義武士
史実を基にした架空の物語です。
一六〇〇年 七月。
「お前、死ぬ気か?」
蝉の声が、陽向の匂いと共に佐和山の城に惜しげも無く吹き込む。不要なものは全て片付けられ、閑散としながらも何処か趣のあるこの座敷に、二人の男が対峙していた。
一人――顔面を白い頭巾で覆っていて、中の表情を伺うことは出来ない――が、目の前で憮然と胡座をかく男に問い掛ける。もう何度口にしたか分からない、同じ問い。頭の隅では、このやりとり自体が無駄だとは分かっている。しかし、考え直してくれるのではないかという泡沫の期待を、彼は抱かずにはいられないのだ。
「三成よ……死ぬ気なのか?」
三成と呼ばれた仏頂面の男が、重々しく嘆息する。これもまた、何度目になるか分からない。細身でもう若くは無いが、鬼気とした光をつり上がり気味な目に宿す。
男は治部少、石田三成と言う。
「死ぬ気など無いと、何度言えば分かるのだ吉継。顔面だけでなく、とうとう脳みそまで膿んだのか?」
三成の毒を孕んだ言葉に、吉継と呼ばれた男は布の下で苦く笑った。
男は名を、大谷刑部吉継と言う。
「相変わらずじゃのう、お前は。……だが此度はよく考えよ。今、家康殿に逆らうなどぬかすとはお前、どうかしておるぞ」
「どうかしてるのは、お前だ」
「わし?」
「そうだ。お前も分かっているのだろう。秀吉様が亡くなったと見たら、あの古狸はすぐさま手の平を返したのだぞ」
三成はふんと鼻を鳴らすと、気怠いとでも言うかのように脇息にもたれ、扇子を扇ぐ。吉継はたとえ友の前でもきちんと居住まいを正している己が、何だか急に馬鹿馬鹿しく思えた。
「内府を討つのは今しかない。……おれの言いたいことが、お前にはもう分かるだろう、吉継」
三成が姿勢をそのままに、吉継に問い掛ける。吉継はそのまま、ただ沈黙する。
「吉継、聞いてるのか? この暑さでとうとう逝ったか」
「残念だがまだお前の目の前におるぞ。……だがの、三成よ」
吉継は己の顔面を隠す布を摘み、肌との間を空ける。暑い、とは此処暫く感じていないのだが、肌にへばり付く布が不快なのだ。そんな吉継の姿を、三成は面白くないと言った風に眺めている。
「わしの姿を見ろ。業病に侵され、皮膚は腐り、目もろくに見えなくなった。こんなわしに……もう、何かを成す力など残っとらん」
吉継は布の中で、自虐の笑みを浮かべる。それが、三成の目に触れることは無かったが。
吉継には、長い間患っている病がある。皮膚は膿み肉は崩れ、視力さえも奪う奇病。この彼の病は、今まで治癒するどころか、回復の兆しを見せることすらしなかった。
「もしわしが一人だったら、こんな姿など耐えられずに、とっくにこの腹を切っていただろうよ。だが三成、お前が居たから、わしは今も此処にいる。……だから――」
「それが、何だ? お前の弱音など興味がない。おれが聞きたいのは、俺に力を貸す気があるのかどうかだけだ」
今度は吉継が、溜め息をつく番であった。三成の傲慢な物言いは、今に始まったことではない。だが問題は、彼の考えだ。
今家康に刃向かい挙兵なんてしてみれば、文字通り犬死ににしかならない。それを、三成は分かっていない。
己が正義だと、そして正義は負けないと真っ直ぐに信じて疑わないのだ――
「……わしは」
力は貸せん。吉継がそう言うと、暫くの間沈黙が場を満たした。
否、完全な沈黙ではなかった。傍らの大きく開けた景色からは、相変わらず夏の風と蝉の声が吹き込んでいる。そして、吉継の耳には確かに届いていた。見えるのは、ただ闇だけ。しかし、聞こえていた。
