穴ぐらの神様
彼は醜かった。
ずんぐりとした胴体に細く短い手足。皺だらけの弛んだ皮膚。窪んだ小さな眼はきょときょとと落ち着きがなく、異様に長くて黄色い前歯は口を閉じても顔の前に飛び出している。そして何より、彼にはその無様な躰を隠すための毛が一本も生えていなかった。
彼は、ハダカモグラネズミと呼ばれる生き物だった。
森のケモノ達は皆、ハダカモグラネズミの醜さを酷く恐れ、嫌った。彼が近付けば鳥は歌うのをやめ、仔鹿は怯えて逃げ出し、陽気でお喋りなリス達ですら不機嫌に黙り込む。彼は皆を不快にする自分の醜さを申し訳なく思い、誰にもその姿を見せないよう、地面深くに穴を掘って暮らした。
暗い穴ぐらの奥で、ハダカモグラネズミは独り、小さくうずくまるようにして生きる。独りで過ごす昼は長く、夜はもっと長く、一年は永遠だった。長い時が経ち、やがて醜いネズミの存在は森の皆から忘れ去られた。
❀
厳しい冬が過ぎ、森に陽の光が戻ってきた。春の生命のざわめきが深い土の中にも満ち始める。ちょろちょろと雪解け水が流れ出す音に耳を澄ませていたネズミは、ふと久しぶりに外の世界を覗いてみたくなった。
誰にもみつからないように、ほんのちょっとだけ……。そう呟くと地上にむかって細いトンネルを掘り、小さな小さな穴を開け、鼻先だけ外に出してみた。
爽やかな春風が、暖かな陽の光と、瑞々しい若葉と、ハチミツのように甘い花の香りをネズミの鼻先に運ぶ……いや、これは花の匂いではない。イキモノの匂いだ。
こんな良い匂いのするイキモノは何だろうと不思議に思い、穴から鼻を抜くと、代わりにそっと目を近づけた。
長く形の良い耳。小さく愛らしい鼻。黒々と濡れたつぶらな瞳。青味を帯びた艶やかな銀色の毛が、風に柔らかに光る。
それは、ウサギと呼ばれる生き物だった。
世の中にはこんなに美しいモノがいるのかと、ネズミはすっかり驚いてしまった。きっとアレは神様に特別に愛された生き物なのだろう。自分とのあまりの違いに、羨ましいとさえ思わない。ただ、一度でいいから、あのふわふわの毛に触れてみたいと思った。たんぽぽの綿毛のように軽やかな毛は、一体どれほど柔らかく、暖かいのだろうか。
それにしても、あのウサギは一体何をしているのだろう。
木の根元をウロウロしているウサギの姿にネズミが首を傾げた。どうやらウサギは巣穴を掘ろうとしているらしい。しかし銀色のウサギは穴を掘るのはあまり得意ではないようだった。その美しい毛が土で汚れるのを気にしているからかも知れない。穴の壁が掘った横からボロボロと崩れるのを見て、ネズミはヒヤヒヤした。あんな穴では、夜に寝ている間に天井が落ちて生き埋めになってしまう。
疲れた顔で溜息をついたウサギが諦めて食事に行った隙に、ネズミはウサギの巣穴の反対側にまわり、奥から穴を掘り進めた。あっという間にウサギの巣穴に辿り着くと、丁寧に土を固め、大きな石を取り除き、余分な土を外へ蹴り出す。そしてウサギが帰ってくる前に、素早く自分の穴に逃げ込んだ。食事から帰ってきたウサギは、綺麗に作り直された穴ぐらを見て不思議そうに首を傾げ、続いてとても嬉しそうに鼻を蠢かせた。
ネズミが密かに手伝ってやったおかげで、ウサギは森の皆が羨む素敵な巣穴を手に入れた。そしてその巣穴で、ウサギは五羽の子ウサギを産んだ。
毛の無い子ウサギ達は、少しだけハダカモグラネズミに似ていた。もぞもぞと動きまわる子ウサギ達を、ネズミは壁にこっそり開けた穴から毎日眺めて過ごした。母ウサギの柔らかな毛に抱かれて眠る子ウサギ達を見ていると、なんだか自分まで温かで幸せな気持ちになった。
