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3 紫煙を燻らせる

 模試もないのにどうして起きなければならないんだろう。

 三月に入ってから毛布が一枚減った寝床で丸まって、携帯電話が鳴り止むのを僕はじっと待っていた。

 学年末試験が終わって、ようやくやって来た机に向かわなくていいも日曜日だ。ずっと貼り出していた試験日程表も目に入らないところに仕舞った。休日は休日として休み、平日はしっかり学生業に励む。そのスタンスを捻じ曲げて先週の土日は試験前の追い込みをしたのだから、この週末くらいは十分に休日を堪能してもいいじゃないか。

 しかし、携帯電話は鳴り止まない。

 何が凄いって、この通話を繋げようとしている人物は一度切ってまた掛け直してみるという試行をせずに、一回の発信を続けているのだ。コールを二桁数えた時点で今は電話を取ることができないのだろうと普通諦めるものじゃないのか。切らない理由はないだろう。相手方が通信会社とどういう契約を結んでいるかは知る由もないけれど、この間も通話料が発生しているか、それ抜きに、単純に時間を無駄にしていることになるのだから。

 そう考えると、なんだか悪い気がしてくる。

 損をしているといえば僕も一方的に朝寝を妨害されている。けれど、学校や職場への遅刻の言い訳なんかのために電車で手近な人を捕まえて「痴漢されました」と泣いてみたり、注文してもいない商品を勝手に郵送して代金を請求するのに比べれば、ただひたむきに、この電話はきっと繋がるはずと信じて受話器を耳に当て続けているなんて、至極善人じゃないか。

 そういう遠回りな理屈で自分を説得して、僕は通話ボタンを押した。

「はい」

「ハイ、弥生。グッドモーニング」

 僕のはそんなフランクな意味じゃないから。

 電話の主、啓一郎の挨拶はいっそ開き直ったくらいに堂々としたカタカナ英語だった。

 啓一郎の声のトーンや呼吸のリズムは嫌いじゃない。でも、通話ボタンを押すまでに捻り出した一言謝ろうという気はすっかり消し飛んだ。啓一郎ならこのタイミングで僕が寝ていることは分かってるはずだろう。

「ハウ・アー・ユー?」

「寝ていいかな」

「三時間くらいなら」

「三時間?」

 携帯電話を耳から離し、画面の右上に小さくある時計の表示を見た。現在の時刻は九時三六分。

「午後から何かあるの?」

「たまには思いっきり声出してストレス発散してえな。ってことで、カラオケ行こうぜ」

「一人で」

「悪かないけど、今日はヒトカラの気分じゃない」

「眠たい」

「だから三時間なら寝てていいって言ったろ? なんなら迎えに行こうか」

「電話といい、今日は随分粘るね」

「こうでもしないとお前は連れ出せないからな。それに、自分からは行かねえだろ」

「まあ、そうだね」

 興味や好奇心はあっても、僕はどちらかと言えば消極的な方だ。啓一郎が半ば強引に、引き摺るようにして連れて行ってくれていなければ、カラオケなんか入り口で入るかどうか散々迷った挙句に結局踵を返すみたいに、自分から踏み込むことはなかっただろう。カラオケだけじゃない。コンビニの寄り道も、商店街に新しくできた喫茶店も、ゲームセンターの足でプレイする音楽ゲームも。

「駄目か?」

 あくまで強気に押してきていた啓一郎が打って変わって慎重に、トランプカードを積み上げてタワーを作るみたいに、このたった三音だけは注意深く声にした。電話越しの声はデータベースの様々な音声パターンから選ばれる、とてもよく似た偽物の声だと僕は知っている。それでも、僕は今耳にしたこの声を、本物だと言える。

 啓一郎はストレス発散を名目に上げた。それはきっと、啓一郎のストレスじゃない。

 最後に二人でカラオケに行ったのはいつだろうか。今月の頭には在校生代表として卒業式で送辞も読み上げたのに、秋の文化祭の打ち上げらしいことも未だにしていない。

 ――たまには思いっきり声出してストレス発散してえな。

 ――自分からは行かないだろ。

 啓一郎が言いたいのは、そういうことだ。

「三時間寝る。迎えはいらない」

「よっしゃ。じゃあ駅裏集合で、一四時くらいに。弥生が起きた時間で調整するから起きたら連絡くれ」

「ずっと二度寝してるかもしれないけど」

「弥生が三時間って言ったんだから三時間で起きるだろ」

 それはどうだろう。

「あ、ケイ」

 一度は消え失せた気が変わり、通話を切ろうとした啓一郎を呼び止めた。

「うん?」

「最初、電話出なくてごめん」

 くっくっく。啓一郎が噛み殺すように笑う。

「俺が電話構えて腕上げっぱなしだって? スピーカーに出してスマホは置いてたよ」

 ぶつりと切ってやろうと携帯電話のボタンの位置を確かめている僅かな隙に、お見通しだと言わんばかりに啓一郎の方から切断されてしまった。

 清々しい敗北感を三時間後のアラームに込め、僕は布団を深く被り直した。

 けれど、僕はアラームを待たずして起きることになる。

 一二時を過ぎたから父親に起こされたのだ。


 日下家と鳥辺高校と、最寄りの東鳥辺駅の距離は同じくらいで、地図で三点を結んだら正三角形に限りなく近い図形になる。日頃歩いているのと大差ないから、駅にも歩きで行く。実を言うと僕は自転車に乗れなかったりする。

 日曜日ということもあって駅の付近は人の往来が多い、のだと思う。最寄りと言っても普段から寄り付いている訳ではないし、平日の様子なら尚更知っているはずがない。

 駅前のドーナツ屋は中高生の御用達になっているのだろうということは予想がつく。僕は苦手だった。通りに向けてガラス張りになっていて、まるでショーケースみたいで。そんなところで落ち着いてお茶ができるとは思えない。

 そう言いながら、同じ口で「店内が見えない喫茶店は苦手だ」なんてことを言う。店先に出してあるメニューを眺めながら悩んで、「またの機会にしよう」と行ったことのある喫茶店へ向かう。逃げるみたいに。

