1 微熱で溶けない程度の問題
目を覚ました時、頭の下に敷いていた右手は冷たく痺れていて、動かせはしても無感覚で、まるで人体を精巧に模したゴムの作り物みたいになっていた。
立春から十日過ぎの六時三十分、東の空の縁が薄く白んできている頃だろうか。昨日の街が新しい日に塗り替えられていく情景に朝の一時を捧げる贅沢は、残念ながら僕の部屋からでは望めない。窓の外には隣家の壁と雨樋だけが見えていて、その景色はうちの一階のキッチンの明かりにほんのり照らされている。朝食の支度をする母の優しい顔が目に浮かぶ。コーヒーの香りが漂うダイニングには新聞を広げる父の姿もあるだろう。両親は休日も昼過ぎまで布団に甘えたりせず、規則正しく健康的だ。
対照に、二人の子供である僕は朝に弱い。日曜日のこの時間は大抵まだまだ夢の中にいて、呆れた父がやれやれと言って布団に包まった息子を揺すり起こしに来てくれるのは十二時を回った頃になる。一晩で作られた布団の繭は、特に今朝のように冷え込んだ夜を越えた繭ほど硬く頑固で、簡単には抜け出せないのだが。
それでも今日は自力で繭を破った。高校生にも休日に制服を着なければならない時はある。
底を打ったはずの冬は追い込みとばかりに早朝の街を凍えさせていて、空気は肌を刺し、詰め襟を躱した風に耳のほとりは切れるようだったけれど、身に沁み入る痛いほどの寒さに頭はしんと冴えていた。
冬はどこもかしこも灰色にくすんで見える。ガードレールも、ひび割れたアスファルトも、信号機の三色のLEDも、開店前のパチンコ店に並ぶ人たちも。いつもは鼓膜の奥まで殴りに来る騒音の群れも鳴りを潜めていて、口の端から漏れる白い息越しに街は弱って見えた。
準備中のラーメン屋の換気扇からの濃厚なスープの匂いと排気ガスのブレンドにちょっと吐きそうになる。おかげで、その先の角を曲がったところにある、一時の避難にお誂え向きのコンビニは朝の行きつけになっていた。
自動ドアに招き入れられたコンビニは暖房と、食事時を外しても食欲をそそるおでんの匂いとで迎えてくれて、寒空にすっかり悴んだ手は痺れるような感覚を伴って指の腹から綻んでいった。店員の、おそらくはバイトの大学生の溌剌とした「いらっしゃいませ」の声も、一方的に押し付けられる活力にしては不思議と気に障らなかった。
華やかな雑誌コーナーを中程で折れて(成人向けの表紙の前を通るのはなんだか気不味い)陳列棚に分け入って、目当てのチョコレート菓子を手にレジへと向かう。それから、レジでホットコーヒーを頼んでそれ用の紙カップを受け取り、袋を断った。
入口近くのカウンターに設置されているセルフ式のコーヒーマシンは挽き、蒸らし、抽出をワンボタンで引き受けてくれる。レギュラーサイズのRとラージのLを押し間違えないように注意するだけでいい。
おそらく内部で豆を挽いているのだろう。マシンはやたら苦しそうに呻いている。けれど自分は手持ち無沙汰で、視線を余所に泳がせることくらいしかやることがない。目についた雑誌コーナーの近い一冊が「〝人とは違う〟で差をつけろ」と太字で呼び掛けている。その割に、ラックに差し込まれている雑誌の表紙を飾っているモデルはどれも皆同じポーズで笑っていた。
コンビニの外は相変わらずの冬で、暖房と入れ替わりで入ってくる空気に鼻孔の奥がつんと痛み、肌が引き締まって自然と体が震えた。
「おはよう。元気?」
気が緩んでいるところに不意打ちで挨拶を仕掛けてきた友人は、コンビニの目の前のガードレールに腰掛けていた。ダークブラウンのパイプを組み合わせたガードレールは止まり木のようにも見えるけれど、巧みにバランスを取って座り、やや垂れた目を細めて笑う友人は綱の上のピエロに近く思える。
