父と息子
「……うん、わかった。幹事長には私から伝えておこう」
長身の男が携帯片手に歩いている姿は妙に映えて彼の目には見えた。世に出た当初は不格好だのといわれていたスマートフォンも、10年や20年経てばネコも杓子も老人も持つ現代の必須アイテム。今ではスマートフォンすら時代遅れの産物になりつつあり、回線圧迫の元凶として世間から睨まれる電波泥棒のレッテルを貼られつつあった。
そのスマホを今も使い続ける隣の父は、一体何を考えてそうしているのだろう。ため息とともに通話を切ったらしい父に訊いてみようかという思いが湧き上がるが、つまらない質問だと取り下げる。どうせ韜晦されて終わりだという諦めもあったし、なにより自分には使命があったからだ。
片手にぶら下げている紙のケース。内奥に1ホールのケーキを仕舞いこんだそれを徒歩で店に受け取りに行くというミッションで、その理由は至極単純だった。父から見た孫、自分から見た娘の誕生日パーティーのためのサプライズだ。
この辺りに住み続けて何十年の父をお供につけて、どうせ暇でしょうと母に送り出された数十分前のことを思い出す。和菓子屋を営む義父母と税理士事務所を経営する両親は自分たちが結婚する前から各々友人同士だったらしく、孫や小さいころの自分たちのパーティーともなるといつもどちらかの家に集まってはハッピーバースデーとやっていたのだった。父が国会議員になってもその習慣は変わらず、三兄弟の末っ子の自分が独立してからも密かに続いていたらしい。堅物の父や道場を継いだ長兄がその日だけすべての予定や稽古をキャンセルしていたと聞いた時には文字通りひっくり返ったものだ。
そんな伝統行事の裏を聞かされては、苦笑する義母に助けを求められるはずもなく。母に言われるがままケーキを受け取りに片道2キロはある道のりを父と歩くことになったのだった。
それにしても、復路に入って尚歩調を落とさない齢70の老人はどこからエネルギーを得ているのだろうか。再び疑問に思った彼だったが、電話が終わってから険の取れない父の横顔を見て出そうと思った言葉も萎縮してしまう。
「琴穂ちゃんはどうしてる」
琴穂。親たちの付き合いで友人となり、今では最愛の妻になっている女性の名だ。見目麗しく、気が利き、要領もいい。身内の贔屓目を差し引いても十分に好物件で、自分にはもったいないとすら思える彼女。付き合い始めてすぐに婚約を取り付けたのはよかったが、婚約当初はすぐに反故にされるのではないかと悶々とした夜も少なくなかったものだ。
どうやらそれすらも見透かされていて、放って置けないと彼女の中では見られていたらしい。婚約から半年後、式場のパンフレットを片手にこう言われるまで、彼女の本心を知らないままだった。
――あなたとまとまらないと、あなたも私もだめになるから。お母さんもお義母さんも心配しててうるさいから、早く。
この話を披露宴でされたときには顔から火が出るかというほど恥ずかしかったものだが、今では無事に笑い話になってくれている。「元気だよ」とだけ答え、少しだけ付け加えた。
「お義母さんと近所を回ってるんじゃないか? 貴穂もくっついて」
貴穂の名前を出すと一瞬柔らかな光を目に宿すのは義父と同じだった。2回流産した末にやっと産まれてくれた宝物。義母の友人がやっている病院では奇跡の子とすらいわれた赤子は、義父と父の合作意見で貴穂と名付けられた。彼らにとっては、貴穂と名付けられたその奇跡がかくあれという未来なのだろうか。考えても詮無いこととはいえ、つい10年前まで世の泥を啜ってきた父2人には彼らのみが持つなにかがあるのだろう。「そうか。……順調なんだな?」という声には万感が込められていた。
「まあね。やっと小学校だし」
「……私も老けるわけだ」
耳を疑うという表現がこの時ほどしっくりきた時はなかった。いつも自信家で、弱音を吐きがちだった自分を母が止めるまで叱咤していた父が。感慨深げにため息をつき、老いを受け入れるなど。「まだ70だろ? 若いよ」と反駁する声も震える。
「老けたさ。お前や琴穂ちゃんに比べれば」となんでもないように続ける父は、やはり見知った父とは違う人間のようだった。若いものには負けぬとばかりにPCも携帯も使いこなしてみせた父と同一人物とは認めたくなかった。
「……なんかあったの、さっきの電話。同僚だった人からだろ」
原因を求めるあまりに突き進んだのは失態だった。父は仕事の話になると頑として口を利かなくなるのが常で、今も「いつも通りの相談事だ。お前が首を突っ込むことじゃない」と途端に頑なになってしまう。
「そっか。お仕事だからね」
纏う雰囲気すら一変させてしまうそれは、元国会議員という経歴がなせる技なのか。あるいは、それ以前のなにかから来るのか。それすらも判然とせず、ただ生返事を返すことしか出来なかった。
ただ気まずい時間ばかりが景色とともに流れる。かくしゃくとした父も歩調は少し落ちているようで、自分が少し抑えなければ置いていってしまうような速度だった。
「……お前の仕事はどうなんだ。関西に転勤したあと、音沙汰が無いが」
気まずさに耐えかねたのか、父が珍しくおずおずという風情で問いかけてくる。「関西の営業本部長から関西業務本部付きになった」と答える自分の声も、意識しなければ喉につっかえそうだった。似たもの親子かな、と内心苦笑する。
「呉とか舞鶴とか、よく飛ばされるよ」
冗談交じりという口調を演じる。出世街道をリタイアしたつもりはないが、さりとて出世頭というわけでもない。点数を稼ぐには大口の顧客のもとを行脚しなくてはならず、防衛産業を手がけているともなれば大口も大口の自衛隊を頻繁に訪問するのもやむをえなかった。
「琴穂ちゃんも大変だな」とあわせて苦笑してくれる父も、やはりそのへんの塩梅はわかっているようだった。国会議員の前は何をしていたのかも判然としない父だが、少なくとも勤め人ではあったのだろう。官僚だったという噂を聞いたこともあったか。「貴穂のおみやげコールもすごくてね」とやり返しながら、いつの間にか差し掛かっていた角を曲がる。
どうやら実家のすぐ近くまで戻ってきていたらしい。通りに立っている母の和服姿と琴穂の清楚な洋服姿が対称的だった。お、と声を出した父が歩調を速め、まっすぐ母のもとに向かう。時に息子よりも優先する愛妻ぶりは変わらずのようだった。それならと対抗してしまうのは自分の短絡的な発想ゆえなのだが、今は貴穂がうずうずして待っているのだろうケーキが手にある。偉い偉い、と視線で褒めてくる琴穂に苦笑して、彼も気持ち急いで妻のもとに急いだ。