 知らない場所、自分の居場所がない場所は、怖い。

 学校の出席番号は約束みたいなものだと思う。その番号がある限り、季節ごとにくじ引きで席替えをしても教室には自分の席、居場所が保証される。居てもいいという確固たる約束。そういうものに僕はとても安心する。

 啓一郎が僕の腕を引っ張って連れて行く場所もそうだ。啓一郎が僕の分の居場所も保証してくれている。啓一郎にその気はなくても、実質的に席を取っておいてくれることに僕は感謝とか恩義に近い気持ちを持っている。

 その気持ちを持っているうちは、僕は啓一郎のことを「親友」と呼べないのだと思う。

 踏み切りに差し掛かる一歩手前で、まるで来るのを待ち受けていたかのように警報機が鳴り出して身が竦んだ。踏み切りの中にいた人が慌てて駆け出して、スマートフォンを片手に落ち着き払っている人を追い越して脱出した。

 けたたましいベルの音をバックに遮断機が降りてくる。黒と黄色のストライプのバーはもったいぶるように、あるいは厳威を振り翳すように重々しく時間を掛けて道を分断した。誰かがふざけてバーを触る。警告色が上下に揺れる。

 急行や貨物列車と違って、駅から発車した四両編成は歩くような速さで踏み切りを通過する。レールの継ぎ目を通るガタンゴトンという音は柔らかく、やたら暴力的な風を巻き起こして踏み切り待ちの人々を威圧することもない。

 この電車が出終える直前に反対方向からも来たら嫌だなあ、なんて友達と話しながら、警報機の片方だけ点灯した矢印を眺める他校の女子がいる。部活帰りだろうか。鳥辺にも校則で定められているわけでもないのに休日に制服を着て出掛けたがる人がいるから、分からない。僕にとっての出席番号とか席とか、そういうものが彼女たちにとっての制服なのだろうかと考える。彼女たちの心配に及ばず、何事もなく遮断機は上がる。

 駅裏、東鳥辺駅の北口は、表の南口と比べるのが不憫に思えるくらいに寂しい。考えてみれば日当たりの良い南口の方が発展するのは当然だと分かるけれど、北口には駅員もいなくて自動改札が一台きり。外観は小綺麗な公園のトイレみたいだ。バスは通っていないし、幅がまちまちの道路は曲がりくねっていて、隣接する駐輪場が広いことくらいしか取り柄がない。

 その駅裏のレンガの花壇に腰掛けて啓一郎は待っていた。小振りなワンショルダーバッグとかいう鞄を背負っていて、グレーのパーカーに迷彩柄のハーフパンツ、その下にはコンプレッションウェアを履いている。啓一郎のことだ。ここまで走ってきたのだろう。自分の脚か自転車かは知らないけど、彼はよく「走りたいから」という理由だけで走る。とてもシンプルだ。

 さて。

 それはともかく。

「こんにちは、日下くん」

 どうして百瀬がいるんだろう。


 啓一郎と何か話をしていた百瀬は、啓一郎よりも先に僕に気付いた。百瀬は立っていて啓一郎より視線が高かったし、向いている方向も違ったから視界に入ったのだろう。

 百瀬も休日に制服を着るタイプではないらしい。白色の裾が長いシャツ……シャツワンピースの袖を緩く捲っていて、七分丈のレギンス、ではなくて細身のクロップドパンツという服装で、制服の胸ポケットにあったのと同じペンが今日の服の胸ポケットにも挿してある。ハンドバッグを持っていて、それから、髪をポニーテールに上げていた。

 同級生の女子の私服姿は新鮮というか、見るのが気恥ずかしい、ような。

 そういう気後れを挟んで挨拶を返す。

「おはよう、百瀬さん」

「おはよう?」

「休みの日は昼まで寝てるから感覚がズレてんだよ」

「ケイ」

 よう、と啓一郎が片手を挙げる。もう片方の手にはスマートフォンを持っている。

「早く着いてクールダウンがてら表をぶらついてたら偶然会ってさ。誘ってみた」

「誘ってみたって」

「『弥生さえよければ』って」

「またそういうことを」

「ちなみにさ」

 啓一郎がスマートフォンの画面を点灯させる。壁紙の画像は雨の日の窓ガラスみたいな写真で、奥にはピントが外れてぼやけた街がある。その写真の上に時計が表示されていた。

「んー……今!」

 啓一郎が膝を叩く。

「なに?」

「丁度これで一時間。百瀬はここにいたことになる」

 Vサインをこちらに突き出して、人差し指と中指をハサミみたいにチョキチョキと開いたり閉じたりする。Vはビクトリー、勝利の頭文字だったか。啓一郎は勝ち誇ったような表情だ。百瀬に視線を移すと、彼女は「ごめんねー」と申し訳なさそうにはにかんだ。囲い込まれた感じだ。

「断らせる気ないだろ」

「いや? 嫌なら嫌だって言えばいいさ」

 その後に「言えるもんならな」が続けて聞こえるのは僕が捻くれているからか。少なくとも「一時間も待っていた」と言われて僕が無碍に断れるはずがないと、啓一郎は分かっていたはずだ。

 頼んでいないし、相手が勝手にしたことだ。けれど、良心なんて綺麗なものでは決してないけれど、自分を咎めるものがある。それは道端に落ちているゴミを素通りして、素通りしてから足を止めて拾いに戻らせるような。そういう心の動きだ。

「百瀬さん、ごめんね。待たせて」

「そんな。悪いよ」

「お前らってなんか互いに謝りっぱなしだな」

 茶々を入れる啓一郎にデコピンを見舞おうとしたが見事に掌で受け止められる。どころか、出した手にしっぺを返される始末だった。

「体冷えちまったから早く移動したい」

 剰え、そんないちゃもんまでつけてくる。

「早く来過ぎなんだよ。分かった、いいよ」

「決まりな」

 花壇から腰を上げた啓一郎はズボンの尻を払ってから歩き出した。僕はその横に並び、百瀬が少し後ろを歩いているのを確認してから啓一郎の方に肩を寄せて小声で話し掛ける。

「どういうつもりなんだよ」

「すまん」

「先月の模試の時もそうだったけど、何か訳があるのか」

「ほら、もうすぐ春だからさ」

「春?」

「春といえば出会いの季節だ。新しいことを始めるにはうってつけだろ」

「そうかもしれない。……それが百瀬さん?」

「そんなとこだな」

「僕がいていいのか」

「いないと困る」

 啓一郎は女子と気軽にお喋りしたり、休日に二人で遊びに出掛けたりできない奴だったか。いや、交友と色恋は別問題なのかもしれない。

 よく分からない。

 春。確かに春だ。

 出会いの季節であり、別れの季節。

 否応なく、色んなものが変わっていく。


 啓一郎の先導に従って辿り着いたのは中学時代に通い詰め、慣れ親しんだ雑居ビルのカラオケボックスだった。駅から歩くのには微妙に遠く、チェーン店じゃなくて若者向けでもなくて、狭く、その代わり必ず空き部屋があって待ち時間が不要な、そういう店舗だ。