「好調だけど、いきなり声を掛けるのはやめてよ。びっくりする」
「悪いな。目が合ったと思ったんだ」
「どうだか」
口とは裏腹に悪怯れた素振りは欠片も見せないで、啓一郎は片方の足を揺らして遊ばせている。すぐ背後をおよそ時速四十キロメートルで自動車が流れていて、一台通り過ぎる都度に、啓一郎を引き摺り込もうとする乱気流の指先がネックウォーマーを掠めていった。本人は涼しい顔をしているけれど、それが向かい合うこちらの肝を余計に冷やさせた。
いつ初めて唇に届くかという緊張を越えてコーヒーを啜り、息をつく。
「それ美味いか?」
啓一郎は訝しげに訊ねる。彼はコーヒーにちょっとうるさい奴だった。
「まだ熱くて分からない。ケイはコンビニコーヒー否定派だっけ」
「いや、そういうわけでもないんだけどさ。というか、まだ飲んだことない」
「飲む?」
「機会があれば自分で買うさ」
「いつもタンブラーで持参してるケイが」
「正確にはマグボトルな。まあ、いつかはそういう日もあるだろうよ」
ガードレールから下りて歩き出した啓一郎の向かう先で信号が青に変わる。「あれも手間隙掛けてんだ。水出しコーヒーをホットプレートで温めて」など、啓一郎は自身のこだわりを披露してくれたけど、僕にはよく分からなかった。僕の好奇心は精々「水出しコーヒー」止まりで、ボールジャグリングみたいに軽やかに弾む啓一郎の語りには手の出しようがなかった。
一頻り語り尽くして満足したのか、半歩下がって歩いている道づれに気を使ったのか。啓一郎は僕にも取れるボールをようやくひとつ寄越してみせた。
「弥生はコンビニの、よく飲むのか」
「缶が苦手で。これはカップだし、百円でセルフだから気楽」
「そっか。いつものは?」
「あるよ」
空いている方の手で肩に掛けた鞄の横腹を叩いて示す。朝の寄り道にコーヒーはついででしかなくて、一口サイズ十二個入りのチョコレート菓子の方が本命だった。
決まった道を歩いて登校し、その道すがら、赤いパッケージのチョコを買う。一日のリズムを整える習慣は中三の冬、高校受験に備えての勉強をし尽くした頃から続けている。とは言っても、中学生の僕はまだ寄り道を覚える前だったけれど。
「今日、模試終わったら」
その先、啓一郎が続ける言葉の予想は容易について、つい食い気味に答えてしまう。
「先生の許可はもらってある」
「まったく弥生は。明日でいいだろうに」
「次の週に持ち込むのは落ち着かない」
「日曜日はもう新しい週だろ」
「僕の手帳、月曜始まり」
そっか。今一度口にされる納得の言葉は新たに呆れと微かな寂しさを含んでいて、まるで冬に取り憑かれた灰色の街みたいに翳っていた。
啓一郎は内心をはぐらかして楽しそうな方を選んで、とにかく終始笑っていたいと七夕の短冊にも正月の絵馬にも大真面目に書いてしまうような奴だった。神頼みばかりでなく、理想の実現のためには自力も尽くす。苦しい場面では無理にでも笑い、声は明るく。嘘でも笑っていれば心もつられ、いつしか逆境すらも楽しくなるのだそうだ。
そいつが、今、落胆を零してしまっている。
中学からの友人であれど、互いの心中を違わず察し当てられはしない。それでも、言葉を交わすうちに固く冷たくなっていく自分の声に僕が抱く気持ちと、啓一郎が隠しきれなかった気持ちは、きっと同じものなのだと思う。いくら冗談を交えてもそこには「遂行」しようという、普通友人との会話に介在する必要のない意図が立ち会っている。