三成が上げた、小さな驚きの声を。吉継が己を拒むなど、考えてもいなかったのだろう。
「吉継……お前なら、分かってくれるだろう? “大一大万大吉”、お前には届いていると思って――」
「“左吉”」
明らかな焦りを見せる三成に、吉継はまるで当て付けるように冷たく言った。左吉とは、三成が小姓の時の名である。
突然昔の名を呼ばれ、三成は身体を強ばらせた。吉継と三成、二人は互いに紀之助と左吉と呼ばれる頃からの付き合いである。二人は互いのことを己のように知る、友であり兄弟のようであった。
「……明日、もう一度聞く」
吉継は静かに立ち上がり、三成に背を向けた。三成は、何も言わない。ただ拳を堅く握りしめて、畳の目を睨む。
「一晩待とう。今一度夜風に頭を冷やし、その馬鹿げた考えを改めろ」
「紀之助、俺は――」
はっ、と三成がその先を言い淀む。咄嗟に口を突いて出たのは、吉継の幼名。三成が吉継を頼りにしていたのは、もはや隠しようがない。
「明日、また来る」
吉継は、三成を一人残しその場から席を外した。否、逃げ出したと言うのが、正しいかもしれない。
きっと、明日になっても三成の考えは変わらない。己が背を向けたくらいでは、三成の刀のような気高い信念を変えることは出来ない。
風で頭を冷やしたかったのは、誰でもない、吉継自身であったのだ。
夜、吉継は寝床で胡座をかき、一人思いに耽っていた。冷ややかな風が心地良く、昼の熱は何処にもない。寝間着の袖から覗く朽ちた肌を、そして彼自身の陰鬱な気持ちも、部屋に注ぐ青白い月明かりが静かに照らす。
「大一、大万……大吉か……」
呟きは、線香の白煙と共に夜風に流れゆく。家康につくべきなのは、疑う余地もない。それが証拠に、既に各地で動きが見える。
対して三成はどうだ。家康のことばかり気にしていて、周りが全く見えていない。彼自身は切れ者なのだが、横柄な性格からか人を束ねる才に関してはからきしだ。これでは、今の時点で勝敗は決まっているも同然。
しかし、三成の志はどこまでも己に真っ直ぐだ。だから、迷うのだ。今、三成につけば己は死ぬ。しかし、家康について三成を見殺しにすることなど、吉継には身を引き裂かれるより耐え難い。
「……どうしたものか」
吉継は、布越しに朽ちた頬を掻く。その時ふと、とある記憶が脳内に蘇った。それはまだ、吉継が素顔を晒し、光もまだ易々と見えていた頃。秀吉が、まだ天下統一を成し遂げていなかった時だ。
もっとも、その頃には既に吉継は今の病を患っていた。顔中にきつく布を巻き、可能な限り人との関わりを絶っていた時期が彼にはあった。己の崩れ行く病に周りの人間は恐れていたが、一番恐れていたのは吉継自身だったのである。
だが吉継には、とある茶の席に嫌々ながらに参上したことがあった。それは秀吉が直々に開いたものであり、ぞんざいに扱うことが出来なかったのだ。
姿を晒した時の、秀吉の哀れむような視線は今でも忘れられない。誰がその場にいたのかはよく覚えていないが、避けられたり嘲笑っていたのは確かに記憶に刻まれている。
そう言えば、三成もいた。相変わらずの仏頂面だったのを吉継は、未だに鮮明に思い出せた。
この茶会は一つの茶碗に茶を煎れ、それを一人一人に回し飲みするものだった。その時は最初に秀吉が口を付け、そして近くの者から茶碗が回されたのだ。
勿論、例外なく吉継のもとにも茶碗は回って来た。吉継も礼儀を守り、茶碗に口を付け、隣りの者に回そうとした、まさにその時だった。
――今、茶碗に膿が垂れたのではないか?