心地良い巣穴に守られ、子ウサギ達はグングンと大きくなった。そしてひと月もすると柔らかな毛が生え揃い、やがて母ウサギに連れられて一羽、また一羽と外の世界へ飛び出していった。
後には誰も残らない……はずだった。
❀
壁に開けた穴から、ネズミは息を潜めてウサギの寝床を見つめていた。そこには、一羽の小さな子ウサギがうずくまっていた。
……病気だろうか。まさか死んでいるということは……。
嫌な想像に心臓がキュッと縮み上がる。寝床に丸まってピクリとも動かない子ウサギの匂いを嗅ごうと、ネズミが壁の穴から鼻先を突き出した時だった。
「あなたは神様ですか」
不意に顔を上げた子ウサギが、ネズミの隠れる壁に向かって尋ねた。
神様だなんてトンデモナイ。ネズミはすっかり驚いてしまい、一目散に逃げ出した。
……巣穴の天井が崩れかかっている。
子ウサギが眠ってから直しておこうと思ったが、子ウサギはいつまでも寝床の中でゴソゴソしている。ようやく大人しくなったところを見計らい、ネズミが小さな穴から這い出した。音を立てないように気をつけながら、余分な小石を取り除き、土を固め、丁寧に天井を補強する。
「あぁ、やっぱりあなたは神様だ」
不意に背後から声を掛けられ、ネズミが飛び上がった。その拍子に直しかけの天井がバラバラと崩れる。砂利と土の陰に慌てて隠れたネズミに向かって、子ウサギが嬉しげに鼻を鳴らした。
「母さんが話してくれたんです。土の中には恥ずかしがり屋の神様がいるって。神様はとても親切で、穴を掘るのが上手で、この巣穴も僕らのために作ってくれたんだって」
運が悪いことに、子ウサギはネズミがこっそり作った小さな抜け穴を塞ぐようにして立っている。一体どうやって逃げ出そうかとネズミが悩んでいると、子ウサギが不思議そうに首を傾げた。
「神様はどうしていつも隠れているんですか」
「……毛がなくて、寒いからです。そもそも私は神様ではありません。素っ裸の神様がいるわけないでしょう」
寒いよりも恥ずかしい。そして何より恐ろしい。自分の醜い姿を見れば、きっとこの愛らしい子ウサギは怯えて逃げてしまうだろう。嫌われるのは馴れている。けれども夜のケモノ達がうろつくこんな夜更けに、か弱い子ウサギを巣穴の外に出すわけにはいかなかった。
「毛がなくても大丈夫ですよ。母さんが自分の毛でブランケットを作ってくれました。僕と一緒にコレに包まれば大丈夫です」
「……毛がないだけではありません。私は身体中に皺があります。長い前歯が飛び出ています。眼は小さくて、ミミズのような尻尾があります。私はとても醜いのです。私を見れば、誰もが嫌な気持ちになります」
長い間黙っていた子ウサギが、やがてクスクスと笑い出した。
「それなら心配要りません。だって僕は、身体が弱いだけではなくて、目も殆ど見えないのですから。だから家族は僕を置いて行ってしまったのです」
澄んだ黒目勝ちの瞳を僅かに細め、子ウサギが仄暗い穴奥を見つめた。
「神様」
「私は神様ではありません」
「僕と友達になって下さい。母さんのブランケットは暖かいけれども、独りぼっちで眠るのは、胸の辺りがひどく寒いのです」
しょんぼりと耳を下げて俯いた子ウサギを、ネズミはじっと見つめた。独りぼっちで過ごす夜の寒さと暗さを、ネズミは嫌というほど知り尽くしていた。少し迷ってから、ネズミは恐る恐る穴の奥から這い出した。
ネズミが近付く気配を察し、子ウサギが愛らしい耳をぴんと立た。緊張で体を硬くしているネズミの匂いをふんふんと熱心に嗅ぎ、やがて遠慮がちに、けれどもとても嬉しげに、子ウサギがそっとネズミに身を寄せた。