「ケイ」
何本目かの横断歩道で青信号が点滅を始めた時、僕たちはまだ縞模様の橋の半分も渡っていなかった。急ごう。そう後ろを顧みて促したのは僕の方で、啓一郎は啓一郎のペースを変えないままに白縞だけを踏み歩いていた。だから、追い抜いたのは僕の歩調が整ってしまったからだ。
いつからか、啓一郎さえも朝の儀式に組み込まれている。
心が整理されて冷ややかに、これから向かう場に適した姿に形成されていく。その過程で削ぎ落とされる無駄こそ、青春の最中で僕たちが尊ぶべきものだろうに。それを許容できる余裕はこの一年で既に僕から失われていた。
気が引き締まる。背筋が伸びる。真っ直ぐ前を向いて進む。
僕はあの場所で、もっとずっと強くなければならない。
中学がそうであったように、高校でも次を見据えての準備が始まっている。大学への進学か、就職か。一年生にはまだ早い問題かもしれないけれど、希望者はこうして日曜日の学校に登校し、模試を受けている。
それにしても、啓一郎の背中が視界に入るというのはなんだか可笑しな気分だった。中学では通して同じクラスで機会も多かったが、高校では初めてだ。
希望者のみの模試は人数が三十人にも満たなくて、うちの三組の教室に固まって受験することになっており、二組の啓一郎を含め、馴染みのない顔や後ろ姿が散見された。
試験監督は三組担任の沢渡尚純先生が務めていた。担任、教室の火元責任者(クラスプレートの下に名札が差し込まれている)、学年主任に加えて元々この日学校に出て来る予定があるとも聞いていた。他に適任はいないだろう。
今回の試験は午前中に数学と英語、昼に休憩を挟んで国語の三科目の日程で、理科と社会科はなかった。それでも午後の国語、古典に手を付ける時には暖房も相まって額は熱を持ち、頭は締め付けられているように鈍く痛みを感じた。勉強は嫌いではないけれど、時間内に急いで解かないとならないものは得意じゃない。
「弥生。お疲れ様」
問題と向き合っている間、常に全開で回し続けた脳は過熱していて、自分に向けられた言葉と認識するのも手間取った。机の天板から顔を上げ、椅子の背もたれを抱えて座る目の前の男子が啓一郎だと気付くのにも。席はクラスと出席番号の順で、だから、そこは三組の他の生徒が指定された席だった。試験が終わったのだという実感がようやく少しだけ湧いてきた。
そうと分かれば体は動く。
「先生に、もう一度話しておく」
啓一郎を置いて席を立ち、回収した答案用紙の束を抱えて教壇を下りようとしている沢渡先生を呼び止める。
模擬でも試験は試験。厳格に扱わなければならないはず。およそ利己的だと窘められてもおかしくない行動だった。この時僕が首の上に乗っけていたのは、先生が職員室に戻ってから、と判断して的確に自制できるほど冷静な、くたびれていない頭ではなく、脳に埋め込まれた指令を遂行せんと駆動する歯車の機構に動かされているようなものだった。
先生はそれを問題にしなかった。いつもと同じの、トレードマークのクリームのカーディガンみたいに温かく柔らかい物腰で、穏やかな笑みで返して。沢渡尚純という男性教師がもし、優しいだけの人でなかったなら。そうであってくれたなら。眼鏡の奥に静かに佇む瞳の澄んだ色を恨めしく思うことすらあった。今はもう、何も期待していない。
「先日メールでもお伝えしたことですが、問題ないでしょうか」
「あ、はい。大丈夫です。最後の戸締まりと鍵の管理だけはしっかりお願いしますね。僕も五時くらいまではいるので何かあったら――」