 店内はH字型になっている。廊下の壁に貼られている避難経路図を見ればよく分かる。しかし、この図は不親切だ。北が上という地図のルールに則って描かれているが、ここの入り口は北、つまり地図で見れば上から入ってくることになる。個人差はあるだろうけれど、入り口は下にあるものという先入観に方向感覚が狂わされる。平面的なロールプレイングゲームの影響かもしれない。ああいうゲームの建物は描写の都合上、例外を除いて出入り口が下側に配置されている。

 中央のカウンターで受け付けをし、僕たちは北東の個室を取った。窓は無いから方角で何かが変わるわけでもない。個室のドアは防音の観念からか一々余計に強く閉まる。僕は二人が通るまでドアを開けたまま押さえていた。それから直にやって来た店員に最初のドリンクを注文し、一息つく。

 個室は小ぢんまりとしていて中央にテーブルがひとつ。それを挟んでソファーが配置されているだけのシンプルな内装だ。僕は廊下側のソファーに入り、奥に啓一郎が。啓一郎の隣に百瀬が座った。

 僕は座る前にエアコンの操作盤を見た。設定温度は二〇度になっていた。

「暖房、もう少し上げようか?」

「歌ってりゃ熱くなってくんだろ」

「百瀬さんは大丈夫?」

「うん、大丈夫。ありがとう」

 啓一郎はスマートフォンを取り出して「さあて、何歌うかな」と画面の上で親指の腹を滑らせた。スマホの中に入っている曲の一覧でも見ているのだろう。ガラケーと呼ばれるようになった携帯電話を使っていた中学の頃にはしていなかった作業だ。

「日下くんって普段はそういう感じなの?」

 僕がソファーに座ると百瀬がそう訊いてきた。

「そういう感じっていうと」

「服のこと。学校の時とイメージ違うから」

 今日はワインレッドのタートルネックニットに黒のチノパンだった。

「ごちゃごちゃしたの面倒だから、こういう簡単な格好してることが多いかな」

「赤とか、着るんだね」

「これは母さんが『学ランで見飽きたから』って」

「真っ黒だもんね」

「学校の時のイメージってそれ?」

「うん。あっ」

 百瀬が何か思い出したように、横に置いていたハンドバッグに手を伸ばす。取り出したのは携帯電話だった。

「今ので思い出した。ちょっと家に電話してくるね」

 僕は部屋を出て行く百瀬を手を振って送った。「いってらっしゃい」と言うのではなんだかおかしな気がしたからだけど、やってみると手を振って送り出すのもそれはそれで変だった。

 百瀬はドアを開けようとして、思っていたよりも重かったらしくて、全身で押すようにして開けた。すると、廊下から誰かが百瀬に声を掛けた。親しげな女子の声だった。

「あれー? ゆたかちゃんも来てんじゃん? 大丈夫? ここのドア重いよねー」

「かのこ先輩、こんにちは。ここでバイトされてるんですか?」

「昨日からね。卒業したし。髪も染めてみようかなーって思ってるんだけど」

「いいかもですね」

「ねっ。どんな色にしよっかなー」

 言いながら、扉を開けたまま支えている百瀬の脇を通ってその人は姿を見せた。店のロゴが入った黒いエプロンをしている店員は、トレイに透明感のあるピンクや琥珀色にほんのり色づいたドリンクのグラスをたくさん乗せていた。そして、多分、啓一郎と目線がバチッと合った。

「あら?」

 と、素っ頓狂な声を上げて彼女は固まった。それから慌てて体を引いた。

「ゆたかちゃんは別で来てたの? なに? 彼氏? 大丈夫、誰にも言わないから」

「友達ですよー。学年末試験の打ち上げみたいな感じです」

「ふーん、友達ねえ。ああでもそっか、三年生以外は普通に試験あるもんね」

 何やら気を利かせている風なことを言い、再び彼女は部屋を覗き込んだ。

「すみません。部屋間違えたみたいで。お邪魔しました」

「いえいえ、いいですよ」

 啓一郎がにこやかに応対する。「ゆたかちゃんもごめんねー」と店員は去っていった。

 僕は、その人が僕に気付かなかったことにほっとしていた。会話から卒業した三年生だということは分かるし、もう関係のない人だけれど、学外で学校の人に会うのはあまり好い心地がしない。

「バスケ部の先輩?」

「うん。……日下くん、ケータイ貸してもらってもいいかな? 充電切れちゃってた」

「いいよ。それくらいなら」

「俺のでもいいぜ?」

「スマートフォン、ワカリマセン」

「なんでカタコト」

 僕は立ち上がり、ズボンのポケットから携帯電話を取り出してドアのところの百瀬まで届けた。「携帯電話を他人に預ける」ことよりも「自分の体温で温かくなっている物を渡す」方に抵抗があった。

「ありがとう」

 百瀬からドアを支える手を代わり、ゆっくりと閉じる。油断すると、驚いて飛び跳ねてしまいそうな大きな音を立ててこのドアは閉まる。

 そして、ドアを閉じると同時に啓一郎の一曲目がスピーカーから流れ出した。


 啓一郎はマイクを手に立ち上がっていた。

 その曲は切ないメロディーのピアノから始まった。頬を撫でるそよ風みたいな優しいタッチのピアノに、啓一郎がしっとりと英語の詩を添えていく。

 聴いたことのない曲だった。

 啓一郎はいつだってカラオケの一曲目を率先して担当するところがあったけれど、大抵は誰もが子供の頃から親しみをもっているような曲を歌っていたし、そもそも彼のレパートリーに洋楽なんて、NHKの教育テレビで放送されていたアメリカのホームドラマのテーマ曲くらいしか僕は知らない。少なくとも、啓一郎が一曲目にバラードを選んだことはなかった。