何者かが小声で、だが確かにそう囁いた。何者が誰かは分からない。しかしその一言が、場の雰囲気を一変させた。
皆の視線が、吉継に冷たく刺さる。彼の後の者が、口を付けるふりをして茶を飲んでいないのも明らかだ。
吉継は思わず湧き上がる怒りを叫ぼうともしたが、出来なかった。得体の知れない奇妙な病が、茶を通じて感染しないと誰が証明出来るだろうか。
いや、誰にも証明することなど出来ない。
次第に吉継の中に様々な感情が蠢いた。怒り、悲しみ、悔しさ、後悔。彼は拳を堅く握り締め、その場の空気に耐えることしか出来なかった。
だが、その場の空気を一変させた男が一人だけいた。男は己のもとに茶碗が回って来ると、残っていた茶を喉を鳴らして飲み、そのまま一滴残らず飲み干してしまったのだ。
それが、三成だった。彼は奇異の視線を向ける皆に向かって、秀吉の目の前であったにも関わらず、頓狂な声で言い放ったのだ。
――悪い、喉が渇いて死にそうだったのでな。全部飲んでしまった。
「……そうだ、そうだった」
吉継は思い出した。あの時の三成を。あの時に胸を満たした、熱い気持ちを。
「嗚呼……何故だ、わしは馬鹿か……」
迷うことなど、最初から何も無かったのだ。答えはあの茶会の席で、とうに決まっていたのだ。
三成は吉継の病について、“何も”思っていなかったのだ。気味悪がることもなければ、蔑むこともしなかった。だから、吉継から回ってきた茶を飲み干すことが出来た。石田三成という男は、病が感染する、奇異の目で見られる、そんな些細なことを気にするくだらない男では無かった。三成に、感謝の涙を零したのは誰だったか。当時の己は、三成に対して何を思ったのか。
そして己は、己の生き方はただ座敷の奥に座っているだけのつまらない物なのだろうか。病に負けて、このままこんな辛気臭い床で余生を過ごすのだろうか。吉継の思考が徐々に熱を帯び始める。
そう、己はただ朽ちるために今を生きているわけではない。
「……本当に馬鹿だったのは、わしの方だったようじゃのう」
吉継は寝床から抜け出し、力強い足取りで縁側に続く襖に手をかけた。
ひやりと、夜風が彼の肌を撫でる。病に侵され、肌は感覚の殆どを無くしている。だがしかし、確かに感じ取れた。頭巾の奥の瞳は、力を失ってもう長い。だがそれは、確かに強い意志を持って先を見据えていた。
――くすぶっていた僅かな火種がこの瞬間、再び吉継の中で赤々と燃え上がり始めたのだ――
◆
九月 関ヶ原。
木々に繁る葉は色鮮やかに染まり、そして地面を彩る秋。しかし此処、関ヶ原の地には四季の美しさなど何処にも見当たらない。
地面を彩るのはどす黒い紅、飾り立てるのは冷たい屍。折れた刀は何を表すのか、砕けた具足は何を意味するのか、それは童子にも理解出来る程に単純にして明快。
「小早川、東軍に寝返り!!」
伝令の声が、兵の動揺を買った。己を見失ったかのように、慌てふためく彼らを制したのは、仮面越しに発せられた怒号だった。
「静まれえぇ!!」
ぴたりと、一瞬にして辺りに静寂が広がる。兵達は声の主を、我らの主君に注目する。彼は紅の面具で顔面を覆い、采配を振り上げ、光り無き瞳で、だがしかし確かに揺れる兵達を見据えていた。
「戦場では平静を欠いた者が死ぬ。絶対に隊列を崩すでないぞ!」
吉継は輿に乗り、采配を高々と振りかざす。視力を失い、馬に跨る力すらもはや持たずに、それでも最前線で指揮を奮う彼の雄々しい姿に兵達は奮起した。己を取り戻した兵の志気を朽ちた肌で感じ取り、吉継は安堵する。
同時に怒り、そして焦りを覚えた。小早川軍の裏切りにより、吉継が布いた策に亀裂が入ったのだ。関ヶ原の地形を利用した、石田三成率いる西軍のたった一つにして最大の必勝策。まるで鶴がその両翼を広げたかのように、敵を誘い込み包囲出来るように布かれた陣。“鶴翼の陣”だ。
西軍では、三成が七千の兵を従えて笹尾山に本営を構えている。続いて天満山には小西行長の六千と宇喜多秀家の兵一万七千。宇喜多軍の南側にあたる中山道には吉継、戸田重政、平塚為広の千五百、。松岡山麓には脇坂安治の九百九十、朽木元綱の六百、小川祐忠の二千百、赤座直保の六百。
そして、小早川の大軍は、吉継の軍に程近い松尾山に布陣していた。一万六千の兵が寝返ったのは痛いが、まだ負けを認めるわけにはいかない。吉継は己の兵と共に、自身の闘志も奮い立たせる。
二カ月前、徳川家康に反旗を翻した。最善の判断では決してない。だが、吉継は決めたのだ。三成にこの関ヶ原の地で、恩を返すことを。
思い出したのだ。己が武士であることを、三成がたった一杯の茶で己を救ってくれたことを。
――お前、本当におれに力を貸してくれるのか?