轟音。では言い過ぎになるが、背後で突発したその物音は試験が終わり人の散った教室に強く響き、沢渡先生の身を竦ませ声を詰まらせた。僕は振り向きもせず、先生が話を再開するのをただ待った。胆力どうこうではなく、思考と共に反射も鈍って反応できなかっただけだ。
「と、大丈夫かな。それで、えっと、五時くらいまでは学校にいるので何か困ったことがあったら職員室に来てください」
「分かりました」
僕に鍵を渡して沢渡先生は回収した答案用紙を持ち直し、教壇を下りた。
ああは言うけれど、きっと先生は何も心配してはいないのだろうと、思う。
振り向くと啓一郎が「いやあ、ごめんごめん」と片手を上げていた。机の上に口を開いた僕の鞄と、模試で少なくはあるけれど、中身のペンケースやファイルが積まれていた。
「さっきの音」
「弥生の鞄、引っ掛けて落としてさ。悪かった」
「いいよ」
特に気にすることでもない。教室で稀に起こり得る事故のひとつだ。
荷物を元通り、厚みのあるものから自分で決めているレイアウトの通りに鞄に戻していく。バインダー式の膨れたファイルにノートが三冊、クリアファイル、スケジュール帳とメモパッド、ペンケース。それから……。
「ケイ」
「ん?」
「拾うの、手伝ってくれたのは誰」
「あー……百瀬だよ」
「百瀬?」
「百瀬裕。うちのクラス、二組の。そこ」
啓一郎が顎をしゃくった方を見遣る。「ゆたか」と言うから上から下まで黒尽くめの学生服を探したけれど、啓一郎が示した先にはたった一人、胸元の白いスカーフを整える女子がいるだけだった。
「百瀬さん?」
「えっ。あっ、はい!」
百瀬裕と思しき女子はびくりとちょっと跳ね、やたら軸の定まったターンを決めてこちらを向いた。肩丈の髪の毛先がセーラー服の大きな襟にさらり、落ちる。胸のポケットにペンが一本挿されている。
覚えのない顔だった。僕が人を覚えるのが苦手だったとして、それを差し引いても百瀬裕は引っ掛かりどころのない、記憶から自然と剥落してしまうような女子だと思った。比喩や定型句ではなく、どこにでもいる普通の女子高生といった感じの。集合写真で指差してもらわなければ見つけられないような。影が薄いのともまた違う。くだらないことで笑って、ちょっとしたことで泣き出したりして、男子よりも少しマセていて、部活動に明け暮れたり試験の一週間前だけ頑張って勉強したりする、当たり前の女子。
平生の関わりのない男子に突然名前を呼ばれ、困惑している百瀬にこちらから歩み寄る。
「どうかした? 日下くん」
「これ、百瀬さんのと僕の、入れ替わってた」
鞄の中身と一緒に積まれていたチョコレート菓子を百瀬の前に差し出す。これは百瀬の物だ。しかし彼女は受け取ろうとも、彼女が持っているはずの入れ替わった現物を確かめようともせず、チョコの赤い箱に目を落とした猫背気味の姿勢のままで体の前で手を握り合わせて固まっていた。
「どうかした? 百瀬さん」
特に意識したわけではなかったけれど、先の百瀬の言葉を真似て返しているようで嫌味っぽく聞こえたかもしれない。やはり冷静じゃない。早いところ外の空気を吸って頭を冷やした方がいい。
「あの」
顔を上げた百瀬は目を丸くして、けれどもおずおずと、その問題を切り出した。
「日下くんは、どうして入れ替わってるって分かったの?」
手にしているチョコレート菓子を見る。馴染んだ手触りと重さの、いつもと何ら変わりない赤色のパッケージだ。
「どうしてだろう」
僕にも分からなかった。