 ピアノの余韻と共に啓一郎の歌声が消え入り、短い曲が終わる。

「どうよ」

 マイクのまま啓一郎が感想を求めてくる。僕は率直に答えた。

「びっくりした」

「だろ? 洋楽にも手を広げてんだ」

「曲のチョイスも。いきなりバラードから来るなんて」

「ま、俺も好き勝手歌うからさ、弥生もガンガン入れろよな」

「程々にね。百瀬さんもいるし」

「私?」

 戻ってきた百瀬は迂闊にドアから手を離してしまったらしく、勢い良く閉じたドアにびくりと飛び跳ねた。

「大丈夫? 挟んだりしなかった?」

「う、うん。これ、ケータイありがとう」

 百瀬が両手で僕の携帯電話を差し出す。僕はそれを受け取らなかった。

「履歴消した?」

「あ、してない」

「ついでだからアドレス交換しとけば?」

 続けて二曲目を入力しようと端末を弄っていた啓一郎が不意に口を挟んだ。こっちには見向きもしていないようだったのに。

「そうする?」

「いいよ。どうしようか。百瀬さんのケータイは充電切れてるよね」

「それじゃあ、えっと」

 百瀬は自分のハンドバッグを取ってきて手帳と二本のペンを出し、手帳の中からまだ何も書かれていない付箋を二つ抜き出した。

「これに書いて交換ね。私のは直接日下くんのに登録してもいいかなって思ったんだけど、人のアドレス帳見るのってちょっとね」

「うん、分かるよ」

「帰って充電したら、私から確認のメール送るね」

 ペンを借りて、名前とメールアドレスと電話番号を付箋に書く。書いてから、名前は書かなくてよかったかなと思う。けれどもう書いてしまったものは仕方がない。隣に座って付箋に書き込んでいる百瀬の手元に付箋を貼った。

「もう少し待ってね。あと、履歴も消さないと……」

「いいよ、ゆっくりで」

 啓一郎が二曲目に立ち上がる。放っておくと啓一郎はマイクを手放さない。

 僕はタッチパネル式の端末を手にした。

 誘っておいて一人だけ楽しむ?

 させるもんか。


 啓一郎の二曲目はロックバンドだった。モニターに表示されている歌詞はまたも英語で、海外のバンドの楽曲だと思っていたら歌詞に日本語が現れた。それは唐突に、ヒツジの群れの中に一匹だけヤギがいるみたいに一文節だけパッと現れる。しばらくして、またひとつ。その次には一文丸ごと日本語だ。日本語なのに、その親しみのある言葉をまるで英語のように啓一郎は歌い上げた。

 バトンタッチ。僕の番だ。

 僕は音楽にも積極的ではない。新しいアーティストを自分から探したりしないし、例えばテレビCMのバックに流れている曲を「あ、いいな」と思ったとしても曲名すら知ろうとしない。だから、僕の歌える曲の大半は僕をカラオケに引っ張り回した啓一郎の影響だ。

 でも、その中にも好きな曲、好きなバンドはある。僕の選曲はそのうちのひとつだった。

 同じロックでも頭に「パンク」が付く日本のバンドの曲。「青春」というとちょっと気恥ずかしい感じがするけれど、それでも構わないと思えるくらい真っ直ぐで飾り気のない、体のど真ん中を撃ち抜かれるようなメッセージが込められた歌。同じフレーズを何度も愚直に繰り返す。

 残念ながら、最後の最後で店員がドリンクを持ってきて怯み、不完全燃焼に終わった。

 マイクは次に百瀬の手へ渡る。百瀬は座ったまま歌うようで、僕は元の場所に座る。

 百瀬が歌うのは二、三年前に流行したヒットソング。テレビドラマの主題歌に抜擢されて、その年の紅白に出場して以来、鳴かず飛ばずで姿を見なくなった女性アーティストの曲だった。アップテンポで、ハイテンションで、全身を使って踊るようなとびきりごきげんなポップソング。

 緊張しているのか、百瀬の歌声はどこかぎこちない。Cメロの歌い出しが外れて、次の歌詞の頭でタイミングを合わせようとして、また外して、ラスサビでようやく持ち直した。

「ドンマイ」

 啓一郎がマイクを受け取って席を立つ。イントロから察するに次はバラードだ。 

「いやー、緊張した」

 百瀬がオレンジジュースに口を付ける。結露の滴るコップの底をハンカチで受けていた。

「悪くなかったよ」

 啓一郎はもう歌い始めていたけれど、そういう、マナーみたいなものを気にする間柄でもない。啓一郎の歌を聴く傍ら、小声で話す。

「またまた、そんな。日下くんこそ」

「イメージと違う?」

「だってロックだし、うちのお父さんが若い時のバンドだよ」

「そうなんだ」

「知らないの?」

「どんな人が歌ってるかとか気にならないから」

「そういうもの?」

「僕はね」

 それから何巡かして、僕が喉を枯らしてリタイアした。枯れた声でこそ映える曲もあるけれど、スタミナがもう残っていなかった。思いっきり声を出したのは本当に久し振りで、歌うのにこんなに体力が必要だったということも忘れていた。中学の時は六時間でも啓一郎と二人でマイクを回し続けられたのに、今ではこの通りだ。

 僕が離脱した後は啓一郎と百瀬が交代で歌い、一通り満足したところで次の百瀬の曲で切り上げようということになった。

 数年前のポップソングを中心に選んできた百瀬は最後に、全く異なる曲を選んだ。

 弾き出しからぎゅっと胸を締め付けるようなストリングス。その音色は、メロディーは、まるで音という音を遠ざけているみたいで、音が無いよりもずっと静かであるように僕は感じた。微かなブレスをマイクが拾ったその後に、爪先をそっと地面に下ろすくらい慎重に彼女は歌い始めた。

 それは孤独で哀しい歌だった。

 本当に正しいのは誰だ。常識ぶって笑っているアイツが正しいのか。間違っているのは自分なのか。自分を守るためにならなんだってした。卑怯と呼ばれても目を伏せて生き延びてきた。だってそうするしかないじゃないか。誰も守ってくれないのだから。