二ヶ月前、吉継は三成に言った。己の命をくれてやる、と。
――この病、千の血を浴びると治癒すると言うからのう。
――……阿呆だな、お前も。そんな戯言、微塵も信じてなどいないくせに。
「わしは、良き友を持てて幸せだな」
ふっ、と仮面の下で吉継は小さく笑う。本当なら己も武士らしく、馬に跨り刀を振り回したいのだが、どうしてもそれは無理だった。しかし、戦場にいられるだけでも、吉継は何度三成に感謝したか分からない。戦場こそが、武士の居場所なのだから。身体は病に侵されたが、魂は誰にも汚された覚えはない。
必ず三成に勝利をくれてやろう、吉継はそう思っていた。
「小早川の方は鉄砲で応戦せよ。忘れるな、自分たちの旗の字を。“大一大万大吉”の心を」
西軍が掲げる旗印。一人は皆のため、皆は一人のため。三成が秀吉から受け継いだ、泰平の世への思い。己を育ててくれた亡き主に捧げる決意の証、それが“大一大万大吉”だ。
「殿! 小早川軍の第三陣を打ち破りました!!」
吉継の軍に歓喜の波が寄る。敗北の文字がちらつく暗黒の中に、僅かな光が輝く。
「絶対に引くな!! このまま憎き裏切り者の首を斬るのだ!!」
兵の志気が、今や最高潮まで奮起した。焦り動揺を見せるのは、今では小早川軍の方だった。裏切りの兵達の屍が関ヶ原を、天下分け目の決戦を盛大に飾り立てて行く。その景色は、不思議と吉継にも見えていた。
だが、此処までだった。
「脇坂、朽木、赤座、小川。東軍に寝返り!!」
「なっ……」
「藤堂、織田、京極の三軍も我らに攻撃してきました!!」
濃厚な鉄錆の臭いと共に、再び伝令の声が吉継の耳に届く。悔しくも、小早川軍の裏切りにより、更なる裏切りを西軍を襲った。もはや力の差は歴然。
――勝利という微かな灯火は、敗北という名の冷たい暗黒にかき消されたのだ――
「此処まで……か……」
吉継は、その手に握る采配を、静かに下ろした。それを見た大谷軍は、それでも一人もその場から逃げ出すことはなかった。吉継はそれほどまでに、兵達に慕われていたのだ。
彼らは己のやれることだけをやっているのだ。吉継も、やらなければならない。まだ諦めたくはない。しかし、このまま戦い続けるわけにもいかない。本当に、苦渋の決断である。
しかし敵に渡すわけにはいかない。己の、首を――
「すまぬ……三成……」
吉継は従者を伴い、山奥へと隠れた。戦場の喧騒から遠いこの場所を、吉継はやけに静かだと感じた。秋の冷たい風が、木々の葉を不気味にざわつかせる。
「五助」
「はっ!」
吉継は自らの足で輿から降り、従者の一人を呼んだ。彼に呼ばれた湯浅五助、他に諸角余市、土屋守四郎、五助の従者である三浦喜太夫ら四人が、黙って吉継の姿を見守っている。
「介錯を頼む。その後、すぐにこの首を何処かに隠せ。今まで本当によくやってくれた。後はお主らの好きにせい」
「それは……出来ませぬ、殿」
五助はぼろぼろと涙を流し、震える声で言った。吉継は見えない目を五助に向け、あえて悠然として見せる。
「泣くな。五助よ、わしはもう充分に生きた。このような人離れした姿で、戦場で死ねることを喜んでおる」
「っく……です、が……」
「わしの最後の願い、聞いてくれんかの? この崩れた顔、晒されるのはちとつらいのだ」
五助は拳で涙を拭い、力強く頷いてみせた。他の三人も、目尻に涙をいっぱいに溜めている。見えなくても、感じることは吉継にも出来る。
「……ありがとう。そして、さらばじゃ」
吉継は空気を肺一杯に吸い込むと脇差しを握り締め、それを己の腹に突き立てた。一文字に腹を切り、勢いのままに縦を裂く。一瞬の痛み。そして、無に溶け行く感覚に静かに身を委ねる。
――左吉よ、地獄で会おう。
五助は流れ落ちる涙をそのままに、煌めく刀を振り上げた。
◆
三成は走っていた。武具はとうに脱ぎ捨てて、薄汚れた布を身体に巻き付けただけのような、みすぼらしい姿で山中の土を蹴り走る。
「はっ、はぁ……くそ……」
疲労した足を、草は悪戯に捕まえる。崩れ落ちそうになる身体をなんとか持ち直し、再び走り出す。行き先は、無い。己を待つ部下も友も、もういない。
――お伝えします! 刑部様自刃! 大谷軍、全滅です!!