教室に残っているのは僕たち三人だけになっていた。僕や啓一郎、僕が引き止めている百瀬はともかく、普通日曜日の学校に長居する理由はないし、あるとすれば運動部くらいだけれど、彼らはそもそも受験していないか、あるいは逸早く練習に合流しようと駆けて行ったことだろう。
「やーよいっ」
啓一郎が肩に腕を回してくる。飛び掛かる勢いのまま来たのか、これはそこそこ。
「痛い」
「で、何があったんだよ」
百瀬に受け取られず、行く先のなくなったチョコレートを目の高さまで上げる。腕を回しているなら啓一郎の目線もおよそ変わらないはずだ。
「これ。百瀬さんのなんだけど、どうして百瀬さんのだと断定したのか分からない」
「お前の頭ん中のことだろ」
「『間違いない』と思ったことだけは確か」
「なんだそりゃ」
肩に伸し掛かる荷重は増えて、啓一郎の腕は首にまで食い込んでくる。気絶した人の体は意識がある時よりも重たいらしいけれど、呆れからの脱力や試験疲れの無意識にも同じことは言えるのだろうか。学生服の袖越しにも啓一郎の男子らしい筋肉質な肉体の固さを感じられる。見た目のまま細いだけの僕とは違って、啓一郎は意外と鍛えている。だからか、ここまで密着すると体温差がちょっと。
「暑い。まず、離れて」
「あいよ」
すんなり離れた啓一郎の重さが差し引かれた反動で体が浮いて、揺らいだ体勢を立て直す時に引っ掛かった机の脚が床を擦った。なければないで、心淋しくもあるものかは。
捩れた上着を整える。啓一郎に絡まれている間、百瀬は呆然と静観していた。
「續くん、日下くんと仲良いんだね」
「中学からの付き合いでもあるしな」
「いいね。そういうの」
百瀬の表情が和らぎ、心なしか、肩からも組み合わせた手からも力が抜けたようだった。
本題に戻ろう。
「鞄をひっくり返した時の詳しい状況を教えて。ケイじゃないんだろ」
これは、啓一郎への問い掛けのつもりだったけれど、「ああ、それは」と説明しようとする啓一郎の歯切れの悪い言葉頭を百瀬は抑え、深く頭を下げた。
「ごめんなさい。本当は私が落としたの」
割り込まれたのも、同級生女子の後頭部を見下させられたのも唐突なことで意外で、僕は啓一郎に助けを求めた。
「ケイ」
「そうだ。弥生が話しに立ったのと行き違いに百瀬が俺のとこに来て、その時に弥生と百瀬の鞄が引っ掛かって二つとも床にひっくり返った。もちろん、百瀬も荷物を拾うのを手伝ったさ。俺だけじゃどれがどっちの持ち物か分からないからな」
「本当にごめんなさい」
「責めたいんじゃなくて。入れ替わるタイミングがあったか確認しただけだから」
やりにくい。こう下手に出てくる人の相手は最近させてもらえていなかった。食って掛かる喧嘩腰か、素っ気ない態度か。剥き出し露わにしているか隠し控えているかで、大本にあるのはどちらも不満や敵意。有り体に言ってしまえば「日下弥生が気に食わない」人たちばかりと対峙してきた。その中で、頭を下げて謝罪し萎縮している同い年の女子は却って奇異に映る。
僕のとも百瀬のとも言い切れなくなったチョコレートの外面を確認する。赤色の地に白抜きのアルファベットで商品名が印字されていて、チョコの写真が添えられている。それからメーカーのロゴ。箱を裏返してバーコード、JAS法で定められている食品表示。名称、原材料名、内容量、賞味期限と保存方法に製造者。賞味期限だけは「この面に記載」として白く刳り貫かれた別枠で。それと栄養成分表。これは確かまた別の法律で定められているんだったか。箱の大きさは啓一郎のスマートフォンがすっぽり収まるくらい。以前空き箱に入れて手遊びにしているのを見た。箱の作りに特徴がある。片側の三分の一が蓋になっていて、折るようにして曲げると開く。