すうすうと寝息を立て始めた子ウサギの毛は、たんぽぽの綿毛よりも柔らかく、木蓮の花びらよりも滑らかで、月を映す水面のように艶やかな青みを帯びた銀色だった。
そして何より、子ウサギの小さな体は、とてもとても温かだった。
翌朝、目覚めた子ウサギは柔らかな前足で丁寧に耳と顔を洗うと、ネズミに向かって愛らしい鼻をヒクヒクと蠢かせた。
「お腹が空いたので、ちょっと野原まで食事に行ってきます。神様も一緒にいかがですか?」
「私は神様ではありませんし、昼間に外に出るのは好きではありません。ところであなたは目が見えないのに、どうやって食べ物を探すのですか?」
「大丈夫ですよ。ウサギは耳も鼻も良いのです。目が見えなくたって、知っている場所ならたいして不自由はありません……崖から転げ落ちないように気をつけてさえいればね」
子ウサギは悪戯っぽく片目をつぶってみせると、元気に外へ飛び出していった。けれどもネズミは心配で、野原に向かって穴を掘り、子ウサギが崖から落ちないように見張ることにした。
ネズミが野原に着くと、子ウサギは野原の真ん中でのんびりと食事をしていた。草の間に見え隠れする子ウサギの銀色の耳に、モンシロチョウが戯れる。
不意に背の高い草の陰で何かが動いたような気がした。長い間土の中で暮らしてきたネズミは太陽の光が苦手だったが、我慢してジッとその小さな目を凝らした。と、子ウサギの背後に黒い影が忍び寄るのが見えた。ふさふさした金色の尻尾と、舌舐めずりする唇の間に光る尖った牙に気付いた途端、ネズミは穴から飛び出し、シューシューと唸りながら黄色い歯を剥いた。突如目の前に現れたその余りに醜い姿に腰を抜かすほど驚いた狐は、後も見ずに逃げ出した。
「神様……?」
ネズミの唸り声に気付いた子ウサギが振り返り、不思議そうに首を傾げた。
「そこにいるのは神様ですね。どうかしましたか?」
「どうもしませんよ」
「神様はお昼間は外に出ないのではなかったのですか?」
「……そうですが、良い匂いの草を探しに来ました。穴ぐらに敷くと、虫がこなくて気持ちがいいですからね」
「どの草がお好きなのか教えて下さい。僕もお手伝いしますよ」
嬉しげに鼻をひくつかせて野原を跳ねる子ウサギを見守りつつ、ネズミは辺りの気配に気を配った。そして子ウサギに近付く狐やイタチを追い払った。
気味の悪いネズミに守られた子ウサギの話は森の動物達の間で密かに有名になり、やがて誰も子ウサギを狙うことはなくなった。けれども同時に、小鳥やリスや他のウサギ達でさえも、子ウサギに近付かなくなった。ネズミはそれがひどく申し訳なくて、やはり自分などそばにいない方が良いかもしれぬと思い始めた。
「神様。一緒に日向ぼっこしましょう」
子ウサギがシロツメ草の花畑に誘うと、ネズミは首を横に振った。
「私は神様ではありません。そして私は日向ぼっこは結構です」
「どうして? 神様は寒がりじゃないですか。お日様は暖かくて、気持ちがいいですよ」
「……私がそばにいると、あなたには友達が出来ません」
「神様は僕の友達ではないのですか?」
「私は……とても醜いのです。小鳥達のようにあなたの為に歌うことも出来ず、子鹿達のように高く跳ねることも出来ない。あなたなら、もっと綺麗で楽しい友達が出来るでしょう」
「僕も歌なんて歌えませんよ。ウサギはみんな音痴です」と子ウサギが肩を揺らして笑った。「そして僕は目が見えない。子鹿なんかと遊んだら、蹴られて死んでしまうかもしれない。そんなアブナイ遊びはごめんです。僕は他の誰かではなく、神様と日向ぼっこがしたいのです」
