八ノ段
蜩は鳴き声を潜め、草陰に虫の鳴き始める宵。前日に黒田官兵衛と八代又助の二人が、肝試しを行った町ノ坪弾四朗の元に長壁姫の女装をして脅かしに行ってより、丸一日を経た。
毒消しの皿なる家宝を口に咥えて怪死した町ノ坪は、いかなる時に毒を盛られ息絶えたのかその事実を追い求めた官兵衛は、今、侍医津田蓬莱庵の庵の前に来ていた。
ひらりと、目の端に黒い蝶のような物が映るのを見て、官兵衛はその先の暗闇をじっと凝視する。
「あら……」
先に声をあげたのは、暗闇に薄緑の輪郭を浮かび上がらせた女性であった。女性は手にしていた水桶を置いて、官兵衛の方に向き直り、その優美な顔を緩ませる。
「こんばんは」
「こんばんは。また神社の方に、いや、井戸の方に来てたのかい」
官兵衛の言葉に女性は反応せず、その作られた笑みを浮かべるだけである。
「さて、ところで警備上の都合でな、君の身分を明かして貰いたいもんだが。おっと、自分から長壁姫って名乗るならそれでもいいぜ」
その言葉にも答えない女性に対し、官兵衛は左の手を挙げ、それを遠くから見取った又助と禰子が、その背後にお吉、お蝶、新右衛門を連れて現れる。
「嘘……、そんな、貴方が」
そう呟いたのは、口を押さえたお蝶である。容疑者であった後の二人も、同じく驚いている様子だった。
「まぁ、その姿ってのはどうにも人を誤魔化すのに役立つらしいな。小姓って身分なら月代に髪を剃らなくてもいいし、何よりそんな女性よりも女性らしいんじゃ、誰も気づけやしないだろうよ。ええ、菊千代!」
呼ばれた薄緑の紬をまとった菊千代は、一度びくりと身を震わせた後、体勢を直すと、官兵衛達の正面に立ち、優美な顔をより崩して不敵に笑う。
「ちょっと悪戯が過ぎました、官兵衛様をからかった事は謝ります。でも、以前にここで会った時も、気づいておられなかったものですから、つい」
「そこは言ってくれるなよ。アンタみたいな女が、まさか小姓だとは思わねぇさ。ただ、その後の禰子の話を聞いてなるほど、アンタが犯人だとはきっちりと気づいたぜ」
官兵衛は一歩踏み込んで菊千代に近づくと、背後の又助らにも聞こえる大きな声で
「さぁ、アンタの策略、解いてやろうか!」
そう口上を上げた。
「アンタは今日、又助達の尋問の時、泣き腫らして退場したそうじゃないか。アンタはそのままの足で奥の曲輪に行き、亡くなった町ノ坪様を偲びながら部屋を掃除すると、衛兵のオッサンにそう言って中に入った。その辺はオッサンにも聞いて、証言を得てるぜ。さてじゃあ、アンタはなんで奥の曲輪に入ったのか。それは簡単、証拠を隠滅する為さ」
「証拠って、なんなんだ官兵衛」
「菊千代は、今の女の形で俺と会った時、水桶を持ってそこの神社と井戸に水を撒いていた。一見普通の事だが、もしもその桶が奥の曲輪に置いてあった水桶だとしたら意味が違う。それはつまり、犯行に使用された毒の入った水だったから、処分しなくてはいけなかった。違うかい?」
「毒の入った……、水」
口を開いたのは又助でも菊千代でもなく、背後に控えていた新右衛門であった。
「という事は、町ノ坪殿は水桶の水を飲んだのですか!」
「そうだ、聡いぞ新右衛門。俺の推理だとこうだ。まず菊千代は、町ノ坪に呼び寄せられた時、隙を見て、部屋の用心水の水桶に細かく砕いた砒石でも入れ、混ぜた。さて、これはまだ町ノ坪毒殺の第一段階、これで奴さんが死ぬ訳が無い。なんて言ったって、いくら喉が渇いても防火用の用心水を飲もうなんて人間は居ない。菊千代は何事も無かったように、お蝶さんが来た後に適当に料理の毒見をして帰っていった。
この次が町ノ坪毒殺の第二段階に繋がる。菊千代は頃合を見て、お蝶さんが去る時、町ノ坪に伝える事があると言って再び奥の曲輪を訪れた。これは俺も又助も見てるし間違いない。さ、その時アンタは部屋から出てきた町ノ坪になんて言ったんだ?」
官兵衛の言葉に対し、菊千代はただ無言で応じる。その緊張感に耐えられなくなったのか、背後に控えていたお蝶が口を開いた。
「た、確か用心水が尽きているので火の元に気をつけてくれ、と、菊千代さんが」
「違うな。それはお蝶さんが聞いていた訳じゃなく、尋問の時に菊千代が言ったに過ぎない。いくらだって嘘をつけるし、むしろその言葉自体が偽言でもある。その時には、用心水は尽きてないし、むしろ事件後も少しだけだが残っていた。俺はそれを覚えてるぜ。菊千代、アンタは部屋から顔を出した町ノ坪にこう言ったはずだ」
一拍置いた官兵衛の口元を、場の全員が注視する。