ん。「いつもの」だ。
暖房の余計な助けもあって頭の熱はまだ冷めない。教室の空調は事務室が一括で管理しているから、その場の判断で適宜調整ということはできない。沢渡先生が「試験終わりましたので暖房はもう大丈夫です。一年三組です」と報告すると切られるのだろうか。そもそも事務室の職員は日曜日にまでいただろうか……。
考えても仕方ない。どうせ今、頭は回らない。
「窓、開けていいかな」
啓一郎は「どうぞ」と手振りで促し、百瀬は「もう如何様にもなさってください」とばかりに縮こまっていたけれど、二人のリアクションを待たず僕の爪先は既に窓へと向いていた。
鍵を外して窓を一枚開く。途端、冷たくて新鮮な空気が堰を切って雪崩れ込み、額に張った薄膜の汗がすっと引いた。外の植え込みから土の匂いが立ち上っていて、白球を打つ金属バットの高い音は乾燥した空気に夏よりも鋭く澄んで聞こえ、ラグビー部のグラウンドの土を蹴る音さえも教室まで轟いて来そうなくらいなのだが、それでいて冬独特の静謐さというものは失われてはいなかった。
開放感と心地よい涼しさを堪能してしまっていると、背後の啓一郎が話を進めた。痺れを切らしたか、それは早口だった。
「ところで二人とも、チョコはもう開けてたのか?」
考えが至らなかった。確かに開封されているか、十二個中いくつ食べているかの違いも確認すべき事項だ。
「まだ。向こうに行ってからのつもりだった」
「私のもちゃんと閉じてたよ」
疑うつもりはないけれど手元の箱を注視し、蓋部分を手の平と親指の付け根で挟んで持って軽く力を加える。箱は開かない。
啓一郎は肩を落とし、呆れ返った様子で言い放つ。
「あのさ、どっちも未開封ならそれでよくないか?」
事の問題は自分の物と他人の物とが入れ替わっていること。例えばそれがペットボトル飲料であれば、僕は意地でも取り返そうとするだろう。損得勘定ではなく、他人が口を付けた物を飲んだり、自分が口を付けた物を他人に飲まれたりしたくないからだ。回し飲みに抵抗がない人もいるけれど、僕はそうじゃない。嫌だ。
しかし今はどうだ。未開封のチョコレート菓子同士が入れ替わった。その入れ替わったというのも僕一人の根拠がないに等しい証言しかない現状で、自分の物に拘泥する必要はあるだろうか。
指摘を受けて、そう頭で一旦整理し終える前に。
「あ」
間抜けた声が出てしまっていた。
啓一郎の発問に百瀬は瞬きも忘れて口をぽかんと開けていた。それから僕の方を向いて、視線が絡まった瞬間弾かれたように顔を背けた。と、思う。僕も同時に目を逸らしたからだ。きっと僕も百瀬と似た表情をしていただろう。それが恥ずかしかった。試験疲れとは別の熱火が熾る。
「百瀬はそれでいいか?」
「私は全然。日下くんがいいなら」
「それで?」
お前はどうなんだ、と啓一郎はわざわざ問いにする。その目元口元には可笑しくて堪らないという愉悦が隠し切れずに滲み出ていた。いや、こいつならそこまで含めて魂胆の内か。今しばらく我慢して笑いの切れ端を僕に見せつけることで、より愉快なリアクションや展開を引き出そうとする。啓一郎のふしだらな期待に、返しが自ずとぶっきらぼうになるのも仕方がないと思わないか。
「解散」
短く同意を告げて開けた窓を閉め、百瀬に向き直る。
「引き止めて悪かった」
「ううん。日下くんの鞄を落としたのは私だし、それこそごめんなさい」
これで三度目。頭を下げた数だけ一度の謝罪の価値が下がるとか癖になるからとか、そういう綺麗事はいくつか思い付くだけはした。疑惑の晴れたチョコレートを自分の鞄にしまう。