「嘘だ……」
三成の目に、もう何度も繰り返された光景が再び映し出される。まだ若い伝令の青年が、馬から落ちるように己の目の前に駆け寄り、泣き声のような震える声でそう叫んだのだ。彼は敗走ではなく、“全滅”と言ったのだ。
「嘘だ……何故……」
ついに三成の足が止まる。傍の木に片手をつき、荒い呼吸を鎮めることに徹する。どうして、こんなことになった。何故、三成の周りから皆が居なくなった。
勝てる戦だった筈だ。西軍には有能な三成の側近である嶋左近や小西行長、そして吉継など信頼出来る者が三成の傍にいた筈なのだ。
だが負けた。数々の裏切りにより西軍は壊滅し、三成は今伊吹山の山麓にいた。そう、三成はただ走っていたのではない。逃げているのだ。
「許さんぞ……金吾……内府……」
三成は拳を木の幹に叩き付け、崩れ落ちそうな己を鼓舞する。だがどうしても、身体は既に限界を訴えていた。
「どこか……休める場所は……」
再び歩き出した足取りは重い。だがしかし、確実に敵との距離を稼いで行く。己に牙をむいた三成を、家康が放っておくわけがない。
暫くして、ふらつく三成が見つけたのは、洞窟だった。自然の産物なのであろうそこは、人の手が加わった形跡は無く、足元には大きな岩が転がっている。三成はそこへ身を隠すことにした。洞窟にひしめく闇は、静かに三成を迎えた。
「はぁ……」
三成の呼吸の音が、吸い込まれるかのように闇に消える。洞窟は深く、奥には何もない空間が広がっていた。壁に背を預け、ずるずると座り込む三成の傍には、誰も居ない。
三成は、独りになっていた。
「皆……本当に死んだ、のか?」
答えは、無い。三成は瞼を閉じ、長く息を吐く。目の前に広がる闇に、久しぶりの安堵を覚えた。
――殿、あの狸に目にもの見せてやりましょう。
「左近……?」
呼び掛けても、返事は無い。嶋左近勝猛は、三成の側近を務める男であり、有能な補佐役であった。それは周りから三成には過ぎたる代物として揶揄される程であったが、左近は常に三成の傍らにいて、その才を存分に奮っていた。
関ヶ原において、左近は一軍を率いて西軍の第一線にいた。彼の安否は不明だが、恐らく三成の考えで間違いないだろう。
「大一、大万……大吉」
三成の声が、そう紡ぐ。今まで掲げてきた信念を口にした刹那、酷く懐かしい声が彼の鼓膜を震わせた。
――のう、左吉ぃ! 大一大万大吉って知っとるかぁ?
「秀吉、様……」
訛りの強い、嗄れ声。秀吉は最後のその時まで、三成のことを幼少時代の名で彼を呼び、可愛がった。そして、まるで童子の落書きのような字――秀吉は農民の生まれだった故、読み書きが下手だった――で三成に教えた。大一大万大吉という言葉を。
一人は皆のため、皆は一人のため。殺伐としたこの戦国の世に、泰平を願う秀吉の思いに、三成は涙を流すほどに感動した。だから、三成は秀吉の思いを受け継いだ。大一大万大吉を、その広くはない背中に背負った。
「おれは……間違ってなど……」
己は間違いなど犯していない。家康に刃を向けたのは、過ちではない筈だ。それなのに、どうして負けたのか。正義が負けることなど、あるのだろうか。三成の思考は、徐々に泥沼へとはまって行く。
意識は微睡み、三成は自然と眠りについた。そして、もう二度と会えない筈の友と、酷く懐かしい姿で再会した。それはまだ、彼が病を患っていなかったあの小姓時代。
ある日、三成がまだ左吉と呼ばれていた頃。左吉は頭は良かったが、今と変わらない性格であった為に、自然と周りから煙たがれる存在であった。特に、同じ小姓の面々からは、事ある毎にその都度言い争いになっていた。
しかし、左吉はただ己を拾って育ててくれた秀吉の為に日々を邁進していた。そんな日々の中で、ついにそれは起こった。
――秀吉に気に入られているからって、調子に乗るな。
同じ小姓の一人が、生意気な左吉に激怒したのだ。きっかけは、とるに足らない些細なことだった気がする。しかし、それで十分だった。
一人が動けば、小姓全員の行動となる。左吉は巧みに罠に誘い込まれ、そして襲われた。
小姓達が棒きれを持って叩き合っている。一見すれば、互いに切磋琢磨しているようにしか見えない。しかしこれは、そんな生易しいものではなかった。
左吉は身体中に切り傷を作り、口端に青痣を拵えた。それでも小姓達は許そうとはせずに、尚も棒きれで左吉の身体を打った。
口の中に満ちる、鉄錆の臭い。左吉は学問では優れていたのだが、武道はからきしであった。加えて左吉の味方は、誰もいない。
こんな場所で、おれは死ぬのか。左吉が諦めかけた、正にその時だった。高く振り上げられた棒きれは、何時までたっても左吉を叩くことをしない。何か、おかしい。左吉は亀のようにうずくまった姿勢から、恐る恐る顔を上げた。霞む視界に入ったのは、誰かが左吉に振り下ろされる筈だった棒きれを、なんと素手で、しかも片手で掴んでいる姿であった。
――たった一人を大勢で殴るとは。お前達、男として恥ずかしいと思わんのか!?
