エピローグ
春の夜が特別短いと感じたことはないけれど、寝心地がいいこと、それは確かだ。
真綿の布団の重さが深く深く体を沈め、窓ガラスを透過した日差しの匂いが枕を甘やかに濡らしていて、アスファルトを駆るタイヤの低い響きを掻き分けて、ぐっくぐーほうほとキジバトがどこか知らない場所で鳴いていた。
夢は見たのか、それとも見たことを忘れてしまったのか。携帯電話の着信音で起きたときには少しも頭になかったことが、制服に身を包み、家を出る頃になって途端に気になってくる。
電話は續啓一郎からだった。快活でいて、相手する人が厭わしく感じる閾値を越えない、そういう気持ちのいい調子で喋る奴だ。
「おはよう。元気?」
「うん、好調だよ」
「なるほど。案の定起きたばっかだな。一音一音がはっきり分かれてないし、ちゃんと起きている弥生なら『うん』なんて間に投げない」
「感動詞くらい使うよ。それで?」
「ん?」
「用件は」
くっくっくっ。噛み殺し損なった笑い声がスピーカーを通って逃げてくる。
「ケイ」
「いやあ、悪い。あまりにも、ちょっと、なあ?」
「啓一郎」
「悪かったって。でもさ、今日のモーニングコールは弥生が自分で頼んだんだぜ? 入学式に出席した後に。これでもまだ寝起きじゃないって?」
「……おはよう」
「はい、おはよう。先日はお勤めご苦労様。スヌーズはいらないか?」
「大丈夫。ありがとう」
「また学校で。ところで――」
そこで啓一郎は言葉を切った。五秒、十秒と経って、聞こえるのはホワイトノイズだけだった。こちらから声を掛けてみるべきか逡巡し、口を開きかけたところに啓一郎の声が戻ってくる。
「――さっきから鳴いてるのってなんて鳥だっけ?」
啓一郎は啓一郎で、僕の携帯電話が拾う音に耳を澄ませていたらしい。
玄関で携帯電話を部屋に忘れてきたことに気付く。面倒だなあと愚痴を零して一度履いた靴を脱ぎ、二階へ上がる。充電器から携帯電話を取り、学生服の内ポケットに仕舞った。
あの日から、そのポケットに物がひとつ増えていた。
百瀬から預かっている電子タバコが、そこに入っている。
さあ、学校へ行こう。
寄り道はせずに、真っ直ぐに。
新学期、始業式のこの日。
一番に会うのは新しい友人だと、そういう予感がした。