「日下くん、そのチョコ好きなんだよね?」
「よく知ってるね。クラスの人も多分知らないのに」
「それは、えっと……」
百瀬はもじもじとして躊躇しているようだった。
今回の事故は例外として、教室で鞄からチョコを出したことは一度もない。行きつけのコンビニはバス通りをひとつ曲がるせいで陰になっていて商売に適した立地かは疑わしく、啓一郎を除いて早朝にうちの制服を見かけたことはない。朝練の運動部員も校舎の窓からも見えるようなもっと近場のコンビニを利用している。
それでも見られたというなら今後はもう控えた方がいいのかもしれない。
百瀬は啓一郎に視線を送り、それを受けた啓一郎で渋い表情で肩を竦めた。百瀬は腹を決めて打ち明ける。
「續くんに、教えてもらって」
「前にちょっと世間話でな。来掛けにコンビニに寄ってんだって」
僕は口を開き、けれど、声にはならなかった。
窓を閉めて寒風はもう教室に吹き込んで来ていなくて、天井のエアコンは運転音を伴って未だに仕事を続けている。それなのに、頭だけはこれ以上なく真っ白に冷え切っていた。唇は固く、声にしようとした空気は震えることなく喉から掠れて零れ落ち、啓一郎が表情から笑みを微塵も残さず引かせていく様がまるで鏡が映し出すかのように、今、僕がどんな顔をしているのかを脳裡に喚起させた。
「百瀬は大丈夫」
茶化すところのない啓一郎はその一言、その一時だけで、すぐにまた目を細め、飄々とした「いつもの」啓一郎に戻った。
「でも、悪かった。やっぱりマズかったか」
僕は右手を口に当て、その掌の中で深く息を吐き、またそれを吸って肺に戻した。「いつもの」自分を、自分の声を思い浮かべる。より鮮明に、鏡像よりも強く。
「いいよ。構わない」
「今日はやけに寛大だな」
「嫌なら嫌って言う。行こう。百瀬さんも」
鞄を手に、二人を教室の出口へ促し先導する。席の辻を曲がる回数少なく通る僕の後ろでわざとらしく机の天板をとんとんと叩く音がする。見ずとも分かる。啓一郎が間を縫ってその角ごとに手遊びしているのだ。そういう無駄を楽しむのが、楽しもうとするのが啓一郎だ。
左手はドアに掛けつつ、右手は照明のスイッチを押さえる。スイッチは三つ。廊下側、窓側、黒板灯。上二つはそれぞれのスペースをいくらか共有しているけれど、一番下の黒板灯だけは角度を付けて明確に黒板だけを照らす。それらを上から順番に消していく。
嫌なら嫌って言うよ。
開けたドア一枚向こうの廊下もまた冬そのものだった。平常の授業日なら、休憩時間に温かい教室から出たがる少数のグループの熱で多少は緩和されているのだろう。日曜日の廊下は窓の外と同じに凍みた。自然と体も震える。
「そうか」
震えて解けた唇が答えを出す。
「やっぱりこれは百瀬さんのだ」
鞄を叩いてそこにあるものを示す。今朝、啓一郎にして見せたように。
大きな窓は二人の驚きを見て取れるくらいに十分な光を取り込んでいるけれど、蛍光灯と比べると季節の温度が明かりの色に反映されていて、やはり少しずつ皆、水の多い薄墨で描いたように灰色に滲んでいる。
「へえ。それで、どうして百瀬のだと?」
「百瀬のチョコだと分かったのはそもそも問題じゃない。僕は『拾うの、手伝ってくれたのは誰』かケイに訊いて、『百瀬だよ』って返ってきたから断定したんだ」
「じゃあ問題は『どうして入れ替わってると分かったのか』なの?」
「いや、『どうして自分のチョコじゃないと分かったのか』だね。これも大したことじゃないんだけど」
鞄からチョコレートを取り出す、その指先の感触で確証を得る。