 こういう詩は、普通なら救いがあるはずだ。歯を食いしばって耐えている人に、貴方は一人じゃないという励ましとか、貴方は何も間違っていないという肯定とか。そういうものがあるべきなのだ。けれどこの詩には、水の中でもがき沈んで溺れていくような、ただただ苦しい想いだけが込められてた。

 音と音を途切れさせずに長く繋げる歌い方は聴いているこちらまで息が苦しくなる。今までのポップソングを歌っていた声と違って、百瀬はとても自然に、彼女自身の声で歌う。

 歌い続けて少し掠れたその声は、泣くのを我慢している声によく似ていると思った。


 歌い終わった百瀬さんはすっきりと満ち足りた表情で席に戻った。締めの持ち歌だったのかもしれない。一回の息継ぎで長く歌うあの曲、僕なら息切れしてしまいそうなところだけれど、百瀬は涼しい顔で氷が溶けて薄まったオレンジジュースを飲んでいる。そもそも、バスケ部の百瀬と僕とでは肺活量の自力に差があるんだろうけれど。

 空いたグラスをテーブルの中央に寄せて僕たちは部屋を出た。角を右に曲がり、店内の反対側まで見通せる中央通路に入ると思い掛けない人の姿があった。

 一年三組担任、生徒会執行部顧問の沢渡尚純その人だ。

 沢渡先生は丁度通路の真反対にいたけれど、僕は先生と目が合った。

 学校の外で先生にばったり会った、なんていうのは聞かない話ではないが、実際に自分が当事者になると、とても嫌な気分だった。

 僕は、先生が万が一にもこちらまでわざわざ歩いてきて「やあ、奇遇だね」みたいに話し掛けてくるんじゃないかと身構えた。沢渡先生は交渉ごとは下手だし、頼りない人だけれど、気さくで、生徒に慕われている。生徒が冗談を言えばそれに乗っかってくれるし、生徒から相談されればまるで自分の子供のことのように(実際には独身で子供はいないけれど)真剣に聞いてくれる、と。

 だから、次の行動は意外でしかなかった。

 沢渡先生は僕を、あるいは僕たちを確かに認めた上で、目を背け、踵を返し、奥の角を左に曲がって行った。

「あれ、沢渡先生だよな。にしては、らしくねえな?」

 啓一郎も首を傾げる。

「何かあったのかな? 日下くんはどう思う?」

「僕も意外。だけど、先生も学校の外ではそっとしてほしいんじゃないかな」

「そうかな」

「どうだろう」

 あちらから関わって来ないのなら、こちらから行く理由もない。

 会計を済まして外に出る。カウンターには部屋を間違えて入って来た百瀬の先輩はいなかった。建物の外に向かうにつれて空気が冷たくなっていく。スッと鼻が通るような程良い肌寒さだった。


 僕たちは一度駅裏まで戻り、そこから解散するかどうするか決めることにした。複雑な道ではないにしても百瀬はこの辺りは初めてだと言うし、特に急いで帰らなければない用事も無かった。

「あ、ごめん」

 コンビニの前を通り過ぎ掛けて百瀬が立ち止まる。

「寄ってもいい?」

「いいよ。ケイと外で待ってる」

「俺もか? 中のが温かいだろ」

「ちょっと話がある」

「中じゃできねえか」

「できない」

「それじゃあ仕方ねえな。百瀬、急がなくていいからな」

 それでも百瀬は気持ち急ぎ足でコンビニへ入って行った。僕とケイは、コンビニのガラスになっている部分を避けて、ちゃんとした壁がある方に移動した。

「それで?」

 壁に寄り掛かり、啓一郎が話を促してくる。僕も同じように壁に背を預ける。

 どこから始めるべきか悩ましかったけれど、僕はとにかく近い事柄から、僕がしているであろう誤解について訊ねることにした。

「ケイは、なんというか、百瀬さんに気があるとかじゃないんだな」

「そうだけど?」

 啓一郎の表情は呆れから気付きへ、そして笑いに変化する。

「まさか弥生お前……」

「ケイが『春』とか言うから」

「んだよ、純情くんかよ」

「うるさい。じゃあ『新しいことを始める』のは僕の方なのか」

 今朝電話で、あくまで自分が行きたいからという体でカラオケに誘ってきたのと同じに。

「別に百瀬と付き合えとは言わねえけどさ。いや、それはそれでいいんだけどな。百瀬はいい奴だし。ただ俺は、弥生はそろそろ肩の力抜いていいんじゃないかって思うんだ。今の二年生も受験生になりゃ落ち着くというか、いい加減飽きるだろ」

 夏休みの間に冷めると踏んでいたんだけどな、計算違いだった。ほとほと参ったといった風に啓一郎は頭を掻く。

「だから一ヶ月前、生徒会室ですっげえくだらねえこと隠し合って、挙句は俺から散々イジられても何も言い返せなくなってんの見て、百瀬なら相性つうか、きっかけになんじゃねえかって。余計な世話だったかもしんねえけど」

「……うん」

「あ? 余計な世話だったってか?」

「うん……。いや、そうじゃなくて。ケイは何も心配してないと思ってたから」

 この友人は最も力強い味方だった。僕が生徒会長としてなんとかやってこられたのは、きっと、僕が知る以上にたくさんのことを啓一郎がしてくれていたからだ。例えば、僕と敵対している二年生が文化祭の時だけは最低限割り振った仕事を果たしてくれたのは、彼が裏で折衝してくれていたからじゃないだろうか。