子ウサギがいいと言うなら、ネズミにだって文句はない。醜いネズミと目の見えない子ウサギは、誰にも邪魔されることなく日向ぼっこを楽しみ、ひっそりと平和に暮らした。それは、ネズミが生まれて初めて知る、優しく暖かな日々だった。
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「とても良い香りのモノを見つけました」
子ウサギが口一杯に持ち帰った桜の花弁が、薄暗い穴ぐらを仄かに染める。
「涼しくて気持ちがいいですねぇ」
ネズミが掘った穴を使って遠出して、夜の湖畔で夏虫の歌に耳を澄ます。
「僕はキノコってのはあんまり好きじゃあないなぁ。甘くて柔らかい実の方が好きです」
山でキノコ狩りするネズミの隣で、子ウサギが口を尖らせる。
「なんだかとても暖かいですねぇ……うぃっく」
雪に閉ざされた穴ぐらで、ネズミが作った果実酒の香りに仲良く並んで酔い痴れる。
季節が巡る。
冬が暖かな眠りを誘い、やがて訪れる春の息吹に胸の内が優しくざわめく。子ウサギはすでに子ウサギではなく、けれども母ウサギに良く似た彼の毛はふわふわと柔らかく、その美しい光沢を失うことはなかった。
「私はあなたの毛色が好きです。月の光を映して、銀色に輝いていますよ」
「そうですか」
ネズミに褒められると、子ウサギはいつも少し恥ずかしそうに笑う。
「僕には見えないのでよく分かりませんが、でもあなたが喜んでくれるなら、僕も嬉しいです」
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それは、ネズミが子ウサギと暮らすようになって、幾度目の春のことであったか。
子ウサギは昔ほど高く跳ねることも、速く走ることも出来ず、それどころか体を動かすことさえ難しくなっていた。
「僕はとても歳をとりました。僕の兄弟姉妹は、もう誰も残ってはいません」
暖かな春の夜、穴ぐらの入り口に横になったウサギが静かに溜息をついた。
「僕は生まれつき身体が弱かったので、夏を越えては生きられないと、皆が言いました。僕がこんなに長生き出来たのは、あなたのお陰です」
流れる刻の速さは生き物によって違う。神々がウサギ達に与える時間は決して短くはなかったが、しかしハダカモグラネズミに与えられたモノほど長くはない。
ウサギに気付かれぬよう声を押し殺し、ネズミは静かに涙を流した。振り返ったウサギが長い耳を動かし、僅かに首を傾げた。
「神様……泣いているのですか?」
「私は神様ではありません。そして泣いてもいません」
彼がいなくなれば、自分はまた長い時を孤独に生きなければならないのだろう。自分のように醜い者を受け入れてくれる者など、他にいるはずもない。優しく愛らしい子ウサギは、目が見えなかったからこそ己の友と成り得たのだ。そしてそのことにネズミは安堵し、同時にいつも後ろめたく思っていた。
「知っていますか? 月には沢山のウサギが暮らしているそうです。ずっと昔、母さんが話してくれました。ウサギは死んだら月にいくのだと。僕も、もうすぐ月に行きます」
悲しみに打ちひしがれ、無言で俯いたネズミに、ウサギがそっと身を寄せた。柔らかな銀色の毛が月に淡く煌き、ふわふわとネズミの鼻先をくすぐる。
「僕は、いつも月からあなたを見ています。だから、神様も、時々月を見て下さい」
深く澄んだ瞳が夜空を見上げ、ふわりと微笑んだ。
「……今晩は月が綺麗ですね」
(END)