「僕がチョコをコンビニで買っているっていうのは啓一郎が話した通り。それで、僕はいつもレジ袋を断ってるんだ。今日も。すぐに鞄にしまうのに袋はいらないから。
でも、店側としては商品をそのままで渡すことはできない。万引き被害は日常的なものらしいから、精算済みか未精算かを明確にする印がないと困る。だから、商品のバーコードの上に店名が記名されたテープを貼る。マニュアルで決まっているんだと思う。テープを断られて店員が途方に暮れてる一幕が以前あった。
もう分かると思うけど、『どうして自分のチョコじゃないと分かったのか』の答えは、バーコードにテープがなかったから」
チョコの箱の裏面を二人にも見えるようにする。黒と白のストライプは露わになっていて、他のスペースにもテープは貼られていない。
「百瀬はどこで買ったんだ?」と、啓一郎。
「近所のスーパー。あそこは万引き対策というか、会計をせずに堂々と出て行く不届き者対策で、レジで違う色のカゴに替えてくれるの」
それならシールの出番はないか。目的の一品だけの客の場合も精算済みのカゴに移すことになっているとか、か。シールだったとしても、コンビニとスーパーではデザインが違っただろう。
「気付いたのは拾ってもらった荷物を鞄に戻している時。テープでもこの箱の平面に貼られれば薄く盛り上がって指に引っ掛かるだろうし、そもそも紙の箱とは手触りも違う」
――ただ、試験で疲れて、その、ぼうっとしてて、無意識に判断して。だから、チョコの真っ更なパッケージを見ても分からなかったんだ。
と、言えなかったのは最後の見栄か。
「百瀬さん。どっちも未開封ってことだけど、納得してもらえたなら一応決着ということで戻さない?」
差し出したテープのないチョコの赤い箱を百瀬はサイドの髪を耳に掻き上げて猫背でまじまじと見つめ、「そっか」と小さく零すとスカートのポケットから同じチョコレートを出し、その裏面を上に向けて百瀬は二つの赤い箱を並べた。僕の手にはテープのない物が、百瀬の手にはバーコードにテープの貼ってある物が。
「返すね」
こうして入れ替わったチョコレート菓子はそれぞれの正式な精算主の元へと戻った。
けれど、この時僕は実のところ、全く別のことに気を取られていた。
――スカートにもポケットあるんだな。
ドアを閉める。教室と違って廊下は風通しがよく、問題も解決されて胸のつかえも下り、一呼吸が随分軽く心地いい。
「さてと」
啓一郎が両腕を天井へ突き上げてぐっと背伸びをし、そのまま片肘を持って引っ張って体側の筋を伸ばす。反対側もやると息を吐くと同時に脱力して腕をだらんと下げた。
「俺たちはこれから生徒会室行くんだけど、百瀬も予定なかったら一緒にどう? コーヒーぐらいなら出すよ」
「ケイ」
「いいだろ、弥生。野郎二人っきりより女子がいた方が、それが百瀬でも、華があって。どうせ誰がいたってお構いなしに仕事するだろ?」
「ひどいなあ」
視線を向けると膨れっ面の百瀬がいた。見られていることに気付くとすぐに自分の頬を両手で叩いて誤魔化したがその代わり、叩いた頬はじんわりと赤くなっていた。
「でもこの後予定もないし、もし日下くんが迷惑じゃなければお邪魔していいかな?」
「それで?」
と、啓一郎が提案し、百瀬から最後の判断を任される既視感のあるこのくだり。乗っかる理由はないけど、断る理由もまたない。
「いいよ。面白いものは何もないだろうけど」
持ち直して揺れた鞄の中で一口サイズ十二粒のチョコレート菓子が小さく音を立てる。これが入れ替わったのも何かの縁か。
「まあ、同じチョコのよしみってことで」