 だから、僕がこうあることを、啓一郎は受け入れているのだと当たり前に思っていた。

 啓一郎は目を伏せる。この一年を振り返るように。

「二人で生徒会を回すのは面白かったけどさ、今の弥生といてもあんま楽しくねえんだ」

「今の?」

「生徒会長で、弱み見せないように気を張って、背筋伸ばして前だけ見て、笑わない弥生」

 啓一郎が壁から背を離し、真正面に立つ。彼の目は真っ直ぐ、僕を見ている。

「俺は楽しいことをたくさんしたい。できるなら、俺だけが楽しいんじゃなくて、誰かと一緒に、笑えることを。その『誰か』にはお前も入ってんだよ」

 それだけだ。啓一郎はくしゃりと笑う。笑ってみせる。

 僕にはいろんなことが見えていないのかもしれない。いや、見ようとすらしていなかったのか。背筋を伸ばして前を向いて、それなのに目は閉じたままみたいにちぐはぐに。

 きっと、僕はもっと、手の届く範囲の確かなものからやり直さなければならないのだと、そう思う。目を開いて、踏み込んで、直に触れて。確かめるべきなんだ。

 それが友人の、いや、親友の望みなら。

「できるだけ頑張ってみるよ」

「普通頑張ることじゃねえと思うけどな。あれか、『善処します』的な」

「今日からできることがあるから、まずはそこからかな」

 覚悟は決めた。あとはできる限りをやるだけだ。


 コンビニから出てきて待ち人の姿を探す百瀬に向かって、僕は手を振った。ポニーテールを左右に揺らしながら合流した百瀬はすぐに啓一郎がいないと気付く。

「續くんは?」

「先に帰ったよ。めちゃくちゃに走りたくて仕方ない気分なんだって」

「なんだそれ」

「ほんとにね」

 あの後、啓一郎には少し質問をした。確認程度のもので、啓一郎からすれば「やっと気付いたか」と、ついでに「間抜け」とまで言いたくなるような問いであったらしい。それから啓一郎は「走りたいから」という適当な理由をつけて僕たち二人を残していった。

「じゃあ、行こうか」

「待って。これ」

 百瀬は、後ろ手に隠していたあのチョコレートをこちらへ差し出した。赤いパッケージ、一口サイズ十二個入りのチョコレート。

「貰って。今度はちゃんとバーコードにテープ、貼ってもらったから」

 裏返された赤い箱には確かにコンビニの店名が印字されたテープが貼られていた。

「本当はもっとちゃんと、始めからこうやって渡すべきだったの。あんな方法じゃなくて」

 あんな方法、とは。

「鞄をひっくり返して入れ替える」

「そう」

 百瀬はぴくりとも驚かなかった。

「いつから分かってた?」

「いつからだろう。あの日、百瀬さんがスカートのポケットからチョコを取り出した時かな。引っ掛かるくらいだったけど」

「それだけで?」

「床の荷物を拾おうとしてポケットから落ちるとは思えないし、手に持っていたチョコを鞄が落ちた拍子に落として入れ替わることがあったとしても、それをポケットにしまうかな。体温で溶けそうだし、それを抜きにしても座ったりするのに邪魔だと思うんだ」

 啓一郎のスマートフォンくらいの大きさで、それよりもずっと強度の低い菓子の箱。実際にスカートのポケットに入れて座った場合にどうなるかは知る由もないけれど、少なくとも合理的ではないだろう。

「だから、とにかく急いで隠したかったんじゃないかな?」

「うん、正解」

 百瀬は楽しげに微笑む。それこそ自分の作った迷路やパズルが解かれるのをすぐ傍で見る子供のように。

「啓一郎くんに手伝ってもらったんだけど、やっぱり無茶な作戦だったね」

「ケイに訊いたよ。百瀬さんの発案だって」

 その作戦は失敗してしまって、もう一回のチャンスを作るために百瀬を生徒会室に誘ったということも。啓一郎が席を外して二人きりにして直接渡させようとしたけど、あの事故で水泡に帰したということも。

「どうしてあんなことを」

「それは目的の動機? それとも手段の動機?」

「どっちも。どういう目的でチョコを僕に渡したかったのか。どうして入れ替えなんて遠回りな手段を選んだのか」

「じゃあまず目的の方ね。私ね、鳥辺高の受験の時に日下くんに助けられたんだよ」

「僕が?」

「緊張でガチガチで動けなくなってた私に日下くん、これ、くれたんだよ」

 一ダースのチョコレート菓子。

 思い出す。試験の合間合間に甘い物を食べたくて、受験の時には必ず持参していた。周りが皆、試験会場の鳥辺高校へ入っていくのに、校門の一〇メートル手前の道の端で立ち尽くしている女子がいた。視線は爪先へ向いていて、膝が震えていて、肩で息をしていた。心配になって声を掛ける。彼女の体がびくりと跳ねて、こちらを振り向く。

 けれどその姿は、曇った窓ガラス越しに見る景色みたいに、はっきりしない。

「おかげでリラックスできて、この通り、鳥辺高生になれました」

「そういうことはあった気がするけど、百瀬さんだったかまでは……」

「覚えてなくてもいいの。私、そのお礼をずっとしたかったんだ。クラス違って接点無くて、こんなに遅くなっちゃったけど、ありがとうね」

 改めて百瀬はチョコを差し出してくる。

「まだ受け取ってもらえない?」

「そうだね」

「なら、ああいう手段を選んだ理由ね。日下くんが怖かったからだよ」

 百瀬があっけらかんと言い放った「怖かった」という言葉に、僕は愕然として何も言えなかった。

「日下くん、自分では分かってないと思う。生徒会長になってから、どんどん話し掛けにくい感じになった。無表情で、凄く、近寄りがたい感じ」

「ケイにも似たようなこと言われたよ。自覚ないんだけど、そんなに?」

「そうじゃなかったら、あんなに回りくどい手段は取らなかったと思う」

 見えていないどころじゃない。自分のことすら充分に知らなかったのだ。

「それで。受け取ってくれるの?」

「ああ、うん。ありがとう」

 差し出されたチョコレートの片端を取るが、渡したがっていたはずの百瀬が今度は手を放さない。

「百瀬さん?」

「私がお礼で渡してるのに『ありがとう』なんて、なんだかおかしくって」

「それもそうだね」

「あっ、でもそうか。これでもいいんだ」

 百瀬の手がチョコレートを放す。

「三月一四日。お誕生日おめでとう、日下くん」

 驚きのあまり、僕は指か力が抜けてチョコレートを落とした。それを地面に落ちる前に百瀬がキャッチして僕の手に戻す。

「え、なに。大丈夫?」

「そうか、誕生日。百瀬さんはどうして知ってるの」

「私は續くんから聞いて。忘れてたの? 家の人に何か言われなかった?」

「そういえば『おめでとう』って言われたかも。寝ぼけてたから聞き落としてた」

「えー」

「眠いのは仕方ないでしょ?」

 我慢ならないとばかりに顔を背けて百瀬が笑い出す。百瀬のからっと笑う声はコンビニの駐車場を飛び抜けていく。何も笑うことはないだろう。一頻り笑い終わるまで僕は待った。涙まで出たのか、百瀬は目元を手の甲で拭う。