「大変だ、先程の女中が苦しみだした。毒かもしれない、そうなれば町ノ坪様も毒を含んでいる。私はこれから、侍医の先生を呼んで参ります。
大体こんな内容だと思うぜ。さぁ、それを聞いた町ノ坪はどうする?」
「焦る、か」
短く答えた又助に他の者も、首を縦に振って同意を示す。
「自分に毒が盛られたかもしれない。普通なら安静にするさ。だがここで、町ノ坪の手元にはある物があった」
「家宝の、毒消しの皿……」
「その通りだぜ禰子。毒消しの皿がどういう物かは解らないがまさか咥えれば毒を消せるような代物だとは思えない。だとすればこうだ。皿に水を湛えて、それを飲み干す事によって解毒効果を得る。これが一般的な方法だと、俺は推理するがな。だがここで菊千代は予め、自分が居る時に飲用の水を殆ど飲むなりして消費しておき、奥の曲輪に飲むに値する水を、一つに絞り込ませる。それが……」
「水桶の中の用心水!」
「さぁ、その通りだお蝶さん! これによって毒を盛られたと疑心に駆られた者以外が決して口に含んだりはしない、神妙不可思議な毒が町ノ坪の口に含まれる。最初から料理や飲料水以外に毒が入ってると想定すれば、あの蓬莱庵の爺さんも解っただろうが、生憎頑固な爺さんだ。毒ってのは、人が口にする物にしか入ってないと思い込んでるからな。とにもかくにも、これで誰一人毒見で死ぬ事なく、一体いつ何処で毒が服されたか解らない、そんな仰天の事件が完成した訳だ」
始終艶やかな笑みを絶やすこと無く、官兵衛の言葉を呑み込んでいた菊千代は、ここで初めて口を開いて
「でもそれは、全て官兵衛様の推論に過ぎませんわ」
と、反論した。
「確かにそうさ、他の誰だって水桶に毒を仕込む事は可能だし、町ノ坪が発作的に水桶の水を飲みたくなるかもしれない。だがよ、これはどうする」
そう言うと官兵衛は懐から、先頃お蝶から受け取った紅白の包みを取り出すと、それを解き、中の綺麗な細工が施された団子菓子を手に取った。菊千代から贈られたが食べはしなかったというそれを、官兵衛は二つに割ると中から五粍程の小さな丸薬を取り出した。
「これ、アンタが仕込んだんだろ?」
「官兵衛様! それは、まさか……」
お吉がそこまで言った所で、お蝶は短く悲鳴を上げその場にへたり込む。
「まぁ俺もそう考えたが、どうにも違うな、これは毒薬なんかじゃない。おそらく下剤かなんか、腹痛を起こす薬だろ、なぁ菊千代?」
「せっかくあげたのに、食べなかったんだね、お蝶さん」
菊千代に優しく話しかけられて、お蝶は身を強張らせる。既にお蝶には菊千代が気の許せる友人ではなく、町ノ坪を毒殺した恐ろしい人物と映っていた。
「ねぇ、なんでそんな物をお蝶さんに渡したの?」
禰子が声をあげる。
「まぁ、これは菊千代の慎重さから来る所だと思うがな、いわば回避策の一つさ。いくら算段を整えたって、最後は人間の采配一つで変わるような不確定な毒殺方法だ。町ノ坪が桶の用心水に目をやらないか、最初から毒消しの皿に気づかないかすると、途端に毒殺は不可能になってしまう。そうなった時、菊千代は無闇に毒が盛られたなどと町ノ坪に言った事になり、後で叱責を受ける事になる。
そうならないように菊千代は普段から菓子をあげていたお蝶に、腹痛を起こさせる薬を入れた団子を渡す。これをお蝶が食べれば、なるほど毒を盛られたように腹を抱えて呻き出す。この様子を見て、菊千代はただの腹痛を毒が盛られたのだと早とちりして、町ノ坪に報告した、おっちょこちょいなカワイイ小姓で一件落着するって訳よ」
「なるほど……」
「だがその慎重さが仇になったみたいだな。この薬を作ったのは蓬莱庵の爺さんだ。こんな小さくても、爺さんは自作の薬って事で印を彫ってやがる。爺さんに聞けば、アンタがこの薬を所望したって事も解るはずだ。まだ惚けるなら、なんでこんな物を作ったのか納得行く説明が欲しいね」
そこまで来て観念したのか、菊千代は脱力して肩を落とすと短く息を吐き、眉尻を下げ幼い表情を作った。その表情に場の一同が気を緩めそうになるも官兵衛だけは確りと菊千代の目を、暗がりの中でも星明りを宿すそれを見据えていた。
「解せねぇなぁ、菊千代。なんでアンタみたいな若いヤツが、爺さんってもおかしくない年齢の町ノ坪を殺すんだ? まるで因縁が無いだろう」
「因縁なら、十分にありますよ」
言葉を切り、菊千代は後ろを向くと悠然と歩き出した。逃げるのか、と想像する者は居なかったが、尾を引く物があったので全員がその後を追う。