明らかな怒気を孕んだ、凛々しい声。それは、左吉が知らない少年であった。肌の色は白く、風に靡く髪は艶やかな黒髪。顔はよく見えないが、背は高く左吉よりも年上のようだ。そして、小姓達の誰もが、彼を知らなかった。
――なっ、誰だお前!?
――構わんっ、やっちまえ!!
それからは、一瞬であった。小姓達は狙いを左吉から少年に変え、次々と棒きれを構え、振り上げた。少年は掴んだ棒きれをそのまま奪い取り、静かに中段に構えた。
左吉が唖然と見守る中、見知った小姓達はあっと言う間に地面に倒れ込む事となった。ある者は腹を押さえてうずくまり、またある者は足を押さえて悶えている。突然現れて、しかも己達をいとも簡単に退けた少年に、小姓達は恐怖の悲鳴を上げて逃げるしかなかった。
――大丈夫か? 成る程、お前が左吉だな。
少年は棒きれを捨て、楽しそうに笑いながら左吉の目の前まで歩み寄り、そしてしゃがみこんだ。そこまでされれば、左吉でさえ少年の顔を見ることが出来た。
涼しげな目元に影をつくる長い睫毛。黒漆の瞳は左吉の無様な顔を水面のように映し出していて、何だか恥ずかしくなって目を逸らした。それでも、染みも黒子も見当たらない顔は、男の左吉でも思わず見惚れてしまいそうな程に美しい。
――わしは紀之助。大谷村の紀之助じゃ。お前に頼みがあって来た。宜しくな、左吉。
馴れ馴れしい。それが彼の最初の印象。だが、不思議と嫌な感じはせず、寧ろ気持ちが良い。しかし元来の性格から、左吉は紀之助の顔ではなく、地面に転がっている石を見つめていた。
おれに出来ることなんて、何もない。ただちょっと頭が良いだけで、知らない少年に助けられた恩を返すことなんて出来ない。そう卑屈に思っていれば、紀之助は左吉の前で手をついた。
唐突のことで、左吉には理解出来なかった。それを知ってか知らずか、紀之助はその綺麗な額を地面にこすりつけて、こう叫んだ。
この紀之助を秀吉様に仕えさせてくれ、と。
三成の口元が、笑みで綻ぶ。
「あいつは、変なやつだったな……」
まるで風のように現れて、三成を救ってくれた美しい少年紀之助。それが、今の大谷吉継であった。吉継は初対面にも関わらず殴られる三成を助け、三成に己を秀吉に推薦してくれるように頼み込んだのだ。その瞬間から、二人の絆が繋がった。
親しい人間がいなかった三成の友となり、兄にもなってくれた。それが、三成には言葉では表せないほど嬉しくて。そして、才に溢れた彼を蝕む病が悔しくて。しかし彼を労る言葉など持っていなかったから、吉継と“普通”に接することしか出来なかった。あの茶会の席で、彼を庇う言葉が見つからず、膿が垂れたとかいう茶を飲み干すことしか思いつかなかった。
どれだけ病が重くなろうとも、醜く吉継の顔が崩れても、三成は全く気にしなかった。それが、彼に出来る恩返し。この戦いが終わったら、どうやって礼をしようかとずっと考えていた。
だが、今はもう何処にも居ない。今までの感謝の気持ちを、伝えることなど二度と出来ない。
――左吉よ。
何時の間にか、吉継は三成が最後に見た仮面姿で、三成の目の前にいた。だがその姿はおぼろげで、三成が手を伸ばしても彼には届かなかった。
――お前は、お前の信じる道を行け。わしは、お前を信じておるから。
「紀之助!!」
三成は手をいっぱいに伸ばし、友を呼んだ。だが、そこに吉継の姿は無い。代わりにあるのは、闇だ。
「おれの……信じる道……」
一つ一つの言葉を噛み締めるかのように、三成が言った。己の信じる道、三成のやるべきこと。
そんなことは、初めから決まっている。秀吉の思いを受け継ぎ、己を信じて散ってくれた友の命を背負い、再び立ち上がるのだ。
「行かなければ……こんな場所で、負けるわけにはいかない……」