「日下くん」

「何さ」

「それでいいんだよ」

「どういうこと?」

「今の日下くんは怖くないよ。私、そういう日下くんの方が好きだよ」

「……分からないよ」

 照れ隠しを言うのが精一杯だった。不思議と、あれだけ笑われたのに全く不愉快でなかった。それは丁度、啓一郎を相手にしている時と同じように、楽しいくらいで。

 啓一郎が期待していたのはこういうことだったのだろうか。

 けれどそのためには、まだやらなければならないことがある。

 このままでは終われない。

 チョコレートを持っていない方の手を、ポケットに入れる。

「百瀬さん」

「なに?」

 思いっきり笑って、百瀬の表情は清々しい。声音にはまだ笑い声の成分が僅かに残っているように感じる。肩は震えていて、一触即発で再び吹き出してしまいそうだった。

 何も今じゃなくてもいいんじゃないか。

 そういう気持ちが一瞬よぎる。それでも、覚悟を決めたじゃないか。

 百瀬の鞄の中で音楽が鳴る。彼女が最後に歌った曲のインストゥルメンタルだった。

 その曲は、僕が携帯電話をポケットから出して発信を止めるまで、鳴り止まなかった。

「百瀬さん、どうして電源を切っておかなかったんだ!」

 空気がすっと冷たくなる。

 西の向こうで日が落ちていた。


 啓一郎が帰った後、僕は携帯電話に百瀬の連絡先を登録し、通話ボタンを押すだけで発信できるようにしてズボンのポケットに入れていた。

 鳴らないでほしかった。

「私からメール送るって言ったのに」

 百瀬が鞄から取り出した携帯電話を開くと液晶のバックライトが点灯し、彼女の顔を照らした。完全に笑みの抜け落ちた彼女の表情は冷たく、コンビニの明かりの不思議な温かさと安心する感じに対比して、痛く悲哀を感じた。

「僕がこれから何を話そうとしているか、分かってるよね」

「さあ?」

 ぱたんと、携帯電話が閉じられる。薄闇の中で駐車場を照らすコンビニの明かりを背負い、百瀬は首を傾げて見せる。

 分からないはずがないんだ。

「充電が切れていると嘘をついて、百瀬さんは僕のケータイから沢渡先生にメールを送ったんだね」

「どうして私が、日下くんのケータイに先生の連絡先が入ってるって知ってるのかな」

「そんなのはどうだっていいよ。ケイから聞いたとか、生徒会なら連絡取れるようにしてるだろうって推測でも」

 もしかしたら一ヶ月前、チョコレートを入れ替えてる時。あの時、僕は先生にメールで連絡したと言ったから、僕がいつ戻ってくるか注意していた百瀬には聞こえていたのかもしれない。

「日下くんのケータイからメールする必要があったかな」

「知らないアドレスから送られてきたメールの信憑性。そもそも開いてもらえるのか、迷惑メールに分類されないか。そういうリスクを回避するため」

 百瀬がどんな反論をしてきても、もう構わない。

「問題は充電が切れてるって言い出したタイミングだ。直前には店員が部屋を間違えてドリンクを持って来た。百瀬さんの女子バスケ部の先輩で、アルバイトを始めたばかりの」

「びっくりしたよ。まさかこんなところで卒業した先輩に会えるなんて」

「働き始めたばかりだとあのカラオケは方向が分からなくなりやすいと思うんだ。上下左右対称で、見取り図もちょっと分かりにくい」

「かのこ先輩がそうだったとは限らないよ」

「方向を間違えても普通は部屋番号で気付ける。でも今回は違った。ドアを開けて百瀬さんが出て来た。あの人は確か『百瀬さんも来てたんだ』みたいなことを言ってたよね。百瀬さんも、ってことは、あの人が本来行かないといけなかった部屋には二人が所属している女子バスケ部が、卒業した三年生を中心に集まっていたんじゃないかな」

「それなら挨拶しに行けばよかったね」

「ドアのところで擦れ違うくらい近かった百瀬さんなら、あの人がトレイに乗せてた飲み物の種類が匂いとかで見当がついたと思うんだけど、どうかな」

「綺麗な色だったよね」

「――百瀬さんは、卒業した女子バスケ部の三年生が真反対の個室で飲酒していると察して、僕の名前を使って沢渡先生に通報したんだ」

 これが僕の出した結論だ。


 駐車場に入ってきた自動車のヘッドライトに目が眩む。薄闇を通り過ぎてすっかり夜の暗さになっていた。コンビニの前で人が吸っている煙草のにおいがこちらへ流れてくる。

「……移動しようか」

「ううん。慣れてるから平気」

 百瀬はシャツワンピースの胸ポケット、そこに挿してあるペンを指で触る。

「私はあの人たちに仕返しをしたかった」

「仕返し?」

「お酒だけじゃなくて。多分今日もあの人たちは煙草も吸ってると思う。未成年の飲酒喫煙。そういうのが学校にバレたら、今決まってる推薦とか就職とかに影響出るかなって。ほら、警察だと大事になっちゃうじゃない? だから沢渡先生なの」

「最初から計画してたわけじゃないよね。ケイが帰る前に訊いたよ。今日はケイから誘ったんだって」

「うん、偶然。本当に」

「百瀬さんはあの人たちに何をされたんだ」

「された、っていうか、私は何もされなかったの。私だけが何もされずに済んだんだよ」

 百瀬が小さく笑う。

「なんだか、一ヶ月前のあの日みたい。『告白してもいいですか』」

 それは罪の告白。あの日、百瀬の頬は赤く染まっていた。けれど今、彼女の顔は夜に隠されてよく見えない。

「女バスの三年生は横暴で、不良とかヤンキーって呼ばれるタイプの人たちで、一年生に罰ゲームって名目で酷いことをしていたの。シュートを外したりパスミスしたら全力ダッシュ十本みたいな練習の範疇じゃなくて、その外で。つまり、イジメみたいなことを。