やがて十二所神社を越えて薄暗い藪道に入ると、その向こうに苔生した井戸が、夜の光明に仄かに照らされているのが見えた。
菊千代はそこで立ち止まり、井戸を背にして再び官兵衛の方に向き直る。
「私は、ここで生まれました」
「なんだって?」
官兵衛の言葉であるが、誰しも一様に同じ言葉を口中に含む。
「ご存知でしょうか? かつて姫路で小寺に対し謀反を企てた事件が起き、私の母は敵方の間諜として、町ノ坪に無残に責め殺され、この井戸に投げ入れられました。しかし母は死した後も、既に孕んでいた私をその胎で十月十日を育み、この井戸の奥底で産み落としたのです」
「莫迦な、冗談が過ぎるぜ。それ以前に、その話は四十年も前の事だ。今のアンタはどう多く見積もっても二十歳越えたばかりの年増って感じだ。在り得ない話だ」
「明では、霊薬と言われる菊の葉に溜まった露を飲んだ子供が、七百歳になっても、その若い姿のまま生きたという話がございます。ではこの井戸も、十二所神社の由緒ある薬を滴らせる井戸。この井戸の水を飲み続けた身ゆえ、私はこのような若さを保っているのでございます」
又助と禰子だけでなく、お蝶もお吉も新右衛門ですら、菊千代の言葉を信じているのか、既に神妙な目付きで菊千代の方を見ていた。ただ一人、官兵衛だけが訝しげにその言葉を吟味する。
「そうかい、つまりアンタは四十年もその姿で姫路で生き、黒田家に仕え、町ノ坪が来たのを好機と見るや、あの皿を使って母の仇を討ったという訳かい。泣かせる筋立てじゃないか。だがよ、これは曾我の仇討物語じゃねぇんだ。アンタをふん縛って小寺に差し出さないと、決着できそうもないんでな」
言うが早いか官兵衛は脇差を抜いて、菊千代の方に突きつける。その行動に、今まで何処か呆けていた又助と新右衛門も弾かれたように刀を手に取る。じりじりと間合いを詰める三者に対して菊千代は、焦る風無く井戸の縁をなぞりながら
背後で見守るだけの禰子達に一瞥した。
「お蝶さん、楽しかったよ。これからも黒田の家に忠勤を尽くしなさい」
突然菊千代から話しかけられたお蝶は、首を振るでも無く視線を上下左右に散らし、最後に菊千代の方を見て、その口元が大きく裂けていくのを見た。
菊千代が高笑いを始めたかと思うと、たん、と飛び立ち井戸の縁に足をかけた。よもや、とその場の人間が想像をし始める頃には、菊千代の体は井戸の中に消えており、追った官兵衛と又助がぽっかりと開いた、井戸の黒々とした口を覗き込んでいた。
「チクショウ!」
官兵衛の叫びを呼び水に、突如、毒水にも見える黒い流れが井戸より噴き出した。それは無数の蝶である。以前に官兵衛が見た黒い蝶が、数百、数千の群れとなって井戸の底から飛び出してくるのである。
「な、なに!? なんなの! いや!」
少し後、お蝶の悲鳴が止んだ頃に、蝶のうねりも全て空へと散逸していった。後に残った官兵衛は、呆然と菊千代が身を投げた井戸を覗き込む。しかしそこに広がる自身の想像とは違う二つの光景を見て、低く唸ってからその場に腰をついてしまった。
一つは、ぽっかりと開いていたはずの黒々とした井戸の口が、今や取り払われ宵闇の中ですらその二米程下に、しっかとした大地を見受けられる事。ようは菊千代の語ったような、人が投げ入れられて命を落とすような深い井戸でなく、水が湧かなくなった為に埋められた、単なる古井戸でしか無いという事である。長壁姫では無いけれども、皿屋敷事件という陰惨な話に尾ひれが付けられ、この井戸ですら怪談の一部になってしまっていたのだ。
「おい! 菊千代は!? なんで井戸の中に居ないんだ!?」
井戸を覗き込んだ又助が声を張り上げたが、それは浅い井戸の中でこだまする。
もう一つ、官兵衛の腰を砕けさせた光景とは、その井戸の中に追うべき菊千代の姿が無い事であった。
ここで官兵衛には気づくべき事がある。姫路城は黒田家や小寺家にとって重要な城である為、万が一に落城した際に
城の中から外へと安全に逃げられる工夫がいくらか施されているのである。
その一つに、城内の空井戸から外へと続く地下道の存在があり、今官兵衛らの前にある井戸にも横穴があって、酷くうねった道を通った後、やがて南に播磨灘、東に御着城、西に英賀と三方の出口に繋がっているのだ。これらの道に一度入ってしまえば、如何に城を熟知した官兵衛であっても後を追う事など適わない。
つまり官兵衛らはここで、菊千代に見事逃げ遂せられたという事である。
「なんてこった、最後まで偽計だ。まんまと一杯喰わされた訳だ。それこそ、毒の皿をよ」