで気高い女神が一瞬、揺らぎを見せるように。その瞳に、すがるような光が灯っていると、相手に思わせるように。
「では宵闇の女神よ、私をその守り人にはしていただけないでしょうか?…私なら君をいつでも守ってや差し上げられるよ…そして知恵も授けることができる…」
跪き、手の甲に口付けを落としながら上目遣いに彼女を見つめる公爵の美貌は、温室のガラスの向こうにある星空のように煌いている。
「そうね…閣下が味方でいて下さるなら…わたくしは…」
できるだけ吐息まじりに、掠れるように言葉を紡ぐ。頼りなく揺れる肩、少し震えている唇、それらに、ゆっくり立ち上がりながら公爵が、舐めるように視線を這わすのを感じながら。
(ほんとこの美中年、視姦が得意だな)
温室の夜空を覆うように視界に広がる彼の表情は、普段の落ち着いた“ガリエラ公”の層が透け、その下の“娘程の少女に欲情する男”がちらちらと浮かんでいる。そしてその手は頬と腰をさりげなく、かつ確かに抱き込み、
「ぜひパウロと。――レチア、とお呼びしても?」
ほとんどゼロに近い距離で、吐息を吹きかける様に呟く。
(んー迷うけど、タイプとしては思春期坊っちゃんな息子さんより、お父様の方が好みかなあ?)
「もちろんですわ――パウロ、さま?」
重なった唇を煽情的に開きながら、ゆっくりと押し倒してくる公爵の熱い掌の動きを煽るように、宵闇の女神は秘めやかに啼いたのだった。
✦✦✦✦✦✦✦
まるでその中の時が止まっているかのように、静かに佇むガラスの温室。大人の遊びを嗜む者たちはそこを、『緑の天蓋』と呼んでいる――。