三成は足に力を入れ、再び立ち上がった。痛みを訴える身体に叱咤し、再び歩み始める。
この先に村があった筈だ。そこで暫く匿って貰い、再び時を待ち、必ず家康を討つ。その思いが、今の三成の糧になっていた。
「見ていろ左近、紀之助……必ずおれが」
――秀吉様。この左吉が、必ず貴方が望んだ泰平の世を――
「――おれが、何なのですか?」
それは空耳でも、夢でも無かった。三成の隠れていた洞窟の前には、爽やかな風と眩しい朝日が待っていた。いつの間にか、一晩をこの湿った洞窟で過ごしてしまったらしい。
そして、まず始めに三成を迎えたのは、彼を待つ死だった。刀を構えた十人ほどの兵達は、皆東軍の者だ。
「石田三成、家康様がお待ちです。我々に同行していただきましょう」
朝日を跳ね返す刀が、三成の身体を裂かんと睨む。刀も、具足も無い三成には、抵抗の余地は無かった。背中を蹴られ、誰かが己の背後に回り、両手を縄で戒めるのを、三成はどこか遠いものでも見ているかのように、ぼうっと見つめていた。
――だが、三成の中では未だに消えてはいなかった。禍々しく燃える闘志の炎は――
◆
秋の風は爽やかに、三成の頬を撫でる。今年の秋は気持ちがいいと、三成はぼうっと考えていた。背中で縛られた腕の痛みを、針でつつかれ続けているかのような胸の痛みを、どこか遠い何処で感じながら。
「無様だな、三成よ」
何者かが、座る三成の頭上で言った。鼓膜に触れるだけでも三成にとっては忌々しく感じる、その男は名を、福島正則と言う。
「内府殿の考えも分からぬ阿呆が……滑稽だな」
三成と正則、二人は同じ秀吉の子飼いの一人であった。当時から二人の仲は良くなく、目が合うだけで言い争いを始める、そんな仲だった。
「秀吉様の義を足蹴にした屑に言われたくない」
「ふんっ、馬鹿馬鹿しい。何が義だ。……吉継もこんな阿呆につくなんて、顔面だけでなく頭の中まで腐っていたか」
正則のその言葉に、三成の中で何かが弾けた。それは無意識に蓋をされていた、灼熱より熱い憤怒の炎。
三成は顔を上げ、高い場所にある正則の目を見据える。磨かれた槍のような視線に、正則の背筋が凍る。
「おれの武運が拙かったのは認めよう。だが、紀之助を愚弄することは許さん。この身が消えたとしても、貴様のことは絶対に忘れん。……覚悟していろ」
決して、三成は叫んでいるわけではない。だが正則は、顔を青くさせるだけで、何も言い返せなかった。
だが三成の中の灼熱はもう、止め処なく溢れ出ていた。己が今まで信じた義を、命を賭けてくれた友を馬鹿にされて黙っているほど、三成は愚かではない。
正則とのやりとりにより、辺りはしん、と静かになっていた。だが、周りが止める声を押しのけ、三成の目の前にその姿を表した男がいた。
「三成……殿……」
男の姿を見た瞬間、三成の怒りは頂点に達した。まだ二十にも満たない青年の表情はまだ幼く、滑稽なまでに青ざめている。この頭を下げた青年こそが、東軍に勝利をもたらした小早川中納言秀秋だった。彼は俗に、金吾中納言とも呼ばれていた。
「も、申し訳ありません! 裏切る気持ちなど、欠片も御座いませんでした。ですが、家康殿から鉄砲で脅され――」
「…………い」
秀秋の言葉を打ち消したのは、至極小さな声だった。だがその声には、言い得ない怒気が含まれている。
「……もういい、貴様の戯言など聞きたくはない」
「信じて下さい三成殿!! 私は、本当に――」
「黙れ!!」
浴びせられた怒号に、秀秋は思わず顔を上げる。三成の恨みの眼に、秀秋の呼吸が止まる。
「愚かなことに、おれは貴様の醜悪な考えに気がつかなかった。だが、約束を違え、義を捨て、人を欺き裏切ったお前は武士の恥だ。思う存分末代まで語り継ぎ、そして存分に笑うがいい!!」
「そっ、そんな――」