 私はね、いい子にしていたの。先輩に気に入られるように話や好みを合わせて、笑顔で、標的にならないように従順に。ペットみたいに。カラオケもそうだよ。先輩たちが歌う曲は選ばないように、皆が知っている曲で、そこそこ下手に歌うの。そしたらね、『ゆたかちゃんは下手だなあ』『ちっとも上手くならないなあ』って笑ってくれるの。

 そんなことしたことなかったのに、いつの間にか凄く自然にできるようになってた。嘘をついて、偽って。時々、本当に私はこういう酷い人間なんじゃないかって思う。

 私は、同級生がイジメられてるのを先輩と一緒に笑ってた」

 彼女は胸ポケットの物を抜き出した。

「これ、何だと思う?」

「わざわざ訊くってことは、ペンじゃないんだね」

 キャップを外して、露わになった先端を彼女は唇の先でくわえた。それから、そのペンでない物から口を離すと、百瀬は白い煙を吐き出した。寒さで白くなった息と違って煙はすぐには消えずに、ゆっくりと尾を引いて風に流されていく。

「電子タバコみたいな物だよ。煙草の成分は入ってなくて、リキッドっていう専用の液体を中の電熱線で霧状にして、それを吸って煙みたいに吹かす。ただそれだけの玩具」

 人前で吸ったのは初めてだと彼女は言った。それからもう一度吸って、煙を吐き出した。煙は空気に溶けて消えていく。

「自分だけ何もされないで、無事でいて、綺麗でいる。そういう罪悪感を私はこうやって無害な物で先輩たちの悪いことの真似をして、自分を汚した気になって、解消してるの。馬鹿みたいでしょ」

 彼女はまとめていた髪をほどき、頭を振った。自由になった髪がはらはらと広がる。

「沢渡先生にメールをする時、先生が僕に直接確認するかもって考えなかった?」

「考えたよ。遅かれ早かれ、本当は私がやったってことは分かっちゃうって」

「じゃあなんで」

「最後のチャンスかもしれないじゃない。卒業したあの人たちに仕返しできるチャンスなんてこの先二度と無いかもしれない。そんなチャンスが目の前に転がって、どうして動かないでいられるの?」

 思い掛けず手に入った報復の機会。百瀬の心の内で燻っていた私怨は歓喜したのだろうか。燃え盛った私怨は衝動になり、百瀬を突き動かした。

 それでも。

「嘘をつかなくたって僕に言ってくれればよかったんだ。そうしたら、ちゃんと僕の手で先生に連絡を取れたんだ。百瀬さんのしたことは、やり方は間違ってるよ」

 百瀬の唇から煙が零れる。彼女は、とびきりの幸福で満たされたように微笑んだ。

「だって、責められないとやってられないじゃない」

 女子バスケットボール部の一年生は百瀬を責める前に全員退部していた。

 それを知るまで、僕には彼女が笑う理由を理解できなかった。


 駅裏まで僕たちは戻った。けれど、このまま百瀬と別れてはいけないという気がして、自販機で懐炉代わりの缶コーヒーを買って啓一郎がしていたように花壇に座り、チョコレートを二人で分けあって食べていた。敷けるようにハンカチのひとつも持っておけばよかったと思う。百瀬は「気にしないからいいよ」と言ってそのまま座った。

 街灯の配置の間隔は広い。曲がり角や横道の合流地点には置かれているけれど、その間の足下は暗くて頼りない。駅のホームの明かりもそこまでは照らしてくれはしない。昼には準備中だった居酒屋の看板が温かな色に灯っていて、宴会の笑い声が漏れ聞こえる。その前を無灯火の自転車が横切る。

 言葉をひとつも費やさないまま、チョコレートだけがなくなっていった。チョコは口に入れるとただひたすらに甘くとろける。まるで無償の愛、優しさの象徴みたいに。

 百瀬はチョコとコーヒーの合間に煙を吹かしていた。紫煙ではない、偽物の白い煙を。傍を通る人は怪訝な表情で百瀬を見た。知らない人の目には、彼女が奇妙な物を吸っているように映るだろう。もしかしたら違法な物ではないか。そういう疑いと共に。

 知らなければ、知ろうとしなければ何も分からないままなんだ。

 缶を開けて、チョコレートの甘さに慣れた口にぬるいコーヒーを流し込む。なんだか香りばかりで飲んだ気がしない。やっぱり啓一郎のコーヒーの方が旨い。たまには僕から頼んで淹れてもらおう。

 そのコーヒーが美味しいかどうかは、今から踏み出すこの一歩にかかっている。

「百瀬さん」

「うん」

 返事はするけれど、彼女の瞳は儚く揺れる煙を見つめていた。

「百瀬さんはバスケ部を辞めようと思わなかったの?」

「バスケは、好きなんだ。これは本当」

「じゃあ、カラオケで最後に歌ったのも本当に好きな曲だったりするのかな」

「どうして?」

「百瀬さんの先輩たちに受けがいいとは思えないから」

「ふふっ。そうだね。あの人たちの前では歌わない。うん。好きな曲」

「他にもある?」

「いくつか。暗い曲ばかりじゃないよ」

「じゃあ、今度、それを聞かせてもらってもいいかな」

 吸おうとした電子タバコが唇に触れる寸前で止まり、百瀬はゆっくりと僕の方を向いた。

 その時、本当の意味で始めて彼女と目が合ったような気がした。

「僕たちはきっと、よく似ているんだと思う」

 多くの人と敵対して、それに負けないよう強くあろうとした僕と。

 攻撃の対象にならないよう嘘をついて同調して、従順に振る舞った百瀬と。

 僕たちはこの一年で随分と変わってしまったのだろう。

「上手く言えないけど、百瀬さんにこれからの僕を見ていてほしい」

 怖いと言ってくれた百瀬に。

「百瀬さんは今の自分、好き?」

 彼女は首を横に振った。

「それなら僕も、これからの百瀬さんを見ていくよ」

 間違っていると言った僕が。

「それで、少しずつでいいから変わっていこう。もしどうしても変われなかったら、今の自分の好きになれるところを探そう」

 卒業までに果たせるよう、精一杯努力しよう。

「だから、百瀬さん。友達になってくれませんか?」

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