「だがな金吾、貴様はこのまま生かしてはおかない。死んだおれは怨霊となり、貴様の魂をその身体から引きちぎり、地獄の業火で炙ってやる。友の命を奪った貴様を、この世が消えるまで一瞬たりとも忘れるものか!!」
秀秋は目に涙を溜め、何も言わずにそこから逃げ出した。この瞬間、秀秋の運命が大きく歪んだのを、誰も知る由も無かった。
そして、ついにその日が来た。運命という道の最果ては、案外寒風が吹き荒れる閑散とした場所なのかもしれない。
三成は小西行長、安国寺恵瓊と共に京都の六条河原にいた。他の二人は、迫り来る死の影に震えているのに対し、三成は悠然としていた。彼は決して、敗北に屈することはしない。
三成は眼光鋭く、辺りを見渡した。あまりの覇気に、竦む者さえ居るほどだ。
「本当に阿呆だなあいつは。今から死ぬと言うのに」
誰かが微かに呟く。それは確かに三成の鼓膜を震わせた。だが彼は、もう憤り噛み付くことはしなかった。
「では、そろそろ……」
暫くして、糊の効いた法衣を身にまとう老齢な僧侶が現れた。嗄れた耳障りな声で、読経をはじめようとした。
だが三成が、それを止めた。訝しむ僧侶に、三成の眼力が降り注ぐ。
「おれは法華宗だ。念仏などいらん」
辺りがざわめく。それを無視して、さらに三成は続ける。
「それに、おれは確かに戦には負けた。だが、決して天下に恥じるものではないはずだ。だから、あの世での成仏を願う経など、必要ない」
彼は、どこまでも抗い続けたのだ。己を見下し続ける氷の瞳に。身体を押し潰さんとする、海よりも深い思念に。
「……最後に、何か言いたいことはあるか?」
最後――その言葉が、河のせせらぎに溶けて消えた。暫くの沈黙の後、三成は静かに漆黒の瞳で見据えた。その先にいるのは、数々の策を用いて、西軍に敗北の沼に沈めた張本人である男。
後に二百年余の世に君臨せし、最初の統治者。内大臣、徳川家康である。
「おれはまだ、諦めてなんかいない」
「…………」
家康は何も言わない。その表情には、様々な色が入り混じっていて、彼が何を考えているか分からない。
「おれは必ず紀之助や左近と共に、すぐに転生してやる。……そして、今度こそお前の首を頂く。必ずだ!!」
三成の味方は、いない。無情にも三成の身体に、激しい痛みが走る。だが、それも一瞬だった。
倒れる身体は、もう立ち上がらない。熱が冷める指先は、もう二度と采配を握ることはない。その瞼が再び上がることは、もう無い。
三成の意識が、白い世界に溶けて行く。何もない世界、だがそこにはあった。
無に支配された、安息の世界が。手を伸ばして、精一杯伸ばした指先に、漸く触れられたものが。
左吉――
泣きそうになるくらい懐かしい声が、聞こえた気がした。病で崩れかけた顔の、満面の笑みが見えた気がした。
一六〇〇年 十月一日。
後の世に、“天下分け目の決戦”と呼ばれるようになる関ヶ原の合戦は、徳川家康率いる東軍の勝利という形で、幕を閉じた。
この戦いと共に、戦国と呼ばれる時代が、終止符をうった。そんな凄絶な時代の終わりと共に、二人の武士が戦場に散った。
西軍の大将石田三成。享年四十一歳。そして三成の友、大谷吉継。享年四十二歳。
友のために己の命をかけ、病に軋む身体を引きずり戦場で采配をふるった吉継。そして、友や亡き主君の思いを受け継ぎ、最後まで敵に牙を向けた三成。二人の姿は、私利私欲に染まった戦国という時代には、あまりにも貴く、そして眩かった。
彼らが掲げたものは、綺麗事かもしれない。現実という場所には、無力なものなのかもしれない。
だが、彼らは守ったのだ。大一大万大吉という言葉を、“義”の心を。
もし彼らが率いる西軍が勝っていたら、その後の世は一体どうなっていたのか。
その答えは、果たして――
義武士 【終】